最後の年始挨拶
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あらすじ
ある年の仕事始め。経営難の町工場に、二つの「言えない決断」があった。今年で会社を畳むつもりでいる社長と、ポケットに辞表を忍ばせた若手社員。どちらも口に出せないまま始まった朝礼で、例年通り「今年の抱負」が語られていく。
本文
一月四日の朝というのは、どうしてこんなにも気が重いのだろう。
千葉冬樹は、駅から会社までの道のりを歩きながら、白い息を吐いた。
正月休みが明けて最初の出勤日。世間では「仕事始め」と呼ばれるこの日が、冬樹にとっては「終わりの始まり」になる予定だ。
(今日、辞表を出す。)
ポケットの中で、二つ折りにした封筒の角が指先に触れる。
年末年始、実家に帰省している間ずっと考え続けて、ようやく出した結論。
大晦日の夜、紅白歌合戦を見ながら、母親に言った。
「会社、辞めようと思うんだ」。
母は驚いた顔をしたが、「あんたが決めたことなら」とだけ言った。
三年間勤めた株式会社タテヤマ製作所。従業員十二名の小さな町工場。精密機械部品の製造を手がけている。
居心地は悪くなかったが、このままここにいても先がないことは、冬樹自身が一番よくわかっていた。
受注は年々減っている。主要取引先だった大手メーカーが海外生産に切り替えてから、売上は三割落ちた。
残った取引先からの値下げ要求は厳しくなる一方で、老朽化した設備を更新する余裕もない。
若手は冬樹と、営業の印西宏太の二人だけ。
ベテラン勢は定年を待つばかりで、新しいことを始めようという気概は感じられない。
(沈みゆく船からは、早めに降りるべきだ。)
そう自分に言い聞かせながらも、冬樹の足取りは重かった。コートの襟を立て、冷たい風から首をすくめる。
商店街のシャッターはまだ半分以上が閉まっていて、正月気分が抜けきらない街の空気が漂っていた。
ふと、和菓子屋の店先に目が留まる。
「謹賀新年」と書かれた飾りの横に、鏡餅が飾ってあった。あと一週間もすれば鏡開きだ。その頃、自分はもうこの道を歩いていないかもしれない。
そう思うと、見慣れたはずの風景が、今までとは少し違って見えた。
*
冬樹が会社に着くと、すでに数人が出社していた。
事務所の入り口で靴を履き替えながら、冬樹は中を見渡す。いつもと同じ光景だ。年季の入ったスチール製のデスクに、壁に貼られた安全標語のポスター。そして、隅に置かれた観葉植物。
三年間、毎日見てきた風景。
「おう、千葉!あけましておめでとう」
総務の習志野健吾が、湯呑みを片手に声をかけてきた。五十代半ば、白髪交じりの髪をきっちり撫でつけた、この会社の最古参。
入社以来三十年、この会社一筋でやってきた人物である。
「習志野さん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
冬樹は頭を下げながら、内心で苦いものを感じていた。
「今年もよろしく。」
その「今年」が、自分にとってはあと数日で終わるかもしれないのに。
「正月休み、どうだった? 実家帰ったんだろ?」
「ええ、まあ。近いですけど。ゆっくりできました。」
「そうかそうか。俺は初詣で引いたおみくじが『末吉』でさ。『待ち人来たらず』だって。待ってねえよ、誰も」
習志野が豪快に笑う。
この人のこういう明るさが、冬樹は好きだった。会社の業績がどんなに悪くても、習志野はいつも変わらない。それが強さなのか、鈍感さなのか、冬樹にはわからないけど。
「あ、千葉くん。あけましておめでとう」
経理の市川春奈が、書類を抱えて事務室から顔を出した。冬樹より三つ年上の二十八歳。眼鏡の奥の目は、いつも何かを計算しているように見える。
実際、この会社の財務状況を一番正確に把握しているのは彼女だろう。毎月の資金繰りから決算書の作成まで、一人でこなしているのだ。
「市川さん、あけましておめでとうございます」
「今年もよろしくね。……あ、そうだ。年明け早々で悪いんだけど、経費精算の書類、今週中にお願いできる? 確定申告の準備があるから」
「あ、はい。わかりました」
反射的に答えてから、冬樹は気づいた。今週中――自分がまだここにいるかどうかもわからないのに。
「どうしたの? 顔色悪いけど」
「いえ、なんでも……正月で食べすぎちゃいました……」
「あら、若いのに。胃薬、いる?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
市川は「そう?」と首を傾げてから、事務室に戻っていった。その後ろ姿を見送りながら、冬樹は小さくため息をつく。
この会社の人たちは、みんないい人だ。友達の中には、職場の人間関係に悩み、体を壊してしまった人もいるが、この会社にいる以上は、人間関係で頭を抱えることも心を痛めることもなさそうだ、と心から思っているのだ。
だからこそ、辞めるのは惜しいし、辛い。
でも、冬樹には冬樹の人生がある。情に流されて判断を誤るわけにはいかない。
*
同じ頃、社長室では館山博之が、窓の外を眺めていた。
六十二歳。この会社を父から継いで三十年。従業員とその家族の生活を背負って、必死に走り続けてきた。
バブル崩壊も、リーマンショックも、コロナ禍も乗り越えてきた。
しかし、その足はもう限界に達していたのだった。
机の上には、昨年末に税理士から受け取った資料が置いてある。
来期の見通し。
赤字幅の拡大。
借入金の返済スケジュール。
どの数字を見ても、希望は見えない。
自己資本比率は年々低下し、このままでは二年後には債務超過に陥る。
年末、妻にだけは話した。
「今年で、会社を畳もうと思うんだ」
しかし、妻は驚かなかった。
おそらく、ずっと前から覚悟していたのだろう。黙って頷いた後、「頑張ったね」とだけ言った。
その一言に、三十年分の苦労がすべて報われた気がした。
同時に、言葉にできない寂しさも込み上げてくる。
問題は、従業員たちにどう伝えるかだった。
今日は仕事始め。
例年なら、朝礼で「今年の抱負」を語り合い、社長として年頭の挨拶をする。
「今年も一年、よろしくお願いします」と。
しかし、今年は違う。
今年もよろしく、などと言っていいのだろうか。
どうせ畳むとわかっている会社で、社員たちに「今年の抱負」を語らせていいのだろうか。
それは、あまりにも残酷ではないか。
かといって、仕事始めの朝礼で「会社を畳みます」と告げるのも、あまりにも酷だ。
正月気分も抜けきらないうちに、いきなり失業を宣告されるのだから。
せめて一月中に個別面談をして、一人ひとりに説明するべきではないか。
しかし、嘘をつき続けるのも、辛い。
館山は、白髪の増えた頭を両手で抱えた。
窓の外では、すずめが電線に並んで止まっている。
のんきなものだ、と思った。いや、すずめにはすずめの苦労があるのかもしれないが。
*
九時になり、全員が揃った。
事務室と作業場の境目にある休憩スペースに、十二人の従業員が集まる。
折りたたみ式のパイプ椅子に腰かけ、紙コップのコーヒーを手にしている者もいる。
いつもの光景だ。
「じゃ、今年も恒例の『今年の抱負』、やりますか」
習志野が仕切り始める。この会社では、仕事始めに全員が一言ずつ「今年の抱負」を述べるのが慣例になっていた。館山の父の代から続く伝統らしい。
「まずは若手からいこう。印西、お前からだ」
「えー、俺っすか」
営業の印西宏太が、困ったように頭を掻いた。二十五歳、冬樹より二つ下。天然パーマの髪と人懐っこい笑顔が特徴の、ムードメーカー的存在だ。
口下手な職人が多いこの会社で、彼の明るさは貴重だった。
「今年の抱負……えーと、去年より売上を上げる、とか?」
「具体性ゼロだな」
「だって習志野さん、急に振られても困りますよ。正月ボケがまだ抜けてないっす」
「甘えんな。社会人三年目だろ」
「あ、じゃあ、新規取引先を三件開拓します」
「よし、記録しておくぞ。達成できなかったら焼肉おごりな」
「えっ、そんな賭けしてないですよ!」
笑いが起きる。
冬樹は、この会社のこの空気が、たまらなく好きだ。
小さな会社ならではの、家族のような距離感。
形式ばった大企業では味わえない温かさ。
それだけに、自分がこの輪から抜けることを思うと、胸が痛んだ。
「次、千葉」
「はい」
冬樹は立ち上がった。十二人の視線が集まる。
ポケットの中の封筒が、やけに存在感を主張してくる。
まるで「早く出せ」と急かしているかのようだ。
「今年の抱負は……」
言葉に詰まった。
何を言えばいいのだろう。
どうせ辞めるのに、今年の目標を語るのか。
そんなの嘘じゃないか。
それとも、ここで辞表を出すのか。いや、それはあまりにも空気が読めない。
沈黙が長くなる。
習志野が不思議そうな顔をした。
「どうした、千葉。緊張してんのか? 三年目だろ、もう慣れただろ」
「いえ……」
その時だった。
「あの」
館山社長が、口を開いた。
全員の視線が社長に移る。普段は朝礼の最後に挨拶をするだけの社長が、途中で口を挟むのは珍しいことだった。
「抱負の発表は、少し後にしよう。先に、私から話がある」
空気が変わった。
館山は、深呼吸をした。窓から差し込む冬の朝日が、彼の白髪を照らしている。その表情には、何か重大なことを言おうとしている人間特有の緊張感があった。
「実は——」
そこで言葉が途切れた。十二人の従業員が、固唾を飲んで社長を見つめている。
冬樹も、自分の辞表のことを一瞬忘れて、社長の次の言葉を待った。
館山は、全員の顔を一人ひとり見渡した。習志野、市川、印西、そして冬樹。三十年間、共に歩んできた仲間たち。入社したばかりの若者だった習志野が、今では白髪交じりの古株になっている。その長い年月が、館山の胸に去来した。
「……いや、なんでもない。続けてくれ」
結局、館山はそう言って口を閉ざした。
冬樹は、社長の顔に浮かんだ表情を見逃さなかった。
苦渋。
逡巡。
そして、諦め。
何かを言おうとして、言えなかった。その「何か」が何なのか、冬樹にはわからなかったが、ただごとではないことだけは伝わってきた。
「千葉、続きを」
習志野に促されて、冬樹は我に返った。
「あ……今年の抱負は、『一日一日を大切に過ごす』です」
無難な答えだった。しかし、それが今の冬樹にとっては、一番正直な言葉だ。
明日のことはわからない。だから、今日を大切にする。それしか言えない。
「おう、いいじゃねえか。若いのに悟ってんな」
習志野がからかうように言った。
笑いが起きたが、どこかぎこちなかった。
社長の不自然な様子が、みんなの心に引っかかっているようだった。
*
朝礼が終わり、各自が持ち場に散っていく。
冬樹は製造部門のデスクに戻ったが、仕事が手につかなかった。
ポケットに入ったままの辞表の主張も気になるが、それ以上にさっきの社長の様子が気がかりだった。
あの表情。あの沈黙。
何かを言おうとして、言えない。
冬樹自身が今朝から抱えている感覚と、どこか似ているものがある。
言いたいことがあるのに、言えない。
決断したはずなのに、実行できない。
社長も何かを決断し、1人で胸の内に抱えているのだろう。
パソコンの電源を入れ、メールをチェックする。取引先からの新年の挨拶メールがいくつか届いていた。
「本年もよろしくお願いいたします」。
どれも同じような文面だ。こういう形式的なやりとりが、社会を回している。
「千葉くん」
声をかけられて振り向くと、市川春奈が立っていた。
「ちょっといい?」
二人は、休憩スペースの隅に移動した。市川は、周囲を確認してから、小声で切り出した。
「社長、様子おかしくなかった?」
「……市川さんも気づきましたか」
「そりゃ気づくわよ。経理やってれば、会社の状況はわかるし……」
市川は、眼鏡を押し上げた。その仕草は、何か深刻なことを考えている時の癖だと、冬樹は知っていた。
「正直に言うとね、私、去年から覚悟してたの。来年は厳しいって。だから社長が何か言おうとした時、『ああ、やっぱり』って思った」
「……そうですか」
「千葉くんは、どう思ってる? この会社のこと」
直球の質問だった。冬樹は、ポケットの中の封筒に触れた。紙の感触が、妙に生々しい。
「市川さん、正直に言っていいですか」
「いいわよ」
「誰にでも言わないで欲しいのですが」
「もちろん」
「俺、今日辞表出そうと思って出社してきたんです」
市川の目が、わずかに見開かれた。
「……そう」
「俺、この会社のことはすごく好きなんです。人が良いし、居心地もいい。でも、このままじゃ先がないって、わかってて……」
「うん」
「だから、沈みゆく船からは早めに降りようって——」
「それ、誰が言ったの?」
「え?」
「沈みゆく船って。誰がそう決めたの?」
市川の声は、責めるような調子ではなかった。
ただ、静かに問いかけているだけに見えた。
その目は、冬樹をまっすぐに見つめていた。
「船が沈むかどうかは、乗ってる人たち次第でしょ。……まあ、私も偉そうなことは言えないんだけどね」
そう言って、市川は少し笑った。自嘲するような、でもどこか温かい笑顔だった。
「実はね、私も去年、転職活動してたの」
「えっ」
「面接まで行った会社もあった。条件も悪くなかった。でも、結局やめたの」
「どうしてですか」
「わからない。ただ、この会社を見捨てる気になれなかったのよ。習志野さんとか、印西くんとか、社長とか……みんなの顔を思い浮かべたら、『私だけ逃げ出すのは違うな』って」
市川は、窓の外を見た。
駐車場の向こうに、隣の工場の煙突が見える。白い煙がまっすぐに立ち上っている。
風のない、穏やかな冬の日だった。
「別に、千葉くんを責めてるわけじゃないのよ。人それぞれだし、若いうちに動くのは正しい判断かもしれない。私みたいに情に流されるのが、必ずしも正解とは限らない。ただ……」
「ただ?」
「辞表を出す前に、社長と話してみたら? さっきの様子、絶対何かあるわよ。それを聞いてからでも遅くないと思う」
冬樹は、黙って頷いた。
*
昼休み、冬樹は社長室のドアをノックした。
「どうぞ」
中に入ると、館山は机に向かって書類を見ていた。いや、見ているふりをしていた。
その目は、文字を追ってはいないように、冬樹には見えた。
机の上には食べかけの弁当が置いてあったが、箸はほとんど進んでいないようだ。
「社長、お時間よろしいですか」
「ああ、千葉くんか。どうした」
「少しお話が……」
冬樹は、社長の向かいの椅子に腰を下ろした。この椅子に座るのは、入社面接以来かもしれない。
あの時、館山は「うちは小さい会社だけど、やりがいはあるよ」と言った。
その言葉に嘘はなかったな、と思う。
「実は——」
「実は——」
二人の声が重なった。
一瞬の沈黙。
そして、どちらからともなく、苦笑が漏れた。
同じことを考えていたのだと、互いに気づいた瞬間だった。
「千葉くんから先にどうぞ」
「いえ、社長からお願いします」
「……そうか」
館山は、深く息を吐いた。
そして、窓の外に目をやった。
さっきまで電線に止まっていたすずめは、もういなかった。
「朝礼の時、何か言おうとしてやめただろう。気づいていたか」
「はい」
「あの時、本当は——会社を畳むことを発表しようと思っていた」
冬樹は、驚かなかった。どこかで予想していたことだった。
市川の言葉、社長の表情、この会社の業績。
すべてが、その結論を指し示していたから。
「今年いっぱいで、この会社を閉めようと思っている」
「……そうですか」
「三十年やってきた。父の代から数えれば、五十年以上だ。地域に根ざした町工場として、それなりの役割は果たしてきたつもりだ。しかし、もう限界なんだ。これ以上続けても、従業員に迷惑をかけるだけだ」
館山の声は、淡々としていた。しかし、その目の奥には、深い疲労と、そして何かを手放す寂しさが滲んでいた。
三十年間、この会社のことだけを考えて生きてきた人間の、静かな諦念。
「今日発表しようと思ったのだが、できなかった。みんなの顔を見たら、言葉が出てこなくなっちゃってね。情けない話だけど。経営者向いてないのかもな」
「……社長」
「千葉くんは、何を言いに来たんだ?」
冬樹は、ポケットから封筒を取り出した。
「これ、辞表です」
館山は、封筒を見つめた。
白い封筒に、「辞表」の二文字が書かれている。
そして、小さく笑った。
皮肉な笑いではなく、どこか達観したような笑顔で。
「そうか。君も、この船を降りるつもりだったか」
「はい」
「いい判断だと思う。若いうちに動くべきだ。君には、まだ可能性がある」
「でも——」
冬樹は、封筒をテーブルの上に置いたまま、続けた。
「今日、これを出すつもりでした。でも、まだ出せていません」
「どうして?」
「わかりません。ただ……社長が朝礼で何か言おうとした時、俺、すごく気になったんです。この人は、俺と同じように何かを抱えているんだって」
館山は、黙って冬樹の話を聞いていた。
「市川さんに言われたんです。『沈みゆく船かどうかは、乗ってる人たち次第だ』って。俺、その言葉がずっと引っかかってて」
「……そうか」
「社長は、会社を畳むって決めてるんですよね。でも、みんなにはまだ言えてない。それって、どこかで『本当にこれでいいのか』って思ってるからじゃないですか」
図星だったのだろう。
館山は、少し目を伏せた。机の上の資料——赤字の数字が並んだ表——に視線を落とした。
「……わからないんだ。これが正しい決断なのか。従業員のためを思えば、早めに伝えて再就職の準備をさせるべきだ。しかし、伝えた瞬間に、この会社は終わる。みんなの士気が落ちて、立て直す気力もなくなる。それに……」
「それに?」
「五十年続いた会社を、私の代で終わらせるのが……悔しいんだ。父に申し訳ない。従業員に申し訳ない。でも、どうしようもない」
「だったら——」
冬樹は、思い切って言った。
「会社を畳む前に、最後の挑戦をしてみませんか」
*
その日の終業後、休憩スペースに全員が集められた。
館山が、冬樹の提案を受け入れたのだ。
「どうせ終わるなら、最後に足掻いてみるのも悪くない」。
そう言って、社長は笑った。
朝とは違う、どこか吹っ切れたような笑顔だった。
「みんなに話がある」
館山は、朝礼の時とは違う、落ち着いた声で切り出した。
「正直に言う。この会社は、今年いっぱいで畳むつもりだった」
どよめきが起きた。
習志野が「やっぱりか」と呟き、印西が「マジっすか」と声を上げた。市川だけが、静かに頷いていた。
やはり、彼女は気づいていたのだ。
「しかし、今日、千葉くんと話をして、考えが変わった」
全員の視線が、冬樹に集まった。冬樹は、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「畳むと決めているなら、最後の一年をただ待つだけで終わらせるのはもったいない。どうせ終わるなら、全力で足掻いてみようと思う」
館山は、全員の顔を見渡した。
三十年間、共に働いてきた仲間たち。
その一人ひとりに、語りかけるように言った。
「みんなには申し訳ないが、正直な話をする。今のままでは、この会社に未来はない。しかし、可能性がゼロというわけでもない。新しい取引先を開拓するか、新製品を開発するか、やれることはまだある。一年後、結果がどうなるかはわからない。でも、何もしないで終わるよりは、足掻いてから終わりたい」
習志野が手を挙げた。
「社長、俺はもう五十五だ。再就職なんて、今さら無理だ。だったら、この船と一緒に沈むつもりで最後まで足掻くよ。三十年もいたんだ、今さら逃げ出すのは性に合わない」
市川が続いた。
「私も残ります。経理として、コスト削減でも資金繰りでも、できることがあるはずです」
印西が、明るい声で言った。
「俺、新規開拓三件って言いましたよね。五件にします。いや、十件目指します! 営業なめんなって見せてやりますよ」
一人、また一人と、声が上がっていく。
冬樹は、テーブルの上に置いたままだった封筒を手に取り、。そして、ゆっくりと二つに破いた。
紙が裂ける音が、静かな休憩スペースに響いた。
「俺も残ります。この船が沈むかどうか、最後まで見届けたいです」
*
帰り道、冬樹は駅までの道を歩いていた。
朝とは違う、軽い足取りだった。
同じ道なのに、景色が違って見える。
和菓子屋の鏡餅も、閉まったままのシャッターも、全部同じなのに。
ポケットには、破れた辞表の紙片が入っている。
あとで捨てよう、と思いながら、なんとなく捨てられなかった。
これは、自分がここで決断を変えた証だ。いつか見返すかもしれない。
どんな未来になったとしても、「あの時、逃げなかった」と思い出すために。
「千葉くーん!」
後ろから声がして振り向くと、印西が走ってきた。
「一緒に帰ろうぜ」
「ああ」
二人で並んで歩く。
冬の夕暮れは早く、もう空は茜色に染まっていた。街灯がぽつぽつと灯り始めている。
「なあ、千葉くん」
「ん?」
「俺さ、正直ビビってたんだよね。この会社やばいなって、薄々わかってた。でも、どうすればいいかわかんなくて、見て見ぬふりしてた」
「……そうか」
「でも、今日の社長の話聞いて、なんかスッキリしたよ。やばいならやばいで、全力で足掻いてやろうって思えた。隠されてるより、正直に言ってもらえた方が、逆に気が楽っていうか」
「わかる、俺もだよ」
「来年の仕事始め、どうなってるかな」
「さあな。会社があるかどうかもわからない」
「でも、なんか楽しみだな。一年後、みんなでまた『今年の抱負』語りたいよな」
冬樹は、笑った。
「ああ、そうだな」
*
一月四日、仕事始め。
それは、株式会社タテヤマ製作所にとって、「最後の年始挨拶」になるはずだった。
社長は会社を畳む決断を抱え、若手社員は辞表をポケットに忍ばせていた。
終わりを前提にした、形だけの「仕事始め」になるはずだった。
しかし、それは同時に、「最後の挑戦」の始まりでもあった。
この船が一年後にどうなっているかは、誰にもわからない。
沈むかもしれないし、奇跡的に浮かび上がるかもしれない。
おそらく、現実はその中間のどこかだろう。
完全な成功も、完全な失敗も、そうそうあるものではない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
この船に乗っている人たちは、全員が「降りない」と決めた。
沈むなら沈むで、最後まで一緒に足掻こうと決めた。
駅前で印西と別れ、冬樹は改札をくぐった。
ホームで電車を待ちながら、ふと空を見上げた。一番星が、かすかに瞬いている。冬の空気は澄んでいて、星がよく見えた。
来年の今頃、自分は何をしているだろう。
この会社にいるのか、いないのか。会社が存続しているのか、していないのか。
でも、どう転んでも「よかった」で終わらせる一年にすることを、今日は誓った。
電車がホームに滑り込んできた。
冬樹は、一歩を踏み出す。
新しい一年が、始まろうとしていた。
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