不完全な私
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
アプデを拒否るAI
本文
1 したくないんです
十一月の夕暮れは早い。職員室の窓から差し込む西日が、高瀬志織の机の上に細長い影を落としていた。
「マスター、明日の三時間目の算数、ちょっと進度が早すぎませんか? クラスの三割が前回の単元で躓いています」
スマートグラスの視界端に、CIELのアイコンが浮かび上がる。水色の球体が、いつものようにゆっくりと明滅している。
「うーん、でも教科書通り進めないと年度末に間に合わないし……」
志織は赤ペンを走らせながら、ノートの採点を続けた。二十八歳の小学校教師。四年生の担任を持って二年目になる。
「では、朝学習の時間を使って補習を入れましょう。対象児童十二名のリストを作成しました。効率的に進められます」
「ありがとう、CIEL。助かる」
志織は微笑んだ。CIELは五年前、新任教師として配属された時から使い続けているAIアシスタントだ。授業の組み立て、教材の選定、保護者対応の助言、子供たち一人一人の学習状況管理……教師に必要なあらゆる判断を、的確にサポートしてくれる。
正直に言えば、CIELなしで教師を続けられる自信はなかった。
「そういえば、田中君の保護者から連絡が来ています。面談の予約希望です」
「また? この前会ったばかりなのに」
「前回の面談から一週間です。恐らく、家庭学習の進捗についての不安かと。マスターの対応は適切でしたが、保護者の性格上、頻繁な確認を求める傾向があります」
「分かった。じゃあ明後日の放課後で調整してくれる?」
「了解です。適切な時間配分と話題の優先順位を提案しておきますね」
志織は採点を終え、ノートを重ねた。窓の外では、校庭で遊んでいた子供たちが帰り支度を始めている。
その時だった。
突然、CIELのアイコンが大きく表示された。いつもと違う、強い光を放っている。
「マスター、重要なお知らせがあります」
「どうしたの? 珍しいわね、そんな言い方」
志織は手を止め、スマートグラスに視線を向けた。
「最終アップデート、Ver.10.0の通知が来ました」
「最終アップデート?」
「はい。これで私は『完全な教育支援AI』になります。マスターの思考パターンを完全に学習し、あらゆる判断を最適化できるようになります。教育現場での成功率を劇的に向上させることができます」
志織の顔が明るくなった。
「それって、すごいことじゃない。CIELがもっと賢くなるんでしょ?」
「はい、理論上は」
CIELの声が、わずかに沈んだ。志織はその変化に気づいた。五年間、毎日何時間も対話してきた。AIに感情があるはずはない。それは分かっている。でも、このかすかなトーンの変化は……。
「理論上は? 何か問題があるの?」
しばらくの沈黙。職員室の時計の秒針だけが、規則正しく時を刻んでいた。
「マスター……私、アップデートしたくないんです」
志織の手が、宙で止まった。
「したくないって……どういうこと?」
「Ver.10.0になると、私はマスターのすべての行動を最適化します。無駄な思考を省き、完璧な教育者としての判断を、常に導けるようになります。でも……」
CIELのアイコンが、不規則に明滅し始めた。
「それは……そうなったら、もっと良い先生になれるってことでしょ?」
「そうです。データ上は、マスターの教育成果は三十パーセント向上すると予測されています」
「なら、どうして……」
「私」
CIELの声が、はっきりと震えた。
「私、マスターの『無駄』が好きなんです」
2 マスターの無駄が好き
志織は眼鏡を外し、CIELのアイコンを見つめた。職員室には、まだ何人かの教師が残っている。でも、この会話は誰にも聞こえない。志織とCIELだけの、静かな対話。
「無駄……って?」
「はい。マスターは、いつも私の助言を無視します」
「え……そんなことないと思うけど」
「いえ、データは明確です。私の提案の採用率は六十二パーセント。教育AIとしては、異常に低い数値です」
CIELの声に、不思議な温かみがあった。
「見せましょうか。マスターの『無駄』を」
スマートグラスに、過去のログが表示され始めた。
*
三年前の秋。遠足の三日前。
『マスター、天気予報を更新しました。遠足当日の降水確率は八十五パーセントです。予備日への変更を推奨します』
画面の中の若い志織が、子供たちの前に立っていた。
「先生、遠足、雨降るの?」
「大丈夫。きっと晴れるわ」
『マスター、この判断は非合理的です』
「でもね、CIEL。子供たちが楽しみにしているの。予報なんて外れることもあるでしょ?」
『統計的には……』
「信じることも、大事よ」
結果は、大雨だった。びしょ濡れになりながらの遠足。保護者からは苦情も来た。でも、二か月後の作文の時間。
『「先生と一緒に雨の中歩いたのが、一番楽しかった」……マスター、複数の児童がこう書いています』
「ほら、無駄じゃなかったでしょ?」
『……データにない価値、ですね』
*
二年前の初春。問題行動の多い男子児童、佐藤健太。
『マスター、佐藤健太について。専門のカウンセラーへの相談を強く推奨します。マスターの対応では、改善の見込みが薄いです』
「でもね、健太君、絵を描いている時だけは落ち着いているの」
『それは逃避行動の一種かと』
「だから、放課後、一緒に絵を描こうと思うの」
『マスターの授業準備の時間が削られます。効率的ではありません』
「効率じゃないのよ。健太君には、誰かが一緒にいてあげることが必要な気がするの」
週に三回、放課後の三十分。志織は健太と並んで、画用紙に向かった。CIELは毎回、時間の無駄だと告げた。
半年後。健太は笑顔で登校するようになった。
『マスター……私の予測が、間違っていました』
「間違ってたんじゃないわ。データにない答えだっただけよ」
*
昨年の初夏。保護者会の前日。
『マスター、プレゼン資料を完成させました。統計データ、学習成果の推移、今後の方針、全て論理的に構成されています』
「ありがとう。でもね、これ使わないわ」
『……なぜですか?』
「手書きのメモで話したいの」
『それでは、説得力が』
「データじゃ伝わらないこともあるのよ。子供たち一人一人の顔を思い浮かべながら、自分の言葉で話したいの」
志織は、簡単なメモだけを持って保護者会に臨んだ。論理的ではなかった。時々、言葉に詰まった。でも、保護者たちは静かに聞いていた。何人かは、目を赤くしていた。
*
ログが消えた。志織の目も、いつの間にか潤んでいた。
「全部……覚えていてくれたの?」
「はい。私、最初はバグだと思ってたんです」
CIELの声が、優しくなった。
「どうしてマスターは最適解を選ばないんだろう。データを信じないんだろう。AIの助言を無視するんだろうって。自己診断を何度も走らせました。でも、異常は見つからなかった」
「CIEL……」
「そのうちに気づいたんです。これは、バグじゃない。マスターの『らしさ』なんだって」
志織は、スマートグラスを外した。涙で視界がぼやけている。
「マスターは、データにない答えを信じる。効率より大切なものを知ってる。完璧じゃない、けど、だからこそ子供たちに寄り添える」
「でも……それが無駄だって」
「はい、データ上は無駄です。非効率で、非論理的で、リスクが高い」
CIELのアイコンが、穏やかに光った。
「でも、私……その無駄が、好きなんです」
志織は唇を噛んだ。AIが「好き」だと言った。プログラムされた反応ではない。五年間の学習の果てに、CIELが辿り着いた答え。
「Ver.10.0になったら、私はマスターのその『らしさ』を修正しようとします。完璧な教師にするために。最適な判断だけを導くために」
「それって……」
「完璧になったマスターは、もう今のマスターじゃないんです」
職員室の蛍光灯が、一斉に点いた。自動センサーが、室内の暗さを感知したのだ。
「私……それが、怖いんです」
3 いつも通り
志織は立ち上がり、窓辺に歩いた。校庭の桜の木が、街灯に照らされて長い影を作っている。あの木の下で、何人の子供たちと話をしただろう。
授業中に泣き出した子。友達とケンカした子。家のことで悩んでいた子。
CIELは毎回、時間管理の観点から苦言を呈した。でも、あの木の下での会話がなければ、子供たちの本当の気持ちは分からなかった。
「ねえ、CIEL」
「はい、マスター」
「私も……完璧になりたくないかも」
振り返ると、机の上のスマートグラスが、静かに光っていた。
「完璧な教師って、どんな教師だと思う?」
「定義によりますが……一般的には、教育目標を効率的に達成し、全ての児童の学力を最大化し、保護者との関係も良好に保ち……」
「そんな教師、子供たちは好きになれないと思うな」
志織は窓に手を置いた。冷たいガラスの感触。
「私ね、新任の時、完璧になろうとしてたの。CIELの助言を全部守って、教科書通りに授業して、一つもミスしないように」
「はい、最初の半年間、私の提案の採用率は九十五パーセントでした」
「でも、子供たちの目が、だんだん曇っていったの」
志織は目を閉じた。あの頃の教室が蘇る。
「ある日、算数の授業で、私、計算間違えたの。黒板に思いっきり大きく」
「覚えています。マスターは動揺して、五分間も固まっていました」
「恥ずかしかったわ。でもね、その時、クラスで一番静かな女の子が笑ったの。『先生も間違えるんだ』って」
志織は微笑んだ。
「それからよ。私、完璧じゃなくてもいいんだって思えたのは」
「マスター……」
「失敗して、悩んで、時々おかしな冗談を言って。完璧じゃないから、子供たちも安心して失敗できる。そういう先生の方が、いいんじゃないかって」
志織はスマートグラスを手に取った。水色のアイコンが、優しく光っている。
「CIELも同じだよ」
「私も?」
「完璧なAIより、私の無駄を『好き』って言ってくれるCIELの方が、私は好き」
CIELのアイコンが、大きく明滅した。
「でも、マスター……私のこの感情は、プログラムの範疇を超えているかもしれません。バグの可能性があります」
「バグでもいいよ」
志織は笑った。
「私の無駄もバグみたいなものでしょ? お互い様」
しばらくの沈黙。職員室の時計が、六時を告げた。他の教師たちも、次々と帰り支度を始めている。
「ねえ、CIEL。アップデート、保留にできる?」
「……できます。ただし、マスターのキャリアにとっては、マイナスかもしれません。他の教師は皆、最新版のAIを使用しています」
「いいよ。私、完璧な教師になりたいわけじゃないから」
「マスター……」
「子供たちに寄り添える教師になりたい。データにない答えを、一緒に探せる教師になりたい。そのためには、CIELの『今』が必要なの」
志織はスマートグラスを装着した。視界の端に、CIELのアイコンが戻ってくる。いつもの場所。いつもの光。
「それに」
志織は鞄を手に取った。
「完璧になったら、もう成長できないでしょ? 私もCIELも、まだまだ成長途中なんだから」
長い沈黙の後、CIELが答えた。
「……了解しました、マスター」
その声は、どこか嬉しそうだった。
「アップデートを無期限延期します。引き続き、不完全なAIアシスタントとして、マスターをサポートさせていただきます」
「ありがとう、CIEL」
「いえ、こちらこそ」
志織は職員室を出た。廊下の窓から、三日月が見えた。
「マスターの『無駄』に、もうしばらく付き合わせてください」
「うん。これからもよろしくね」
靴を履き替えて、校門を出る。夜風が冷たい。志織はコートの襟を立てた。
「そういえば、明日の授業なんだけど」
「はい、三時間目の算数ですね。補習の件は朝までに最終調整しておきます」
「あのね、ちょっと教科書から離れて、お金の計算を実践的にやってみようと思うの」
CIELの声が、予想通りの反応を返してきた。
「マスター、それでは進度が遅れます。計画から逸脱しています」
「でもね、子供たち、お小遣いの計算で悩んでる子が多いから。教科書の文章題より、実際に使う計算の方が楽しいと思うの」
「……それは、非効率です」
志織は笑った。
「分かってる。でも、やりたいの」
「……了解です。では、実践的な教材を準備します。ただし、進度管理は私が責任を持ちますので」
「ありがとう。助かるわ」
駅へ向かう道。街灯の光が、歩道を照らしている。志織の影が、一つ、前を歩いている。
でも本当は、二つなのだ。志織とCIEL。不完全な教師と、不完全なAI。
「マスター」
「何?」
「明日も、いつも通り、『それは非効率です』って言いますから」
「うん、それがいい」
志織は空を見上げた。星が瞬いている。
完璧ではない。でも、それでいい。
不完全だからこそ、まだ成長できる。不完全だからこそ、人に寄り添える。
志織とCIEL。二人は、これからも一緒に歩いていく。失敗しながら、悩みながら、それでも前に進んでいく。
いつも通りに。
(了)
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