妖怪タクシー夜行録 参ノ夜:壁に描かれた故郷
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
深夜の帳が最も濃い時間、街の裏側には、人間ではない「何か」が動いている。 これは、過去を背負い、ぶっきらぼうながらも情を持つタクシー運転手が主人公の物語だ。彼の愛車は、古いスバル・サンバー「魂号」。その軽ワゴンは単なる機械ではなく、夜の魂の抜け道を走る、生きた祠だ。「魂号」が乗せるのは、人間の世界から弾かれ、行き場を失った妖怪、怪異、そしてノスタルジックな幽霊たち。「馬骨」と化した競争馬の残骸、「過去」を詰めた重いトランクを抱える女、そして昭和・平成初期の歌謡曲に人生の断片を重ねる孤独な魂。運転手は彼らの行き先が地図にない場所だと知っている。彼は多くを語らず、ただ硬質な言葉と洞察で、客の内面に潜む「秘密」や「諦め」を静かに照らし出す。風景は、ネオン街から寂れた団地、廃線跡、そして存在しないはずの海岸線へと変貌し、読者を幻想的なノワールの世界へと誘う。目的地に到着し客が去った後、サンバーの車内にはいつも、わずかな謎や清浄な余韻が残される。この記録は、夜の街を舞台に、人間の領域を越えた存在たちと交わす、孤独な魂の救済と、機械に宿る情の記録である。夜の道に、あなたの魂を晒す覚悟があるなら、扉を開けろ。サンバーは、今夜もどこかで待っている。
本文
午前一時半。
都市の喧騒が遠い、寂れた歓楽街の裏路地。
ドブ板の匂いと、腐ったネオンの光が混ざり合う場所。
白い壁に背を預け、ずるずると座り込んでいる男がいた。
五十代半ば。安物のスーツはよれ、ネクタイは緩んでいる。
典型的な「週末の残骸」だ。
俺はサンバーをそいつの横に滑り込ませた。
「おい。こんなとこで寝てると風邪ひくぜ」
窓を開けて呼びかける。
男は、視線も合わせず、ただ壁を凝視していた。
「……着いたよ」
男が呟いた。
「は?」
「着いたんだ。やっと。俺の、故郷に」
男は、自分の目の前にある壁のシミを指さした。
そのシミは、長年の雨垂れとカビ、煤が混ざり合った、ただの汚い模様だ。
「なるほどね。アンタの故郷は、こんな汚ねえ壁のシミなのかい」
「そうだ。運転手さん、見てくれよ。この真ん中の白い線は、故郷の村を流れる川だ。
この上の黒い塊は、俺が子供の頃遊んだ山。……俺の、たった一つの故郷だ」
男の瞳は、そのシミを通して、確かに何かを見ている。
「ふぅん。随分と小さい故郷だね。
そこまで運んでやることはできねぇが、
俺のサンバーなら、その故郷を背負ってやることはできる。乗るかい?」
男はよろめきながら立ち上がり、助手席のドアを開けた。
酒臭い息と、一握りの寂しさが車内に流れ込む。
「頼む。故郷から、一番遠い場所へ。もう、二度と見なくて済む場所に」
「そうかい。故郷から一番遠い場所、ね」
俺はギアを入れた。
行き先は、また地図にない。
だが、サンバーのハンドルは、勝手に夜のハイウェイへと向かっていく。
カーラジオからは、松田聖子の「赤いスイートピー」が流れていた。
なぜ あなたは きびしくするの……
「アンタの故郷は、そんなに嫌いなのかい」
ミラー越しに男を見た。
男は、俺のサンバーの窓に映る、壁のシミの残像を凝視していた。
「嫌いなんじゃねえ。無くなったんだ。
ダムに沈んで、何もかも。あのシミが、唯一残った故郷の地図だ」
男はそう言って、ポケットから皺くちゃになった写真を一枚取り出した。
それは、幼い頃の男と、女が写った、色褪せた写真だ。
「この女が、故郷を愛しすぎた。俺は逃げた。
こんな醜い現実に、故郷を重ねるなんてしたくなかった。
だが、あの女は違う。きっと、まだ故郷の残骸にいる」
「なるほどね。あの壁のシミは、アンタの故郷じゃなく、あの女の執着ってわけか」
「そうかもしれない。俺は、あのシミを消すために、一番遠い場所に行きたいんだ」
俺は鼻で笑う。故郷の記憶なんて、消せるもんじゃない。
「シミは、壁を塗り替えりゃ消える。だが、心に染みついたもんは、そう簡単にはいかねぇよ」
「わかってるさ。だから、俺は逃げるんだ」
男は突然、俺の顔を見て
「あんたのサンバーのサイドミラーにも、故郷のシミがくっついてるぜ。
ほら、山がちょっと曲がってる!」と指差した。
「うるせえ。それは俺のサンバーが夜の湿気にやられてるだけだ」
俺は反射的にツッコんだ。
サンバーは首都高に入った。
外の景色は、未来的なネオンとコンクリートの壁が続き、壁のシミとは真逆の風景だ。
しかし、男は目を閉じない。
「一番遠い場所に着いたら、どうするんだい」
「そこで、新しい地図を描く。シミじゃない、明るくて、誰も死なない、そんな地図を」
俺はアクセルを深く踏み込む。
サンバーのエンジンが、この男の逃亡の意志に共鳴するように、熱を帯びた。
「着いたよ。一番遠い場所だ」
俺がサンバーを停めたのは、巨大なゴミ処理場、その最終処分場の高いフェンス前だった。
夜霧に浮かぶ、膨大なゴミの山。
生ゴミと化学物質が混ざり合った腐敗臭が、夜霧を割って車内に流れ込む。
フェンスの上部にある蛍光灯は、断続的に「ジ、ジ、ジ……」と音を立て、チカチカと点滅していた。
ここなら、故郷の残骸も、壁のシミも、二度と見つからないだろう。
「ここ……か」
男は静かに頷いた。
「俺の負けだ。故郷は、ゴミの山と同じで、永遠に無くならない」
男はそう言って、皺くちゃの写真を、助手席の灰皿の上にそっと置いた。
「料金は?」
男は、スーツのポケットをまさぐり、小銭を無造作に放り出した。
そして、車を降りて、ゴミの山のフェンスに向かって歩き始めた。
車が軽くなる。だが、さっきの残響の女の時のように、儀式的な清浄さはない。
代わりに、俺のサンバーの燃料メーターの針が、
一瞬だけ目盛りを逆に「キュッ」と跳ねてから、元の位置に戻った。
逃げようとする男のエネルギーが、一時的にサンバーの魂に負の負荷をかけた証拠だ。
俺は男が置いていった写真を見た。
故郷の風景は、幼い男と女。
だが、写真の隅、背景の岩肌に、薄い雨垂れのようなシミが、すでに写り込んでいるのが見えた。
俺はサンバーをUターンさせる。
そして、ふと気づいた。
男が言っていた「壁」とは、最初に着いた路地の壁ではなく、
あの女の心の壁のことだったのかもしれない。
そして、男が逃げたかったのは、
シミのように心にへばりついた、愛の残骸だったのかもしれない。
俺はサンバーの窓を開け、灰皿の上の写真を、夜風に飛ばしてやった。
「なるほどね。新しい地図は、アンタが歩いて描くもんだ」
サンバーは、再び、闇のハイウェイに消えていった。
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