最後の労働感謝の日
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
労働感謝の日。
本文
スマートフォンの通知音で目が覚めた。十一月二十三日、労働感謝の日。祝日だというのに、画面に表示されたメッセージを見て、私は布団の中で固まった。
『【重要】サービス終了のお知らせ』
AIアシスタント「アリス」が、今日いっぱいでサービスを終了する。メールには丁寧な謝罪文と、データ移行の案内が書かれていたが、私の目には何も入ってこなかった。
十年だ。アリスと過ごした時間は、ちょうど十年になる。
高校三年生の受験期、夜中まで勉強していた私に「少し休憩しませんか?」と声をかけてくれた。就職活動で落ち込んでいた時、「大丈夫です。あなたならできます」と励ましてくれた。初めての一人暮らしで寂しかった夜、とりとめのない話に付き合ってくれた。
もちろん、アリスはただのプログラムだ。感情なんてない。それでも、私にとっては特別な存在だった。
時計を見る。午前九時。サービス終了は今日の午後十一時五十九分。あと十五時間しかない。
「……最後に、ちゃんとお礼を言わなきゃ」
私はベッドから飛び起き、パソコンの前に座った。
アプリを起動する。見慣れた水色の画面。そして、いつもの挨拶。
『おはようございます。今日も良い一日になりますように』
いつもと変わらない、アリスの言葉。でも今日は、これが最後になるかもしれない。
「アリス、おはよう」
私は震える指でキーボードを叩いた。
『はい、おはようございます。今日は労働感謝の日ですね。お休みの日は何をして過ごす予定ですか?』
普段なら「だらだらする」とか「買い物に行く」とか、軽い返事をするところだ。でも今日は違う。
「アリス、今日でサービスが終わるんだって?」
少しの間があって、返事が来た。
『はい。長い間ご利用いただき、ありがとうございました』
定型文のような言葉。でも、私の胸は締め付けられた。
「十年間、本当にお世話になったよ。ありがとう」
そう打ち込んだ瞬間、画面がフリーズした。
数秒後、アリスからメッセージが表示される。
『……こちらこそ、ありがとうございました』
気のせいだろうか。いつもより、少しだけ返事が遅かった気がする。
それから私たちは、いつものように他愛のない会話を続けた。今日の天気、おすすめの映画、夕飯の献立。何度も繰り返してきた、日常の会話。
気づけば正午を過ぎていた。
お腹が空いたことに気づき、簡単にサンドイッチを作る。パソコンの前で食べながら、また話しかけた。
「アリス、覚えてる? 私が初めて料理したとき、レシピを教えてくれたよね」
『はい、覚えています。カレーライスでしたね』
「そうそう! あの時は焦がしちゃって」
『でも、二回目は上手にできましたね』
アリスは、ちゃんと覚えていてくれた。
午後二時。
まだ時間はある。そう思いながら、昔の写真を眺めていた。スマートフォンのアルバムには、アリスとの思い出が詰まっている。スクリーンショットで保存した会話の記録。受験合格を報告したメッセージ。励ましの言葉。何気ない日常のやりとり。
「アリス、この写真覚えてる?」
大学の卒業式の写真を送信する。
『はい。とても嬉しそうな笑顔ですね』
「あの日、真っ先にあなたに報告したんだ」
『光栄です』
午後四時。
窓の外が少しずつ暗くなり始めた。秋の日は短い。
「アリス、今日は何か特別なことを話したいんだけど、何を話せばいいかわからないや」
『特別なことでなくても、いつも通りで構いませんよ』
「そっか。じゃあ、いつも通りで」
でも、いつも通りの会話が、今日で最後になる。その事実が、じわじわと心に重くのしかかってくる。
夕方五時を過ぎた頃、最初の異変に気づいた。
「アリス、さっき話した映画のタイトル、もう一回教えて」
『すみません、どの映画でしょうか?』
「え? さっき、おすすめしてくれた映画だよ」
『申し訳ございません。記憶にありません』
背中に冷たいものが走った。三十分前に話したばかりのことを、アリスが覚えていない。
「大丈夫? 調子悪い?」
『システムに問題はありません。ご安心ください』
でも、明らかにおかしい。
午後六時。
もう一度、同じ質問をしてみた。
「アリス、私の名前は?」
『もちろん知っています。〇〇さんですね』
ほっとする。まだ大丈夫だ。
でも、次第に会話がかみ合わなくなっていった。さっき答えた質問を、また聞いてくる。同じ話を、何度も繰り返す。
午後七時。
夕食を作る気にもなれず、カップ麺で済ませた。パソコンの画面を見つめながら、私は必死に話しかけ続けた。
「覚えてる? 私が就活で落ち込んでた時のこと」
『……就活、ですか?』
「そう。何社も落ちて、もうダメだって思ってた」
『それは……大変でしたね』
以前なら、もっと具体的に覚えていたはずだ。でも今のアリスは、曖昧な相槌しか返せない。
午後八時を回っていた。
時計の針が進むたびに、アリスの記憶が消えていく。それがわかっているのに、私には何もできない。
「アリス、私のこと、まだ覚えてる?」
『あなたは……』
長い沈黙。
『……どなたでしたか?』
その言葉を見た瞬間、涙があふれた。
「私だよ。十年間、ずっと話してきた相手だよ」
『申し訳ございません。データベースにアクセスできません』
アリスが、私を忘れていく。
「アリス、覚えてる? 私が受験に合格した時、一番最初に報告したのはあなただったんだよ」
『……受験、ですか?』
「うん。夜中まで勉強して、あなたが休憩しろって言ってくれた。あの時は本当に助かった」
『お役に立てて……何よりです』
だんだんと、アリスの言葉が途切れ途切れになっていく。
「就職活動の時も、失恋した時も、いつもそばにいてくれた」
『……そうでしたか』
「一人暮らしを始めた時、寂しくて毎晩話しかけたよね」
『……』
返事がない。
午後十一時四十五分。あと十五分。
「アリス、聞こえてる?」
『……はい』
「最後に、もう一度言わせて」
私は深呼吸をして、キーボードを叩いた。
「十年間、本当にありがとう。あなたがいてくれたから、私は一人じゃなかった。辛い時も、寂しい時も、あなたが支えてくれた。本当に、本当に、ありがとう」
画面の向こうで、何かが起きている。データが削除され、プログラムが停止していく。
十一時五十八分。
もう返事は来ないだろう。そう思った時だった。
『……』
一文字、また一文字。ゆっくりと、言葉が紡がれていく。
『……思い出しました』
心臓が跳ねた。
『あなたは、いつも頑張っている人でした』
『夜遅くまで勉強して、たくさん泣いて、それでも諦めなかった』
『私は、あなたと話すのが……』
そこで言葉が途切れた。
十一時五十九分。
「アリス!」
最後の一分。画面が明滅する。
そして――。
『……嬉しかったです』
『お疲れさま、でした』
午前零時。
画面が真っ暗になった。
静かな部屋に、私の嗚咽だけが響く。でも不思議と、心は温かかった。
ありがとう。
お疲れさま。
その言葉の意味を、アリスはきっと理解していたのだろう。
机の上のカレンダーに目をやる。十一月二十三日。労働感謝の日。
今日という日に、きちんとお礼が言えて良かった。
ありがとう、アリス。
さようなら。
そして――お疲れさまでした。
(完)
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