黄色いダウンと冬の夜
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
終電後の凍える夜道で、倒れている人を発見した私。通報すべきか、見て見ぬふりをすべきか。迷惑をかけたくない気持ちと、このまま放置すれば凍死するかもしれないという恐怖の間で揺れる心。小さな勇気が、誰かの命を救う——冬の夜に起きた、実話を元に描いた短編作品
本文
終電を降りた瞬間、頬を刺すような空気が容赦なく肌を撫でた。
冷たいというより「痛い」——そんな表現がぴったりの、真冬の深夜。
吐く息は一瞬で白く凍りつき、視界の端で儚く消えていく。
駅の改札を出ると、昼間は賑わっているはずの商店街も、シャッター街に変わっていた。
仕事の疲れが全身に染み込んで、足が鉛のように重い。
一歩踏み出すたび、靴底がコンクリートを叩く音だけが、静寂を破って響いていた。
「ああ、手袋……」
ふとポケットに手を突っ込んで、自宅に忘れたことに気づいた。
今朝は暖かかったから、つい油断してしまったのだ。
コートのポケットに両手を押し込んでみるものの、冷気はあらゆる隙間から容赦なく侵入してくる。
指先の感覚が、まるで砂時計の砂のように、じわじわと消えていくのが分かった。
「早く帰ってお風呂に入ろう」
呪文のように心の中で繰り返しながら、私は自宅への道を急いだ。
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この道は、地元の住民しか使わない生活道路だ。
昼間は子どもたちの声が響き、夕方には買い物帰りの主婦たちとすれ違う。
けれど深夜のこの時間、人の気配は完全に途絶える。
街灯もまばらで、オレンジ色の光が作る明暗のコントラストが、道を不気味なほど静かな舞台に変えていた。
私の足音だけが、規則正しく夜の帳を叩く。
その時だった。
視界の端に、何か「異質」なものが飛び込んできた。
黄色——それも、この暗闇に似つかわしくないほど鮮やかな山吹色の塊。
アスファルトの上に、まるで場違いな花が咲いたように、その色彩だけが浮き上がって見えた。
「……あんなところに、何かあったっけ」
足が自然と止まった。
本能が警鐘を鳴らしている。
近づいてはいけない。
関わってはいけない。
そんな声が、頭の中で大音量で響いた。
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けれど、好奇心と違和感が、私の足を前へと押し出した。
一歩、また一歩。
近づくたびに、その「物体」の輪郭が明瞭になっていく。
「ジャケット……?」
見慣れた、冬の街でよく見かける防寒着、ダウンジャケット。
目を凝らすと、その黄色いダウンジャケットの向こうに、アスファルトの色と同化していた黒いズボンが浮かび上がってきた。
黄色い物体ーーそれが「人」であるという事実が、徐々に脳に届き始めた。
「……まじか」
声が、勝手に喉から漏れた。白い息と一緒に、暗闇へと溶けていく。
---
そこにいたのは、間違いなく人間だった。
黄色いダウンジャケットのフードを被り、街に横たわる男性。おそらく20代半ばくらいだろうか。
気持ちがよさそうに目を閉じているのは、寝ているのか、倒れているのか、それとも——。
彼のズボンの下あたりのアスファルトが少し濡れていることに気づいた。
「失禁か?」
いや、昨日は雨が降っていた。すでに周辺の道路は乾いているが、日当たりの悪い場所にはまだ痕跡が残ってもいる。
「水たまりか?」
私は立ち止まり、頭の中で激しい議論が始まった。
(どうしよう。どうすればいいんだ)
私は、ミステリー小説が好きだ。
週末には必ず一冊、殺人事件の謎を解く探偵の活躍を追いかけている。
だからこそ、警察と聞くと反射的に「殺人事件」という言葉が脳裏をよぎってしまう。
(もしこれが「事件」だったら? でも、ただの酔っ払いかもしれない。いや、でも……)
東京の夜は、時として人を容赦なく飲み込む。
酔って寝込んだサラリーマンが、そのまま朝まで路上で眠り続ける——そんなニュースを、私は何度も見たことがあった。
(寝ているだけなら、起こさない方がいいのかな。しかし、この寒さ。このまま朝までここにいたら……)
風が吹いた。木枯らしが、私のコートの裾を容赦なく揺らす。指先の感覚は、もうほとんど失われていた。この寒さの中、何時間も外にいたら、人間の体はどうなってしまうのだろう。
(凍死——そんなこと、本当に起こりうるんじゃないか)
「でも、110番なんてしたことないし……」
声に出してみると、自分の弱気さが恥ずかしくなった。
もっとも恐れていたのは、警察の「塩対応」だ。
もし電話して、「そんなことで電話してくるな」と呆れられたら?
「ただの酔っ払いでしょう。放っておけばいいんです」と冷たく言われたら……?
凍えるような寒さと、仕事の疲れ。自分の限界が見えつつある私にとって、このタイミングで塩対応などされたらたまったもんじゃない。
否定されたくない。面倒な人だと思われたくない。そんな気持ちが、私の手を縛っていた。
でも、ポケットの中で必死に温めようとしている自分の手。
この痛みが、答えを教えてくれた。
「……痛い。こんなに痛いんだ」
この寒さを、体が拒絶している。生命の危機を、本能が訴えている。
だったら、あの黄色いダウンジャケットの中にいる人も、同じはずだ。
このまま私が何もしなければ、朝「黄色いジャケットを羽織った男性が道端で死亡」というニュースが目に入ることになるかもしれない。
「俺のちっぽけな自尊心なんかより、人の命の方が大事だろ」
意を決して、かじかんで動かなくなった指で、スマホをポケットから引っ張り出した。
画面の明るさが、一瞬だけ周囲を照らす。
1、1、0。
震える指で、番号を押した。
コール音が響く。深夜の静寂の中で、その音は驚くほど大きく、私の鼓動と重なって聞こえた。一回、二回、三回——。
「はい、警察です。事件ですか、事故ですか」
落ち着いた、けれど力強い声が聞こえた瞬間、少しだけ胸を撫で下ろした。
「あの、その……人が、倒れています」
声が震えている。自分でも分かった。
「倒れている、ですね。場所はどちらですか」
「○○市××町の△△駅を降りて……えっと、歩いて10分くらいの道路です。えっと、住宅地の中ですね。その、お菓子屋さんの角を曲がったところのです……」
「その方の様子はどうですか。呼吸はしていますか」
「え、あ、そこまでは……」
「声かけて見てもらえます?」
私は道に横たわるその男に、やさしく声をかける。
トントントン…
「大丈夫ですか?」
しかし、彼からの反応は何一つなかった。
呼吸はーーどうすれば確認できるのか、よくわからなかった。
「反応ありませんでした」
そう警察に伝える。
「分かりました。今から警察官と救急車を向かわせます。そのまま待っていてください。すぐ行きますので、道路の見えやすい位置に立って誘導してもらえますか?」
「はい……」
電話口の警察官は、私が想像していたよりもずっと丁寧で、そして何より冷静だった。
私は、というと、何者だかまるで分からない黄色いダウンジャケットの隣で、ただソワソワと立っていた。
風が、また吹いた。
街灯の光が、私を、まるで舞台のスポットライトのように照らしているような、そんな気がした。
やがて、遠くから甲高いサイレンの音が聞こえてきた。
最初は小さな音だったそれが、徐々に大きくなり、やがて赤と青の光が夜の闇を切り裂いた。
パトカーが、私の目の前に滑り込むように停車する。
「お疲れ様です」
降りてきたのは、四十代くらいの、少し太めの警察官だった。もう一人、若い警察官も一緒だ。二人とも、慣れた様子で現場に近づいてくる。
「通報してくれた方ですね。ありがとうございます」
若い警察官が、私に声をかけた。
「あ、はい……」
「状況を教えてください。何時頃、発見されましたか」
「さっきです。終電で帰ってきて、この道を通ったら……」
説明している間に、太めの警察官が黄色いダウンジャケットに近づいていった。
「もしもし、大丈夫ですか! 聞こえますか!」
パンパン、と背中を叩く音が響く。
(あっ、こんなに勢いよく叩くのか?)
トントンと優しく声掛けをしていた自分に反省をする。
すると、ダウンジャケットの主から、「う……ん……あ……」という寝ぼけたような声が漏れた。
(あ、起きた……)
「お酒、飲んでますか? 大丈夫ですか」
警察官の問いかけに、男性は「……ん…………」とだけ答えた。どうやら、かなり泥酔していそうだ。
そこへ、救急車のサイレンが近づいてきた。白い車体が、パトカーの隣に停まる。
「お疲れ様です」
救急隊員が降りてくると、警察官と手短に状況を共有する。プロフェッショナルな動きに、私はただ見守ることしかできなかった。
「君、この人とはどんな関係?」
若い警察官が、メモを取りながら聞いてきた。
「いえ、全く知らない人です。ただ通りかかって、倒れているのを見つけたので……」
「そうか。名前と連絡先を教えてもらえるかな」
「はい」
私は、住所と名前、電話番号を伝えた。同じ質問を、少し言い方を変えて何度か聞かれた。きっと、事件性がないか確認しているのだろう。
「この方、意識はあるみたいですね。でも低体温症の可能性があるので、念のため病院で診てもらいます」
救急隊員が、ストレッチャーを用意しながら言った。黄色いダウンジャケットの男性は、まだ寝ぼけているように見える。
「はい、今から病院に行きますからね。大丈夫ですよ」
救急隊員の優しい声が、夜に響いた。
手続きが一段落し、救急車に男性が運ばれていくのを見届けた。
周囲は、また静寂に戻ろうとしていた。
「ありがとうございました!」
太めの警察官が、私に向かって頭を下げた。
「あ、いえ……あの」
言いかけて、少し躊躇する。でも、どうしても聞きたかった。
「こんなことで、呼んじゃって……ご迷惑じゃなかったでしょうか」
すると、警察官は、マスク越しでも分かるくらい優しく目を細めた。
「そんなことないよ。全然迷惑じゃない」
「本当ですか……」
「うん。このまま朝まで寝てたら、凍死しちゃうかもしれなかった。今日は特に冷え込んでるからね。君が見つけて、通報してくれたおかげで、あの人は助かったんだ」
その言葉が、胸に染み込んだ。
「110番するのって、すごく勇気がいったでしょう?」
若い警察官も、優しく声をかけてくれた。
「はい……正直、迷いました。もし酔っ払いなだけだったら、怒られるんじゃないかって」
「そんなこと、絶対にないから。むしろ、ありがとうって言いたいくらいだよ。最近は、見て見ぬふりする人も多いんだ。でも君は、ちゃんと行動してくれた。それって、簡単なことじゃないよ」
「……ありがとうございます」
心の底から、そう言った。凍りついていた心が、ふわりと解けていくのを感じた。
「気をつけて帰ってね。寒いから、温かくして」
「はい。本当に、ありがとうございました」
私は深く頭を下げて、ようやく家路につくことができた。
パトカーと救急車が走り去った後、道は再び静寂に包まれた。でも、さっきまでとは何かが違っていた。空気が、少しだけ軽くなったような気がした。
体は芯まで冷え切っていたけれど、家に向かう足取りは、来た時よりもずっと、ずっと軽かった。
家に着いて、鍵を開ける。温かい空気が、玄関から溢れてきた。
「ただいま……」
誰もいない部屋に、そう呟いた。
コートを脱いで、やっと手袋のことを思い出した。ポケットに突っ込んでいた手を見ると、指先が真っ赤になっている。お湯で温めると、ジンジンと痛みが戻ってきた。
「痛……でも、生きてる証拠だ」
そう思った。
あの黄色いダウンジャケットの男性は、その後どうなったのだろう。名前も、顔も、年齢も知らない。きっと、もう二度と会うことはないだろう。
でも、せめて暖かい病院のベッドで、安全に目を覚ましていることを、今はただ願っている。
お風呂に入って、体の芯まで温まった。湯船に浸かりながら、今日のことを反芻する。
もし、あのまま通り過ぎていたら。もし、110番する勇気が出なかったら。
——きっと、ずっと後悔していただろう。
「正解なんて、分からない。でも、少なくとも後悔はしていない」
そう呟いて、私は深く息を吐いた。
窓の外では、冷たい風が吹き続けている。でも、この部屋は暖かい。
そして今夜、どこかの病院で、もう一人——黄色いダウンジャケットの男性も、暖かい場所にいるはずだ。
それだけで、十分だった。
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