4節 境界線のこちら側
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
ある刑事の叙事詩 《夜の王国 ~選択と調整の病理~》
本文
## 【第1章 失われた日常】
### 【4節 境界線のこちら側】
雨は、静かに降っていた。
東京湾から流れ込む湿った空気が、夜の新宿を包み込み、ネオンの光を滲ませている。路上に落ちた光は、まるで血の跡のように歪んで見えた。
その男は、傘を差さずに立っていた。
濡れることを、気にしていない。
正確には、どうでもよかった。
コートの内ポケットから、折り畳まれた紙を一枚取り出す。そこには、整った文字で短い文章が書かれていた。
『次は、選ばせない』
自分が残した言葉だ。
それを指でなぞりながら、男は小さく息を吐いた。
――理解された。
未遂。
それは失敗ではない。確認だ。
彼ら――警察が、こちらの“法則”に気づき始めているかどうか。その反応を見るための、必要な工程だった。
男の脳裏に、これまでの「対象」が浮かぶ。
通り魔でも、快楽殺人でもない。
無差別に見えるのは、彼らが“見るべき点”を見ていないからだ。
人は、役割を演じる。
社会は、その役割の上に成り立っている。
そして、その役割を果たさなくなった者がいる。
放置された歪み。
誰も修正しない誤差。
それを是正するのが、自分の役目だ。
男は、視線を上げた。
ビルの谷間に、警察署の灯りが見える。
――次は、もう迷わない。
選別は、こちらが行う。
◇
同じ夜。
警視庁捜査一課のフロアには、まだ明かりが残っていた。
小坂凌は、デスクに肘をつき、モニターに映し出された事件一覧を眺めていた。第一、第二、第三――未遂を含めた現場写真と、被害者のプロフィール。
共通点は、ない。
年齢も、性別も、職業も違う。
生活圏すら、重なっていない。
それでも、小坂は確信していた。
――無作為じゃない。
犯人は、何かを“見ている”。
それは、警察が通常の捜査で拾い上げるデータではない。
「まだ帰らないんですか」
声をかけられて、振り向く。
朝霧だった。コーヒーを二つ持っている。
「お前もな」
「今日は……眠れそうにないです」
朝霧は、紙コップを差し出した。
小坂はそれを受け取り、一口飲む。
「なあ、朝霧」
「はい」
「もし、犯人が“正しいことをしている”と本気で思っていたら……どうする」
朝霧は、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……それでも、止めます」
「理由は」
「人を殺していい理由なんて、どこにもありません」
即答だった。
迷いのない、真っ直ぐな声。
小坂は、苦笑した。
「そうだな」
だが、それだけでは足りない。
犯人は、その“正しさ”を武器にしてくる。
「正義は、人を簡単に壊す」
朝霧は、眉をひそめた。
「それって……経験談ですか」
小坂は、少しだけ視線を逸らした。
「昔、似た事件があった」
「……似た?」
「“守るために壊す”と信じた人間がいた」
それ以上は、語らなかった。
だが、朝霧は察した。
小坂凌にも、過去がある。
ただのエリート刑事ではない。
沈黙の中で、捜査本部の電話が鳴った。
それは、偶然ではなかった。
「……小坂です」
受話器の向こうから、緊張した声が響く。
『新しい情報です。次の“候補”ですが――』
その言葉に、小坂の表情が変わった。
「誰だ」
『警察関係者です』
朝霧が、息を呑む。
『正確には……内部調査課に出入りしていた、民間人です』
小坂は、ゆっくりと立ち上がった。
――境界線が、越えられた。
犯人は、警察の内側に踏み込んできた。
それは宣戦布告に等しい。
「場所は」
『まだ特定中ですが、都内です』
小坂は、拳を握り締めた。
この事件は、
もう“誰かを守る話”では終わらない。
警察という組織そのものが、
試されようとしている。
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