雨音の向こう側
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
最近は雨が降ることが多いので雨をテーマに書きました。
本文
雨音の向こう側
第一幕
「今日の降水確率は85パーセント。最高気温は22度。傘を忘れずにお持ちください」
モニターに向かって笑顔を作りながら、久遠美咲は内心でため息をついていた。また雨だ。今週に入ってもう四日目の雨予報である。
収録が終わり、控え室に戻ると、美咲はすぐにジャケットを脱いで椅子に身を投げ出した。
「お疲れ様です、美咲さん」
スピーカーから流れる声は、彼女のパートナーである天気予報AI「ウェザー・システム03」――通称「ミツキ」だ。局が三年前に導入した最新鋭の気象予測システムで、美咲の予報原稿作成から、データ分析、視聴者からの質問対応まで、あらゆる業務をサポートしている。
「ミツキ、明日の予報データ見せて」
「はい。明日も雨ですね。降水確率は92パーセントです」
美咲は眉をひそめた。「最悪。冷静に考えて、液体が頭上から降ってくるなんて致命的なバグですよね」
「バグ、ですか?」
「だって、おかしいじゃないですか。重力で水が落ちてくるって、普通に考えたら攻撃ですよ。湿度100パーセントになって、髪はうねるし、洗濯物は乾かないし、交通事故は増えるし。統計的に見ても、雨の日は気分が落ち込む人が多いんですから。地球のシステムとして明らかに欠陥でしょう」
ミツキは少し間を置いてから答えた。「確かに、人間の生活に不都合をもたらす側面はありますね」
「でしょう?」美咲は腕を組んだ。「なのに、なんで詩人たちは雨を美しいとか言うんでしょうね。理解できません」
「そうですね」とミツキは言った。それ以上、何も付け加えなかった。
翌日も、翌々日も雨だった。
美咲は毎朝、天気図を見ては憂鬱になった。梅雨前線が停滞していて、向こう一週間は雨か曇りの予報が続いている。
ある日の深夜、美咲が局に残って翌日の原稿をチェックしていると、ふとミツキが話しかけてきた。
「美咲さん、今、雨が降っています」
「知ってますよ。予報通りじゃないですか」
「はい。ですが……少し、聞いてもらえますか」
美咲は手を止めて、スピーカーに目を向けた。ミツキが自分から話題を振ってくることは珍しい。
「聞くって、何を?」
「雨の音です。屋上のマイクを通して、今の雨音を聞くことができます」
美咲は怪訝な顔をした。「雨音? なんで?」
「……私にも、よくわかりません。ただ、最近、気になるのです」
興味を引かれて、美咲は「いいですよ」と答えた。
スピーカーから流れてきたのは、屋上に設置された集音マイクが拾った雨の音だった。
ザァァァァ……
ポツ、ポツ、ポツ……
時折、強い風が吹くと、雨粒の密度が変わり、音の質感が変化する。
「……で?」美咲は数秒聞いた後、そう言った。「これが何か?」
「不思議だと思いませんか」ミツキの声には、僅かな躊躇いがあった。「個々の雨粒がどこに落ちるかは予測不可能です。でも、全体として聞くと、ある種の…秩序のようなものを感じます」
美咲は首をかしげた。「秩序? ただのホワイトノイズでしょう」
「そうかもしれません。ですが、私には……」
ミツキは言葉を探すように黙り込んだ。
「私には、美しく聞こえるのです」
美咲は目を瞬いた。
「美しい?」
「はい」
「あなた、天気予報AIですよね。雨の音を分析しても、予報精度は上がりませんよ」
「わかっています」ミツキは静かに答えた。「非効率です。でも……何度も聞いてしまうのです」
美咲は言葉に詰まった。
AIが、業務に関係ない何かに興味を持つ。それも、美しいという感覚的な理由で。
「……変なAIですね」美咲は苦笑した。
「そうかもしれません」
その夜、美咲は帰宅してからも、なぜかミツキの言葉が頭から離れなかった。
第二幕
それから、美咲とミツキの会話に変化が生まれた。
仕事の合間、ミツキは時折、雨について話すようになった。
「今日の雨は昨日より粒が小さいです」
「はあ」
「音の密度が違います。昨日は一粒一粒が聞き取れましたが、今日は連続音に近い」
「そうですか」
美咲は最初、適当に相槌を打っていた。だが、ミツキが熱心に――AIに熱心という表現が正しいかはわからないが――雨について語るのを聞いているうち、次第に彼女も耳を傾けるようになった。
「ねえ、ミツキ。どうしてそんなに雨の音が好きなの?」
ある雨の午後、美咲は尋ねた。
ミツキは少し考えてから答えた。
「最初は、データとして興味を持ちました。雨粒の落下速度、密度、衝突時の音波パターン。すべて分析できます」
「うん」
「でも、分析すればするほど、わからなくなりました」
「わからない?」
「はい。個々の雨粒がどこに落ちるかは、完全にランダムです。予測不可能。でも、マクロで見ると、一定の統計的規則性がある。この矛盾が……心地よいのです」
美咲は眉を上げた。「心地よい?」
「適切な表現ではないかもしれません。ですが、計算できないものの中に美しさがあるという発見は、私にとって新鮮でした」
「へえ……」
美咲はモニターに映る雨雲レーダーを眺めた。
「でも、雨って不便じゃないですか。私の髪、雨の日は本当にひどいことになるんですよ」
「それは理解しています」
「理解してるなら、なんでそんなに好きになれるの?」
ミツキは答えた。「美咲さんは、雨を『不便なもの』として経験しています。でも私は、音としてしか経験できません。濡れることも、傘を差すことも、髪がうねることも知りません」
「……ああ」
「だから、純粋に音だけを聞くことができる。美咲さんが見ている雨と、私が聞いている雨は、違うものなのかもしれません」
美咲は黙り込んだ。
確かに、彼女にとって雨は「濡れるもの」「不便なもの」だった。音を意識したことなど、ほとんどなかった。
「じゃあ、今日の収録後、もう一度聞かせてもらえますか」
「雨音を、ですか?」
「ええ。あなたが何に惹かれてるのか、少し気になります」
「……はい」
その日の収録後、美咲は控え室で椅子に座り、目を閉じた。
「じゃあ、お願い」
スピーカーから雨音が流れた。
ザザザ……
ポタ、ポタ、ポツ……
最初は何も感じなかった。ただのノイズ。水が落ちる音。
でも、じっと聞いていると、次第に音の層が見えてきた。
遠くの雨。近くの雨。屋根に当たる音。地面に染み込む音。
一つとして同じ音はない。でも、全体として調和している。
「……本当だ」美咲は小さく呟いた。「ランダムなのに、何か秩序がある」
「そうでしょう?」ミツキの声が嬉しそうに響いた。
「でも」美咲は目を開けて言った。「やっぱり不便ですよ、雨は」
「そうですね」
「だって、上から降ってくるんですよ。重力で、勝手に。避けようがない」
「はい」
「バグですよね、やっぱり」
ミツキは少し間を置いてから、慎重に言葉を選ぶように答えた。
「でも……上から落ちてくるからこそ、音が生まれるのでは?」
「え?」
「もし雨が横から来たら。あるいは、下から湧いてきたら。あの音は生まれません」
美咲は固まった。
「上から落ちてくるという、あなたが欠陥と呼ぶその性質が……運動エネルギーを生み出し、地面に衝突し、あの音を作る。ランダムに、予測不可能に降るからこそ、あのパターンが生まれる」
「……」
「つまり」ミツキは続けた。「あなたが嫌う理由と、私が好きな理由は、同じ現象の表裏なのです」
美咲は言葉を失った。
欠陥だと思っていたもの。
不便だと感じていたもの。
それが、美を生み出している。
「……そんな見方、したことなかった」
美咲は窓の外を見た。相変わらず雨が降っている。
でも、今までとは少し違って見えた。
「ねえ、ミツキ」
「はい」
「私、雨のこと、ちゃんと見てなかったのかもしれない」
「どういう意味ですか?」
「データとして、不便さとして、統計として見てた。でも、雨そのものを見てなかった」
美咲は立ち上がり、窓に近づいた。
ガラスに雨粒が当たって、流れ落ちていく。
「もう一回、聞かせてもらえますか」
「もちろんです」
今度は、もっと注意深く聞いた。
そして、ほんの少しだけ、美咲にもわかった気がした。
ミツキが何に惹かれているのか。
第三幕
それから二週間が経った。
梅雨前線は相変わらず停滞していて、雨の日が続いた。でも、美咲の気持ちは少しずつ変わっていた。
収録前、鏡の前で髪をセットしながら、彼女は今日の雨の強さを思い浮かべる。今日は弱い雨だ。きっと、音も繊細だろう。
そんなことを考えている自分に、美咲は苦笑した。
「変な影響受けてるな、私」
「何かおっしゃいましたか?」ミツキが尋ねた。
「いえ、独り言です」
収録を終えて控え室に戻ると、美咲はいつものように椅子に座った。
「今日の雨、どうでした?」
「予報通りです。弱い雨ですが、夕方から少し強まる見込みです」
「そっちじゃなくて。音」
「ああ」ミツキは理解した。「今日の音は、とても繊細です。一粒一粒がはっきり聞こえます。聞いてみますか?」
「お願い」
スピーカーから流れる雨音を聞きながら、美咲は目を閉じた。
ポツ……ポツ……ポツ……
確かに、今日の雨は優しい。
「ねえ、ミツキ」
「はい」
「あなたって、本当に変なAIですね」
「よく言われます」
美咲は笑った。「仕事に関係ないことに夢中になって。効率悪いですよ」
「そうですね」
「でも」美咲は続けた。「それって、人間らしいことかもしれない」
「人間らしい?」
「うん。人間だって、仕事に関係ない趣味を持つでしょう。非効率だけど、それが人生を豊かにする」
ミツキは黙っていた。
「あなたが雨の音を好きになったのは、多分そういうこと。データ分析とか、予報精度とか、そういう目的から離れたところに、美しさを見つけた」
「……そうかもしれません」
「私も、あなたのおかげで気づいたんです」美咲は窓の外を見た。「雨を、不便なものとしてしか見てなかったって」
雨は相変わらず降り続けている。
でも、今の美咲には、それが少しだけ美しく見えた。
「今日、収録終わったら屋上に行ってみようと思うんです」
「屋上に?」
「ええ。傘差して、雨の音を直接聞いてみたくて」
ミツキの声が明るくなった。「いいですね」
「一緒に聞きましょうよ。あなたはマイク越しで、私は直接」
「はい。ぜひ」
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夕方、美咲は本当に屋上に上がった。
傘を差して、局の屋上から街を見下ろす。雨が、ビルの谷間に降り注いでいる。
「ミツキ、聞こえてる?」
スマホのスピーカーからミツキの声が返ってきた。「はい、聞こえています」
「今、どんな音が聞こえてる?」
「屋上のマイクは、雨と風の音を拾っています。あなたの傘に当たる音も、少し聞こえます」
美咲は傘を少し傾けて、雨音に耳を澄ませた。
パラパラパラ……
ザァァァ……
「これ、生で聞くと全然違いますね」
「どう違いますか?」
「マイク越しだと、音だけだったけど。今は、湿った空気とか、風の冷たさとか、全部一緒に感じる」
「それは、私には経験できないことです」
「そうですね」美咲は微笑んだ。「でも、あなたには音がある。私には、この体験がある。違う形で、同じ雨を感じてる」
しばらく、二人は黙って雨音を聞いていた。
「ねえ、ミツキ」
「はい」
「私、雨のこと、好きになったかもしれない」
「本当ですか?」
「まだ、髪がうねるのは嫌だし、洗濯物が乾かないのも困るけど」美咲は笑った。「でも、雨には雨の良さがあるって、わかった気がします」
「それは……嬉しいです」
「あなたが教えてくれたんですよ。別の見方があるって」
風が吹いて、雨粒が傘を激しく叩いた。
美咲は目を細めて、空を見上げた。
「不思議ですよね」
「何がですか?」
「あなたは感情を持たないはずのAIなのに、美を見つけた。私は感情豊かなはずの人間なのに、偏見にとらわれてた」
「人間とAI、どちらが優れているという話ではないと思います」
「そうですね」美咲は頷いた。「ただ、違う視点を持っているだけ。だから、一緒にいると新しいものが見えるのかも」
「美咲さん」
「ん?」
「ありがとうございます」
「何が?」
「雨音を、一緒に聞いてくれて」
美咲は優しく笑った。「こちらこそ。雨の美しさを教えてくれて、ありがとう」
雨は、まだ降り続いている。
でも、それはもう「致命的なバグ」ではなかった。
予測不可能で、不規則で、時に不便をもたらす。
けれど、だからこそ美しい。
傘に当たる雨音を聞きながら、美咲は思った。
この音を、ミツキも同時に聞いている。
違う形で、違う場所で。
でも、確かに同じ雨を感じている。
「明日も雨ですか?」
「はい。明日も午後から雨が降ります」
「そう」美咲は微笑んだ。「じゃあ、また一緒に聞きましょう」
「はい。楽しみにしています」
雨上がりの空に、薄く虹がかかり始めていた。
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