逃走距離
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
誘拐。拘束。そして、殺意。平凡な女子高生を襲った突然の悪夢。追い詰められた犯人の刃が迫る中、少女は最後の賭けに出る。死線を越えた先にあったのは、夕暮れの光と、生きているという実感だった。
本文
喉の奥にひりつきを感じて、一宮八生(いちのみや やよい)は目を覚ました。
呼吸をしようとすると、口元に何かが張り付いていることに気づいた。ガムテープだ。唇から頬にかけて、べったりと貼られている。鼻呼吸になっているだけで、酸素が足りないような錯覚に陥った。
両手は背中に回され、何かで縛られていた。プラスチック製の結束バンドだろうか。手首に食い込む硬い感触。力を入れてみるものの八生の力では、びくともしない。
指先に、じーんとした痺れを感じる。血が止まりかけているのかもしれない。
八生は、ゆっくりと瞼を開けた。
(え・・・?)
目に飛び込んできたのは、埃が舞っている古びた室内。倉庫か、使われなくなった事務所のような感じだ。窓からは弱い光が差し込み、床には青いシートが敷かれており、壁際には段ボール箱が積まれている。人の気配のない、冷たい空間。
そして、男がいた。
パイプ椅子に腰かけ、電子タバコを吸いながらスマホをいじっている。四十歳くらいだろうか。黒いパーカーに黒いパンツ。ごくごく一般的な男性の服装をしている。顔立ちも特徴がない。強いて言うなら、おばあちゃん家のコタツでみかんを食べていそうな顔だと八生は思った。おそらく街ですれ違っても、あまり記憶に残らないタイプだ。
だが、その男の隣には、銀色の刃が光っているのが見えた。カッターナイフだ。
男の視線が、八生と交わった。
「起きたか?」
低い声。感情の読めない、平坦な口調だった。
八生は「ここは何ですか?」と言おうとしたものの、口元のガムテープに阻まれて、くぐもった音が漏れるだけだった。
男はゆっくりと立ち上がり、八生に近づいてきた。しゃがみ込み、顔を覗き込む。近くで見ると、目の下に濃い隈があり、剃り忘れたかのように髭が数ミリ生えていた。疲れ切ったような、何かに追い詰められているような顔。
「暴れるなよ」
男は言った。
「大人しくしてれば、何も……しないから。いいな?」
そう言いながらも、どこか男の声が震えているように感じられた。
(この状況で、何もしないとは、どういう意味だろうか。)
八生の視界の隅に、床に置かれたもう一つの別のカッターナイフが映る。男の足元にあり、すぐ手の届く位置でもある。予備なのか、それとも——。
男は八生の顔を見つめたまま、何かを迷っているようだった。唇が小さく動く。独り言を呟いているのかもしれない。
「……お前が悪いんじゃない」
男は、まるで自分に言い聞かせるように言った。
「お前が悪いんじゃない。ただ、俺には金が要るんだ。それだけなんだ」
金。
その言葉で、八生は状況を理解し始めた。
これは、身代金目的の誘拐だ。
だが、私に身代金を払える人間がいるのか。両親は介護職員と専業主婦。「お金がないから大学進学は無理よ」と言われているほど、裕福とは程遠い家庭である。そんな、貧乏家庭の娘に価値があるとは思えない。
男は私のことを知らないのか?それとも何か勘違いをしているのか?
いや——そもそも、この男は私のことなど調べていないのかもしれない。
八生は今朝のことを思い出した。
いつものように家を出るのが遅くなり、学校まで猛ダッシュで走った。だが、途中で息が切れて、人気の少ない住宅街に入ったところで、ペースを落とした。ゆっくりと歩きながら呼吸を整えていたとき——背後から、突然口を塞がれた。
叫ぼうとしたが、声が出ない。次の瞬間には腕ごと体を羽交い締めにされ、そのまま車に押し込まれた。薬品のような匂いを嗅がされて、そこで意識が途切れた。
つまり、この男は——たまたま歩いていた私を狙った可能性が高い。
八生は自分の姿を思い浮かべた。身長は低く、華奢な体型だ。母親に似て色白で、一見すると大人しそうに見えるタイプ。制服姿でとぼとぼと歩いている女子高生。狙いやすそうに見えたのだろう。
——だけど、この男は知らない。私は元陸上部で、中学時代には短距離走で学年一位だったことを。。
いずれにせよ、この状況はまずい。
八生の心臓が、激しく脈打ち始めた。
男は再びパイプ椅子に戻り、スマートフォンを取り出した。画面を睨みながら、イライラと指を動かしている。誰かに連絡を取ろうとしているのか。それとも、何かを調べているのか。
八生は周囲を観察した。
出入り口らしき扉は、男の背後にある。鍵が開いているのかどうかはよく分からない。
窓は高い位置にあり、結束バンドを外せたとしても八生の身長では手が届かないだろう。
床に敷かれたシートの端が、少しめくれている。そして壁際の段ボール箱に古びた机。男の足元のカッターナイフ。
どうすればいいのだろう。
どうすれば、ここから逃げられるのだろう。
八生は必死に考えた。だが、思考がまとまらない。
恐怖が、頭の中をかき乱し、最悪の状況ばかりが頭を過っていた。
その時、男のスマートフォンが鳴った。
「……ああ」
男は電話に出た。声のトーンが変わる。焦りと、苛立ちと、何か別の感情が混じっている。
「分かってる。分かってるよ。だから、もう少し待ってくれって……違う、逃げるつもりはない。金は用意する。必ず……」
電話の相手は、男に何かを要求しているようだった。男の顔が、みるみる青ざめていく。
「……分かった。三日だな。三日で、必ず」
電話が切れた。
男は、しばらく動かなかった。スマートフォンを握りしめたまま、虚ろな目で宙を見つめている。
そして、ゆっくりと八生の方を向いた。
その目に、何かが宿っていた。
追い詰められた人間の、最後の覚悟のような光。
「悪いな」
男は言った。
「計画が変わった」
男がカッターナイフを握り直した。
その瞬間、八生の全身を、冷たい恐怖が駆け抜けた。
殺される。
この男は、私を殺す気だ。
身代金の交渉が上手くいかなかったのか。それとも、最初から殺すつもりだったのか。理由は分からない。だが、男の目を見れば分かる。この男は、本気だ。
八生の呼吸が乱れた。鼻からの呼吸だけでは、酸素が足りない。視界が狭くなる。耳鳴りがする。心臓が、胸を突き破りそうなほど激しく脈打っている。
これが、パニックというものか。
頭では分かっている。冷静にならなければ。落ち着いて、状況を分析しなければ。だが、体が言うことを聞かない。恐怖が、全身を支配している。
一歩、また一歩と、男が近づくにつれて、カッターナイフの刃が、鮮明に目に映る。
八生の目から、涙がこぼれた。
死ぬ。
ここで、死ぬんだ。
こんな場所で。こんな形で。
まだ、やりたいことがたくさんあった。行きたい場所があった。会いたい人がいた。言いたい言葉があった。
おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん。
子供の頃、おじいちゃん・おばあちゃんと行った遊園地。お父さんと二人で行った海へのドライブ。お母さんが作ってくれた誕生日ケーキ。学校のみんなと一緒に、まだまだ学園祭の準備をしてる途中なのに、そんな——。
そして、今朝の、あの情けない朝のことが、最後の記憶になるなんて——。
男が、八生の目の前に立った。
八生は目を閉じた。
もう、駄目だ。
逃げられない。助けも来ない。
ここで、私は死ぬ。
——死ぬ。
その言葉が、八生の頭の中で反響した。
死ぬ。死ぬ。死ぬ。
何度も、何度も。
そして——。
ふと、八生の中で、何かが変わった。
私は、もうまもなく、ここで死ぬ。それは、ほぼ確定した未来だ。この男は本気で、私には逃げる手段がない。拘束され、声も出せず、周囲に助けを求める術もない。
——だけど。
八生は、ゆっくりと目を開けた。
男の顔が、すぐそこにあった。
だが、その時、八生の視線は、別のものを捉えていた。
床に置かれた、もう一本のカッターナイフ。
男の足元。男の死角。
——どうせ死ぬんだ。
八生の頭の中で、冷たい声が響いた。
——どうせ死ぬのなら、イチかバチか賭けてみるっきゃない。
八生は、一瞬の隙を待った。
男がふと横を向いた。よそ見をしたのだろう。その瞬間。
八生は全身の力を込めて、左側に体を倒した。
床に転がり、肩に激痛が走る。だが、構わない。目的は、あのカッターナイフ。
男が反応する前に、八生は床を転がった。背中に回された手が、冷たい金属に触れる。
カッターナイフだ。
八生は必死に刃物を掴んだ。逆向きに持ち、結束バンドに刃を当てる。切ろうとした。だが、角度が悪い。力が入らない。
「何やってんだ!」
男が叫んだ。駆け寄ってくる足音。
——間に合わない。
八生は判断した。結束バンドを切るより、今すぐ逃げる方が早い。
カッターナイフを握ったまま、八生は勢いよく立ち上がった。両手は後ろに縛られたまま。だが、足は自由だ。
空のダンボールを勢いよく蹴っ飛ばした。運よく男の顔面にダンボールの角がヒットした。
「うわっ……!」
その隙に出入り口に向かって走る。走る。ただ、走る。
——私は、足だけは速いんだ。
扉に体当たりをしたら、扉が開いた。鍵はかかっていなかったようだ。
夕暮れの光。車の音。人の声。
その中に、八生の身体は勢いよく投げ出された。
(イテッ)
アスファルトの凸凹でガムテープの間に隙間ができた。舌を使って隙間を広げ、大きく深呼吸をする。
「誰か!助けて!!!」
八生は、力いっぱいに叫んだ。
叫びながら、走った。
振り返らなかった。ただ、前だけを見て、全力で走った。
どれくらいの時間が経っただろう。
「ちょっと!あなた!」
女性の声がして、八生は足を止めた。
振り向くと、宅急便のお兄さんと、知らないおばさんが走って駆けよって来るのが見えた。
「あなたどうしたの?大丈夫?」
「今、110番するから」
八生の目には涙が溢れていた。
持っていたカッターナイフで、お兄さんに結束バンドの拘束を解いてもらい、おばさんの胸を借りて泣いた。
(生きている)
(私、生きている)
しばらくするとパトカーが到着。
八生は警察に保護された。
パトカーの中で、八生はぼんやりと窓の外を眺めていた。
男は、捕まっただろうか。
それとも、逃げたのか。
分からない。だが、今はそれはどうでもいい。
「大丈夫ですか」
隣に座った警察官が、優しく声をかけた。
「ええ」
八生は答えた。声が、まだ震えている。
「大丈夫です」
本当に大丈夫なのかどうか、自分でも分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
あの瞬間——死を受け入れたときに、不思議なことが起きた。
恐怖で曇っていた視界が驚くほど鮮明になった。身体の震えが一瞬にして消え去り、思考が冷たく、澄み渡った。
男の位置。
刃物との距離。
自分の体勢。
逃げ道。
全てが、はっきりと見えたのだった。
そして、イチかバチかの命を賭けた勝負に、全てを委ねた。
それは、逆説的な真実だった。
失うものがなくなったとき、人は初めて自由になる。
* * *
警察署に着くと、両親は、八生を抱きしめて泣いた。
「無事で良かった、本当に良かった」と、何度も繰り返した。
八生も泣いた。声を上げて、子供のように泣いた。
* * *
数日後。
警察からの連絡によると、男は逮捕されたという。借金を抱え、追い詰められた末の犯行だったらしい。計画性は低く、衝動的な部分も多かったと。
たまたま目についた少女。それが私だった。
男は私のことなど何も知らなかった。家庭環境も、身代金を払える見込みがないことも。ただ、狙いやすそうに見えた——それだけの理由で。
だから逃げられたのかもしれない。
諦めの先に、最後の一手を見出し、恐怖の檻を自分の手で破った。
そこに運も味方してくれた。
そして、この足が——陸上で鍛えた足が、私を助けてくれた。
八生は、今も生きている。
リビングの窓から、夕焼けが見えた。
オレンジ色の光が、部屋を柔らかく染めている。
母が淹れてくれた紅茶の湯気が、ゆらゆらと立ち上る中、八生は、深く息を吸った。
紅茶の香り。夕暮れの光。家族の温もり。
当たり前だと思っていたものが、こんなにも愛おしいなんて。
「八生」
母が言った。
「明日、何か食べたいものある?」
八生は少し考えて、答えた。
「お母さんのハンバーグ」
「いいね!ハンバーグ作るね!」
母が微笑んだ。
その笑顔を見て、八生は思った。
生きている。
今、ここに。
窓の外で、夕焼けがゆっくりと暮れていく。
明日が来る。
そして、明後日も。
その当たり前の奇跡を、八生は静かに噛みしめていた。
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