見えなくても、大丈夫
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
1月3日「ひとみの日」に因んで作った作品。実話をもとにした中編小説の中から、序盤シーンを切り取りショートショートに再編集しました。
本文
「Cの向きを教えてね」
保健室の先生がそう言って、白い棒で壁を指した。
小学一年生の俺は、首を傾げた。
「……Cって、何ですか?」
「あれあれ、見えないかな? 黒いまるがあるでしょう?」
先生が指している方向を見る。白い壁に、何かがある。黒い……丸? いや、丸というより、ぼんやりした影みたいなものが浮かんでいる。
「えっと……わかんないです」
「そっかそっか。じゃあ、もうちょっと前に出てみようか」
言われるまま、俺は検査表の前まで歩いた。近づくにつれて、黒い影が少しずつ形になっていく。
「あ、見えた! まるだ!」
「よかった。じゃあ、どっちが開いてるかな?」
「えーっと……右?」
「うーん、残念。左だったかな」
隣で順番を待っていた田中くんが、くすくす笑った。
「小野田、目悪いの?」
「悪くないよ! たぶん!」
その日の検査結果、俺の視力は両眼で0.4だった――というのは、大人になってから母に聞いた話だ。
「小野田くん、"お手紙"を渡すから、お母さんに見せてね」
先生から渡された封筒を、俺はランドセルの奥底にしまった。
◆ ◆ ◆
「ただいまー」
母さんは夕飯の支度をしながら、振り向いた。その顔には、牛乳瓶の底みたいに分厚い眼鏡が乗っかっている。俺が物心ついた頃から、母さんはずっとこの眼鏡をかけていた。
「あのね、"お手紙"もらった」
俺がランドセルから封筒を取り出すと、母さんの表情が少し曇った。
「……やっぱりねぇ」
母さんは、静かにため息をついた。
「ママ、俺の目、悪いの?」
「うーん……そうかもしれないわね。ママに似ちゃったのかもしれない」
俺は母さんの分厚い眼鏡を見上げた。正直に言うと、あの眼鏡はあんまりかっこよくないなあ、と思っていた。ごめん、母さん。
「俺も、ママみたいな眼鏡かけるの?」
「どうかしら。今度、目のお医者さんに行って聞いてみましょう」
◆ ◆ ◆
眼科で検査を受けた結果、俺は「近視」だと診断された。母さんと同じタイプの近視らしい。
眼鏡はまだ様子見ということになり、代わりに視力回復センターに通うことになった。週に二回、母さんと一緒に電車に乗って、隣町のセンターへ行く。
遠くを見て、近くを見る。目を上下左右に動かす。赤い点を追いかける。
「先生、これ何の意味があるんですか?」
「目の筋肉を鍛えてるの。目も筋トレが必要なのよ」
「目に筋肉あるんですか?」
「あるのよ。見えないけどね」
見えない筋肉を鍛える。なんだか不思議な話だ。
俺は真面目にトレーニングに通った。家でも遠くを見るようにした。
一年が経った。
結論から言うと、俺の視力は回復しなかった。
「お母さん、正直に申し上げますと……トレーニングで改善できる範囲を超えているように思います」
母さんは黙って頷いた。厚い眼鏡の奥で、母さんの目が少し潤んでいるように見えた。
「ママ、俺のせいでお金かかっちゃったね」
「何言ってるの、光のせいじゃないわよ。そういう体質なだけよ」
母さんは俺の頭を撫でた。
「背が高い人、低い人がいるでしょう? それと同じ。目がいい人、悪い人がいるの」
俺は母さんの分厚い眼鏡を見た。
「ママ、俺もママみたいになるの?」
「どうかしらね。わからないわ。でもね、光」
「なに?」
「ママは目が悪くても、光を産んで、育てて、今こうして一緒にいるでしょう?」
「うん」
「目が悪くても、幸せになれるのよ」
母さんは笑った。分厚い眼鏡の奥で、母さんの目は優しく笑っていた。
◆ ◆ ◆
小学三年生の春、俺はついに眼鏡をかけることになった。
「光、似合うわよ」
「本当?」
眼鏡屋さんの鏡で、俺は自分の顔を見た。青いフレームの眼鏡。レンズは、母さんのよりずっと薄い。それでも、なんだか自分じゃないみたいで、変な感じがした。
「なんか、変じゃない?」
「変じゃないわよ。かっこいいわ」
「ええ、とてもお似合いですよ。知的に見えますね」
店員さんにも言われて、俺は少し気を良くした。
眼鏡をかけて外に出た瞬間、俺は息を呑んだ。
「……すごい」
世界が、くっきりと見えた。
遠くの看板の文字が読める。木の葉っぱが一枚一枚見える。空を飛ぶ鳥の形がわかる。今まで俺が見ていた世界は、こんなにもぼやけていたのか。
「ママ、すごいよ! めっちゃ見える!」
「よかったわね」
「あ、あそこの看板! 『ラーメン大盛り無料』って書いてある!」
「そんなに離れてるのに見えるの?」
「見える! すごい! 眼鏡すごい!」
俺ははしゃいで、あちこちを見回した。世界がこんなにもクリアだったなんて。こんなにも色鮮やかだったなんて。
俺は眼鏡のフレームに手を添えながら、空を見上げた。青い空に白い雲が浮かんでいる。その輪郭が、はっきりと見える。
ふと、母さんの方を見た。母さんも空を見上げていた。分厚い眼鏡越しに、同じ空を見ている。
「ママも、初めて眼鏡かけた時、こんな気持ちだった?」
「……そうね。たぶん、同じ気持ちだったと思うわ」
俺たちは並んで歩いた。眼鏡をかけた母さんと、眼鏡をかけた俺。
見えないものがあった。でも、見える方法を見つけた。
母さんが歩いてきた道を、俺もこれから歩いていくんだ。
それは少し心細くて、でも、少し心強かった。
隣を歩く母さんの手を、俺はぎゅっと握った。
(了)
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