会いに行けない
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
医療ケア児を産んだ母親は病院に子を放置する。捨てたわけじゃない。会いに行けないの。
本文
「会いに行けない」
靴を履く。
玄関に立つ。
そこまでなら、できる。
そこから先へ、脚が進まない。
病院は、電車で十五分。
バスを使えば、さらに近い。
毎日通ってください、と優しい声で言われた。
「刺激は大切です」「母子の接触が回復を促します」
医療者の言葉は正しい。
きっと、正しい。
でも、身体が拒む。
その先にある光景を、想像しただけで息が詰まる。
──私は、あの子の顔をまっすぐ見られなかった。
生まれたばかりのあの瞬間。
産声は、弱く、濁っていた。
抱かせてもらうこともなく運ばれ、
その日のうちに別の病棟に移された。
「小さく生まれています」「内臓に問題があります」
「染色体の異常です」「しばらく入院です」
静かな声ばかりだった。
ドラマで聞くような激しい音楽も涙もなかった。
ただ、事務的な説明と、白い光。
なぜだろう。
あの時間の記憶は、端から欠けている。
◇
時間が経つほど、
“母親”の役割が重くなる。
「面会できますよ」
「抱っこしてあげましょう」
「声をかけてあげて」
わかってる。
頭では。
でも、胸の奥で、何かがぎゅっと固まっている。
──あの子は私の子だ。
──でも、そう思えない瞬間がある。
その事実が、耐えられない。
夫は仕事を理由に家を空けがちになった。
話し合いをしようと声をかけても、
「またあとで」「急ぐんだ」と、
玄関の外へ消えていく。
私は家に残される。
静かな部屋。
使われないベビーベッド。
未開封の小さな服。
「行かなきゃ」と思う。
「会いに行ってあげて」と声がする。
そのたびに、息が苦しくなる。
もし、あの子を抱いたら、
私は母にならなければならない。
母として、あの子を受け入れなければならない。
でも、できない。
怖い。
「かわいいと思えない」
その言葉を心の中で自覚するたび、
胸が裂けるように痛む。
こんな私が、母親でいいの?
◇
玄関に立っている。
靴は履いたまま。
バッグも肩にかけた。
スマホの画面には、病院の番号。
呼ぼうと思えば、すぐ呼べる。
でも、身体が動かない。
ドアの向こうを想像する。
冷たい風。
バス停。
病院の建物。
保育器。
小さく弱い鼓動。
点滴。
チューブ。
泣き声。
それに触れる、自分の手。
そのイメージが、胸を押しつぶす。
「行かないと、いけない。行けない…」
声が震える。
自分の言葉なのに、遠く聞こえた。
背中の壁が、じわりと冷たい。
視界の端がかすむ。
呼吸が浅く、爪の色が薄くなる。
“母親なのに”
その呪いの言葉が、また喉元に絡む。
いっそ、何もかもなくなればいい。
子どもを産んだあの日から、
私は何度もそう思った。
でも、あの子は生きている。
病院のあの部屋で、
小さな身体で、
今日も何かと戦っている。
私は、それを見に行けない。
◇
床に座り込む。
ひざが折れた。
玄関のタイルが硬い。
泣き声は出ない。
ただ呼吸だけが荒い。
バッグが肩から落ち、
金具が乾いた音を立てる。
あの子が、泣いているかもしれない。
静かに眠っているだけかもしれない。
私の声を待っているのかもしれない。
何も、感じていないのかもしれない。
どれも、想像するだけで苦しい。
玄関の外は明るい。
春の光が差し込んでいる。
芽吹く季節だというのに、
私の中は凍ったままだ。
「……どうすればいいの」
誰に聞くでもなく呟く。
返事はない。
静寂だけが広がる。
息を整えようとしても、
涙は出ない。
泣けば少しは軽くなるのだろうか。
それすらもわからない。
目を閉じる。
まぶたの裏に、
あの子の、小さな顔が浮かぶ。
知らない人のような顔。
でも、確かに私の子。
震えが止まらなかった。
◇
今日も、出られない。
玄関で立ち尽くし、
足が前に出ない。
あの子に会いに行けない母親。
その事実が、胸を締めつける。
私は弱い。
醜い。
ずるい。
それでも、
それでも、
今日もこうして、
玄関まで来た。
──それだけが、いまの私のすべてだ。
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