描かれてしまったもの
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あらすじ
再開発で社を失った路端の稲荷神は、生き延びるために人に化け、心霊探偵になった。 ――祈りも、欲望も、呪いも、まとめて引き受けるために。 これは人に化けた稲荷神と、神を信じない霊能者が怪異と人間の業の後始末をする、現代日本怪異譚。
本文
時塔心霊探偵事務所のモニター付きインターホンが鳴ったのは、夕方頃だった。
短く、二度。
創は湯呑みを置き、モニターを覗く。
画面に映っていたのは、僧衣姿の男だった。
年齢は五十前後。
背筋は伸びているが、目の下に濃い影があり、口元は強く結ばれている。
疲労というより、追い詰められている顔だった。
応答ボタンを押す。
「……何の用だ」
『月蓮寺の者です』
男は名乗った。
『住職の、児玉 真一郎と申します』
その姓に、創の眉がわずかに動く。
「……ああ」
思い当たる節は、一つしかない。
『突然で申し訳ありません』
真一郎は一度、深く頭を下げた。
『どうしても、今すぐお話を聞いていただきたく』
「心霊相談か」
『はい』
一拍、間が空く。
『――供養の、限界です』
その言葉に、創は小さく息を吐いた。
「入れ」
ほどなくして事務所のドアが開き、真一郎が入ってくる。
きちんと足を揃え、深々と頭を下げる。
所作は丁寧だが、動きに余裕がない。
朔夜が、無言でソファを示す。
「失礼します」
真一郎は腰を下ろすが、背中はソファに預けない。
逃げ腰ではない。
座っているだけで、すでに覚悟を決めている。
「……弟が」
真一郎は、いきなり本題に入った。
「弟が描いた絵が、制御できなくなりました」
創は何も言わない。
続きを促さないのは、相手が自分から喋ると分かっているからだ。
「弟は、変わり者です」
真一郎は自嘲気味に笑う。
「民俗学だの、呪物だの……絵を描くのも、ああいうものばかりで」
そこで、言葉が詰まる。
「ですが」
声が低くなる。
「これまでは、“絵”でした。危険ではあっても、手の届く範囲だった」
鞄から、分厚い風呂敷包みを取り出す。
まだ開かない。
「今回のは、違います」
真一郎は、視線を創に向けた。
「日増しに、力を増しています」
朔夜が、ぴくりと反応する。
「供養は、しています」
真一郎は、食い下がるように言う。
「毎日です。経も焚き、結界も張りました。専門の僧にも相談しました」
拳が、膝の上で強く握られる。
「……ですが、効かない」
声が、わずかに震えた。
「むしろ――近づいている気がする」
創が、ようやく口を開く。
「近づいてる、とは」
「“こちら”に、です」
真一郎は、風呂敷包みに視線を落とす。
「描かれたはずのものが、絵の外へ出ようとしている」
室内の空気が、わずかに沈む。
朔夜は、無意識に背筋を伸ばした。
「……黒衣の少女です」
真一郎は、はっきりと言った。
「全身を黒で覆った、十代半ばほどの少女」
一瞬、言葉を選ぶ。
「弟は、以前――“革手袋”を題材に絵を描いていました」
創の視線が、鋭くなる。
「……佐藤さんの件か」
真一郎は、苦く頷いた。
「あの革手袋から、何かを感じ取ったのでしょう。弟は、あれを前に何日も机に向かっていました」
息を吸う。
「佐藤さんそのものは、描けなかった。だからでしょう」
声が、重く落ちる。
「代わりに、別のものを完成させてしまった」
沈黙。
真一郎は、風呂敷包みを開かない。
開けるだけで危険だと、分かっている。
「もう、私の手には負えません」
真一郎は、深く頭を下げた。
「無理を承知で、お願いに来ました」
鞄から、分厚い封筒を取り出す。
テーブルに置いた瞬間、鈍い音がした。
中身は、見なくても分かる。
「……謝礼です」
顔を上げる。
「これ以上、寺で抱えるわけにはいかない」
目が、逃げない。
「弟の責任です。私が、背負います」
創は、しばらく黙って封筒を見ていた。
やがて、ぽつりと言う。
「祓えとは言わんのか」
真一郎は、首を振る。
「できないでしょう」
即答だった。
「……分かっています」
創は、小さく笑った。
だが、笑みは薄い。
「なら、分かってるはずだ」
立ち上がり、真一郎を見下ろす。
「これは“処理”じゃない。“関わる”話だ」
真一郎は、頷いた。
「承知の上です」
一瞬の間。
創は、ため息混じりに言う。
「裏の祠に」
真一郎が、顔を上げる。
「酒と、いなり寿司置いてけ」
封筒には、手を伸ばさない。
「それが、最低条件だ」
真一郎は、深く、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
その声は、安堵ではなく。
ようやく逃げ場が見つかった人間の、それだった。
※※※
博多区の外れ。住宅街の中にある月蓮寺に着いたのは、日が完全に落ちる直前だった。
境内は静かだった。
観光寺ではない。夕方を過ぎれば、外部の人間が立ち入る理由もない。
石畳を踏む音だけが、やけに大きく響く。
真一郎は、風呂敷包みを両腕で抱えたまま、本堂へ向かった。
持ち方が丁寧すぎる。
中身が絵である以上に、危険物として扱っている。
「……ここで、開きます」
本堂の中央。
仏前から少し距離を取り、畳の上に風呂敷包みを置く。
真一郎は一度、深く合掌した。
それから、ゆっくりと結び目を解く。
創と朔夜は、黙って見守った。
焦らせる意味はない。
だが、時間をかけすぎる理由もない。
風呂敷が開かれる。
中から現れたのは、額装された一枚の色鉛筆画だった。
――背景は、ある。
薄暗い、曖昧な空間。
線は確かに残っている。
だが。
「……いない」
真一郎の声が、震えた。
描かれているはずの、黒衣の少女。
その姿だけが、綺麗に抜け落ちている。
破れた形跡はない。
削られた跡もない。
最初から、描かれていなかったかのような空白。
朔夜が、額縁に近づいた。
「……これは」
指先を、わずかに浮かせる。
「抜け出してます。完全に」
「そんな……」
真一郎は、思わず額縁に手を伸ばしかけて、途中で止めた。
触るのが怖いのではない。
触っても、もう意味がないと分かっている。
創は、短く息を吐いた。
「やられたな」
「……寺に来る前から?」
「いや」
創は、首を横に振る。
「出たのは、ここだ。こいつは“場所”を選んで動いた」
真一郎が、唇を噛む。
「……探します」
即座に言った。
「寺の中です。まだ遠くへは――」
「行ってないとは限らん」
創は、冷静に遮る。
「だが、やるしかねえ」
三人は手分けして、寺内を探し始めた。
本堂の裏。
庫裏。
回廊。
客殿。
引き戸を開ける音が、夜気に吸い込まれていく。
だが――
「……いません」
朔夜が、静かに言った。
「幽霊も、ざわついてない。ここを通った形跡はありますけど……今はいない」
真一郎は、額に手を当てた。
「外へ……?」
「たぶん」
創が答える。
「人のいない時間帯を狙って、出た」
境内に戻ると、すでに空は完全に暗くなっていた。
月明かりが、石灯籠をぼんやりと照らす。
「……追いますか」
真一郎が、覚悟を込めて言う。
創は、即答しなかった。
一度、空を見上げる。
風の向き。
夜の深さ。
「今夜は、動かねえ」
はっきりと言う。
「夜の街に出た怪異を、土地勘なしで追うのは悪手だ」
朔夜も頷く。
「見失います。それに……今は、向こうの方が有利です」
真一郎はしばらく黙っていたが、やがて深く息を吐いた。
「……分かりました」
その声には、納得よりも、諦めに近い理解があった。
「泊まってください」
「だろうな」
創は短く答えた。
夜は、寺に泊まることになった。
黒衣の少女は見つからない。
だが。
どこかで、確実に歩き始めている。
三人とも、それだけは分かっていた。
※※※
朝の勤行が終わったばかりの庫裏は、まだ冷えていた。
古いテレビが、音を絞ったまま流れている。
湯気の立つ湯呑み。
新聞の一面。
どれも、いつもの朝のはずだった。
『次のニュースです』
女性アナウンサーの声が、わずかに緊張を帯びる。
『昨夜未明、福岡市博多区の博多駅周辺で、通行人が刃物のようなもので襲われる事件がありました』
創の指が、止まる。
朔夜も、視線を上げた。
『事件が起きたのは、午前二時半ごろ。博多駅近くの道路上で――』
画面には、夜の交差点が映る。
黄色い規制線。
点滅するパトカーの赤色灯。
『帰宅途中とみられる男女二名が相次いで襲われ、病院に搬送されましたが、いずれも死亡が確認されています』
真一郎の背が、わずかに揺れた。
湯呑みを持つ手に、力が入る。
『警察は通り魔事件として捜査を進めており、現在も犯人は逃走中です』
映像が切り替わる。
防犯カメラの静止画。
荒いが、輪郭は分かる。
『目撃情報などから、犯人は黒っぽい服装をした十代後半から二十代前半の女性とみられ――』
次の瞬間。
似顔絵が、画面いっぱいに映し出された。
黒い服。
長い髪。
伏せがちな目。
「……っ」
声にならない音が、真一郎の喉から漏れた。
顔色が、一気に失われる。
「……あれは……」
指先が震え、言葉が続かない。
創は、真一郎の様子を横目で見ただけで、画面に戻った。
朔夜も同じだ。
『警察では、引き続き博多駅周辺の警戒を強めるとともに、市民に対して深夜の外出を控えるよう呼びかけています』
ニュースは、淡々と次へ移った。
だが、庫裏の空気は戻らない。
真一郎が、掠れた声で言う。
「……昨夜」
一拍。
「寺に、戻ってきませんでした」
創が、ゆっくりと振り返る。
「だろうな」
責める響きはない。
事実確認だ。
朔夜は、テレビを見つめたまま呟く。
「深夜二時半……」
博多駅。
人が途切れ始める時間。
だが、完全には消えない。
「一番、やりやすい時間帯ですね」
創は、短く息を吐いた。
「最初の一件目だ」
真一郎が、深く頭を下げる。
「……私のせいです」
「違う」
創は即答した。
「始まっただけだ」
玄関へ向かいながら、続ける。
「いよいよ止めなきゃならん段階に入った。それだけだ」
朔夜が、靴を履きながら言う。
「博多駅周辺、ですね」
「ああ」
創は扉に手をかける。
「幽霊も多い。夜中に人が死んだ場所なら、なおさらだ」
朝の冷たい空気が、流れ込む。
黒衣の少女は、もう絵の中にはいない。
――そして。
次に動くまで、あまり時間は残されていなかった。
※※※
朝八時の博多駅は、すでに人で満ちていた。
スーツの波。
転がるキャリーケース。
構内に響くアナウンスと、靴音。
だが――
その喧騒の隙間に、もう一つの層がある。
生者の流れに重なるように、
立ち止まり、見下ろし、座り込み、
あるいは意味もなく漂っているものたち。
幽霊だ。
「……多いですね」
朔夜はスマホを操作するふりをしながら、低く呟いた。
「夜中に人が二人死ねばな」
創は、人の流れを邪魔しない位置で立ち、駅前広場を見渡す。
「集まらない理由がねえ」
朔夜は頷き、ゆっくりと“視線をずらした”。
目立つ幽霊からは当たらない。
事件直後で、興奮しているからだ。
狙うのは、少し離れた場所で落ち着いて見ている連中。
モニュメントの側。
ベンチの背後。
木の根元。
朔夜は、モニュメントの側に立っていた一人に声をかけた。
「おはようございます」
「……朝から見える人か」
中年の男の幽霊だった。
作業服姿で、腕を組んでいる。
「昨日の夜、この辺で何かありましたよね」
「そりゃあな」
男は顎で道路の方を示す。
「二時半くらいだったか。刃物みたいなの持ったのが、走ってった」
「一人ですか?」
「一人。女だ」
即答だった。
「黒っぽい格好で、細い。若いな。十代後半くらいだ」
朔夜は、スマホにメモを取るふりをする。
「そこで、止まりました?」
「いや」
男は首を振る。
「止まらねえ。やったら、すぐ行った」
「どっちへ?」
少し考え、男は指を伸ばす。
「……あっちだな」
指先は、博多駅の南側。
大通りの先――天神方向。
「人が減る時間だ。三時過ぎから、急に静かになる」
創が、静かに口を挟む。
「追ったか?」
「追えるかよ。あんなの」
男は苦笑した。
朔夜は、軽く頭を下げる。
「ありがとうございます」
次。
駅から少し離れた横断歩道。
信号柱の影に、若い女の幽霊がしゃがみ込んでいる。
「……ねえ、この顔なんだけど、見覚えありませんか?」
スマホ画面を見せながら声をかけると、女は顔を上げた。
「それ、ニュースの人?」
「そうです」
「やっぱり」
女は唇を噛む。
「見たよ。近かった」
「どんな様子でした?」
「……楽しそうだった」
一瞬、空気が冷える。
「逃げてる感じじゃない。急いでたけど、怖がってなかった」
朔夜は、目を細める。
「行き先は?」
「天神」
今度は迷いがない。
「人が消えるの、知ってるみたいだった」
創が、息を吐く。
「夜の街を、選んでるな」
「うん」
女は頷く。
「三時すぎ。博多から天神に歩くの、ちょうどいい時間」
朔夜は、もう一度礼を言った。
振り返ると、創が小さく頷く。
「揃ったな」
「はい」
朔夜は、駅を背にする。
「博多ではない。ここは、もう“通過点”です」
創は、天神方面の空を見た。
朝の光が、ビルの谷間に落ちている。
「……向こうは、まだ眠ってる」
「でも、幽霊は起きてます」
朔夜は、スマホをポケットにしまう。
「案内してもらいましょう。暇を持て余した人たちが、たくさんいますから」
博多駅の喧騒を背に、二人は歩き出した。
黒衣の少女は、もうここにはいない。
だが――。
痕跡は、はっきり天神へ続いていた。
※※※
天神は、もう動き始めていた。
シャッターの上がる音。
ビルのエントランスを掃除する人影。
出勤前の足早な通行人。
だが――
幽霊の密度は、博多駅より濃い。
「……多いですね」
朔夜が、小さく言う。
肉体を持たない彼らは、朝のラッシュにも夜明けにも左右されない。
ただ、人の感情と死の残り香に引き寄せられる。
天神は、それが多すぎる。
「昨夜の話、聞きたいんです」
朔夜は、スマホを耳に当てたまま歩く。
外から見れば、通話中の若者だ。
幽霊たちが、寄ってくる。
「また何かあったの?」
「朝から忙しいねえ」
「今度は何探してんの?」
軽いノリだが、興味はある。
「黒い服の女の子を見た人、いませんか」
即答は、ない。
だが。
「あー……」
若い女の幽霊が、思い出すように言った。
「見たかも」
朔夜の足が止まる。
「いつですか」
「三時過ぎかな。こっち来る途中で」
指が、南の方を指す。
「博多から、歩いてきた感じだった」
創が、すぐに口を挟む。
「タクシーは使ってないか」
「使ってないね。ずっと歩いてた」
「人は?」
「いなかった。ほんとに、だーれも」
別の幽霊が、笑う。
「ちょうどあの時間帯だよ。街が死ぬやつ」
朔夜は、確認する。
「天神で、何かありましたか」
「ううん。ここでは、まだ」
“まだ”。
その言葉が、引っかかる。
年配の男の幽霊が、低い声で言った。
「だがな」
一拍。
「そのまま、春吉の方へ行った」
創が、視線を向ける。
「確かか」
「ああ。川の匂いがする方だ」
幽霊は、顎で示す。
「公園があるだろ。あそこ」
朔夜の喉が、わずかに鳴る。
「……春吉公園」
「そう。今朝方、そこで見た」
幽霊たちの空気が、少し変わる。
野次馬のそれから、距離を測るものへ。
「今も?」
朔夜が聞く。
誰も、即答しなかった。
代わりに。
「……さっきまでは、確かに」
そう言った幽霊が、視線を逸らす。
創は、短く言った。
「行くぞ」
迷いはない。
「まだ離れてねえ」
天神から春吉へ向かう道は、静かだった。
人はいる。
だが、事件の気配は、まだ届いていない。
それが、余計に不気味だった。
「……間に合いますか」
朔夜が、歩きながら言う。
「“止める”ならな」
創は、前を見たまま答える。
川沿いの空気が、ふと変わった。
湿り気。
血の匂いではない。
だが――死の直後の、重さ。
春吉公園は、すぐそこだった。
朔夜は、はっきりと感じる。
ここだ。
今も、いる。
黒衣の少女が。
※※※
春吉公園は、朝の空気をしていなかった。
人の気配はない。
遊具は黙り、ベンチは濡れていない。
それなのに、空気だけが重い。
「……いるな」
創が、低く言った。
朔夜はすでに見ている。
公園の奥。
木立の影。
黒衣の少女が、立っていた。
全身を黒に包み、俯いたまま動かない。
だが、その存在ははっきりと“こちら”を向いている。
そして、足元。
倒れている男が、一人。
胸元に血。
まだ新しい。
「……やりたてですね」
朔夜の声が、わずかに硬い。
「ああ」
創は視線を外さない。
「一人だけだ。今なら、まだ引ける」
だが、黒衣の少女は引かない。
ゆっくりと、首を上げた。
目が合う。
次の瞬間――。
跳んだ。
風を切る音すら、遅れる。
「っ!」
創は横に転がる。
地面が抉れ、芝が裂ける。
「……速えな」
少女は刃物を持っていない。
だが、触れた空間そのものが壊れる。
二度、三度。
間合いを詰めてくる。
創は距離を取りながら、確信する。
――未完成だ。
力はある。
だが、輪郭が定まりきっていない。
「朔夜!」
叫ぶ。
「下がれ! 俺が引き受ける!」
「……了解です」
朔夜は即座に後退する。
援護はしない。
下手に割り込めば、死ぬ。
黒衣の少女が、再び踏み込む。
創は、地面に“線”を引いた。
目に見えない境界。
神が引く、人と怪異の分かれ目。
「――戻れ」
短く、低く。
空気が、わずかに軋む。
少女の動きが、ほんの一瞬、鈍る。
だが、止まらない。
「くっ……!」
肩に、衝撃。
肉が裂ける感触。
血が、滲む。
創は歯を食いしばった。
「……長引かせたら、負けだな」
次で決める。
黒衣の少女が、真正面から来る。
創は、逃げない。
踏み込み、懐へ。
狐の手が、少女の胸元を掴む。
「――終わりだ」
力を込める。
祓いじゃない。
消滅でもない。
現世に縫い止めきれない存在を、押し返す。
少女の輪郭が、崩れる。
悲鳴は、ない。
代わりに。
黒い煙が、ふっと立ち上り、風に散った。
静寂。
朝の音が、公園に戻る。
遠くで、車の音。
人の気配。
創は、その場に膝をついた。
「……ギリギリだ」
肩を押さえる。
血が、指に付く。
朔夜が、駆け寄ってくる。
「創さん!」
「……勝った」
短く言う。
「本当に、辛勝だ」
立ち上がり、息を整える。
黒衣の少女は、もういない。
完全に祓えたわけじゃない。
だが、もう歩けない。
春吉公園は、ただの公園に戻っていた。
創は、心の中でだけ呟く。
――次は、命を持っていかれる相手だった。
今回は。
本当に運が良かった。
※※※
最初に現れたのは、警察だった。
春吉公園の周囲は、ほどなく規制線で囲まれた。
倒れていた男は、すでに息がなかった。
「……第一発見者、ですか」
若い警察官が、硬い声で言う。
「そうなるな」
創は、肩を押さえたまま答えた。
血は止まっているが、顔色は良くない。
事情聴取は、長引いた。
いつ来たのか。
何を見たのか。
少女はどこへ行ったのか。
「逃げた方向は?」
「分からん」
嘘は言っていない。
黒衣の少女は、逃げたのではない。
境に縫い止められたのだ。
だが、それを説明する義務も、意味もない。
警察は最終的に、首をひねりながらも解放した。
創と朔夜は、参考人以上にはならなかった。
ただ。
時間だけが、削られた。
――寺へ戻ったのは、昼を過ぎてからだった。
月蓮寺の庫裏で、真一郎は二人を迎えた。
顔を見た瞬間、何かを察したように、深く頭を下げる。
「……終わったのですね」
「ああ」
創は、簡潔に答えた。
「完全な供養じゃない。だが、これ以上人を殺すことはない」
真一郎は、静かに目を閉じる。
「それで、十分です」
少し間を置いて、続けた。
「……弟の絵は?」
「もう、器じゃない」
創は言った。
「力は使い切った。残るのは、ただの紙だ」
真一郎は、深く息を吐いた。
「ありがとうございます」
それ以上、何も聞かなかった。
聞く必要がないと、分かっている顔だった。
寺を出る頃には、創の足取りは明らかに重くなっていた。
「……創さん」
「大丈夫だ」
そう言った声に、力はない。
事務所へ戻る途中。
創は、車を降りたところで、膝をついた。
「……あ?」
それが最後だった。
意識を失ったわけではない。
ただ、体が言うことを聞かなくなった。
熱。
悪寒。
朔夜は、迷わなかった。
――創の自宅を訪れたのは、それが初めてだった。
古い集合住宅。
事務所から少し歩いた場所。
部屋は、驚くほど質素だった。
必要最低限の家具。
本棚。
机。
狐の置物が、ひとつ。
「……ほんとに、生活感ないですね」
朔夜は呟く。
創を布団に寝かせ、体温を測る。
「……三十九度」
高い。
創は、目を開けている。
「……悪いな」
「黙っててください」
朔夜は、珍しくきっぱりと言った。
水を用意し、タオルを絞る。
額に当てる。
創は、目を閉じた。
「……助かった」
「何がです?」
「……一人じゃなかった」
その言葉に、朔夜の手が一瞬止まる。
だが、何も言わない。
「……貸しですから」
いつもの言い方で、そう返す。
創はすぐ眠りに落ちた。
熱に浮かされながらも、呼吸は安定している。
朔夜は、部屋の隅に座り込んだ。
静かな部屋。
外では、夕方の音がしている。
――今日も、世界は回っている。
創が目を覚ました時。
そこにいるのは、いつもの幽霊ではなく。
初めて、生きている人間だった。
その事実が、この戦いの、ささやかな救いだった。
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