干し柿と太陽
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
怒声に怯え、思考停止していた尚哉を救ったのは、先輩の「いいよ」だった。七年後、今度は自分が後輩に同じ言葉を贈る。否定の連鎖を断ち切り、肯定を繋いでいく再生の物語。
本文
一月十四日。
手帳の隅に小さく書かれた「いいよの日」という文字を眺めながら、大塚尚哉はふと、遠い日の記憶を呼び覚ましていた。
オフィスの窓から差し込む冬の日差しは、どこか優しげだ。けれど尚哉の心には、かつての冷たい空気がよみがえる。
七年前の職場は、鋭い言葉が飛び交う戦場のような場所だった。
「何回言わせるんだ、大塚」
上司の三嶋康行は、尚哉の資料を机に叩きつけながら言った。その音が、静まり返ったフロアに響き渡る。
「お前の代わりはいくらでもいる。分かってるのか?」
「申し訳……ありません」
「申し訳ないじゃねえんだよ。結果で示せって言ってんだ」
周囲の社員たちは、まるで何も見えていないかのように自分の仕事に没頭している。誰も助けてはくれない。それが当たり前の光景だった。
尚哉の心はすくみ、頭の中は真っ白になった。正解を探そうとすればするほど、何が正しいのか分からなくなる。思考は停止し、ただ「怒られないこと」だけを祈る透明なロボットのようになっていた。
帰り道、尚哉はいつも同じことを考えた。
——自分には才能がないのかもしれない。
——この仕事に向いていないのかもしれない。
——いっそ、辞めてしまおうか。
駅のホームに立つたび、足元の黄色い線がやけに鮮明に見えた。電車が通過するときの風圧に、身体がふらりと揺れる。危ない、と思いながらも、どこか他人事のような感覚だった。
そんな暗闇の中に、ひょいと顔を出してくれたのが土屋貴弘先輩だった。
「尚哉くん、眉間にシワ寄りすぎて、干し柿みたいになってるよ?」
ある日の昼休み、土屋は自分の弁当箱を片手に、尚哉のデスクにやってきた。
「え……」
「いやいや、干し柿は言い過ぎたかな。干しブドウくらいにしとこうか」
土屋はそう言って、自分の顔をくしゃっとさせておちゃめに笑う。爽やかで健康的なその笑顔は、それだけで職場の重苦しい空気を数度上げてくれるようだった。
「土屋さん……」
「ん? なに、深刻な顔して。昼ごはん、まだでしょ。一緒に食べない?」
「いえ、自分は……」
「遠慮しなくていいって。ほら、屋上行こう。天気いいしさ」
土屋は有無を言わさず、尚哉の腕を引いた。
屋上に出ると、冬の澄んだ空気が肺に染みた。
「ここ、俺の秘密基地なんだ」
「秘密基地、ですか」
「そう。煮詰まったときとか、ここで空見てると、なんか楽になるんだよね」
土屋はベンチに座り、弁当を広げた。尚哉も恐る恐る隣に座る。
「尚哉くんさ、最近元気ないね」
「……すみません」
「いや、謝らなくていいって。ただ、心配してるだけ」
土屋はおにぎりを頬張りながら、尚哉の顔をじっと見た。
「三嶋さん、きついよね」
「……はい」
「でもさ、あの人の言葉、全部真に受けなくていいんだよ」
「え?」
「怒鳴る人の言葉って、八割くらいは『自分の機嫌』なんだ。残りの二割だけ拾えばいい」
尚哉は目を見開いた。そんなふうに考えたことは、一度もなかった。
「俺もさ、昔は怒られるたびに凹んでたんだけど。ある時気づいたんだよね。怒ってる人って、自分が不機嫌なだけのことが多いって」
「……でも、実際、自分のミスで」
「ミスはミスとして直せばいい。でも、人格まで否定される筋合いはないんだよ、尚哉くん」
その言葉が、凍りついた心に小さな亀裂を入れた。
数日後、尚哉は震える手で土屋に資料を差し出した。
「土屋さん、この資料、見ていただけますか……」
「おっ、なになに。見せて見せて」
土屋は資料をじっくりと眺めた。尚哉は心臓が破裂しそうだった。また否定される。また「やり直し」と言われる。そう覚悟していた。
けれど土屋は、にこやかに言った。
「……うん、いいよ。ここ、すごくいい」
尚哉は耳を疑った。
「え……?」
「この現場の声を拾っている部分。君の丁寧さが出てるよ。これは絶対にこのまま残すべきだ。自信を持って」
「本当、ですか……?」
「本当本当。俺、お世辞言うの下手だからさ」
土屋は笑って、資料の一箇所を指差した。
「ただ、この集計方法だけ、次はこう変えてみない? そうすれば君の良さがもっと伝わるから」
「はい……はい!」
「よしよし。いい返事だ」
全否定ではなく、一部の肯定。それがどれほど尚哉の凍りついた心を溶かしたか。
土屋がくれたのは、単なるアドバイスではなく「自分はここにいてもいい」という許可証だった。
「土屋さん」
「ん?」
「ありがとうございます」
「いやいや、俺は何もしてないよ。君が頑張ったんだ」
土屋はそう言って、尚哉の肩をぽんと叩いた。
「でもさ、尚哉くん。一個だけ覚えておいて」
「はい」
「怒鳴られて覚えたことより、笑って覚えたことの方が、ずっと忘れないからさ」
その言葉は、尚哉の心に深く刻み込まれた。
* * *
「……大塚さん、あの、すみません」
現実に引き戻された尚哉の目の前には、かつての自分と同じように真っ青な顔をした後輩の阿部裕理が立っていた。入社二年目、真面目で責任感が強い。それゆえに、一度のミスで「自分はもう終わりだ」と極端に落ち込む傾向があった。
「大きなミスを……発注数を一桁間違えてしまいました。本当に、申し訳ありません」
阿部は今にも泣き出しそうで、肩を震わせている。周囲の社員が、あちゃあ、と冷ややかな視線を向けるのが分かった。
隣のデスクの岩立菜穂が、心配そうな顔で阿部を見ている。
——ああ、この状況。
尚哉は七年前の自分を思い出した。あのとき、自分がどれほど怯えていたか。どれほど「許し」を求めていたか。
尚哉は一呼吸おき、自販機で買っておいたカフェオレを阿部のデスクに置いた。そして、土屋先輩のことを思い出しながら、少し不器用にはにかんでみせた。
「阿部くん。まずは報告してくれてありがとう」
「え……」
「いいよ、ミスは誰にでもある」
「で、でも、これ、大きな損失に……」
「うん、確かにミスだ。でもね、隠さずに報告してくれたこと、それがまず偉い」
阿部は呆然とした顔で尚哉を見ている。
「それに、今回のプロジェクト、阿部くんがクライアントと粘り強く交渉してくれたおかげでここまで来たんだ」
「そんな……私なんて、全然……」
「いやいや、先方の山田さん、君のこと褒めてたよ。『阿部さんは話をちゃんと聞いてくれる』って」
「本当、ですか……?」
「本当本当。俺、お世辞言うの下手だからさ」
言ってから、尚哉は内心で苦笑した。土屋先輩の台詞、そのまんまだ。
阿部の瞳に、驚きの色が走る。
尚哉は言葉を継いだ。
「その熱意は、僕もチームも本当に助かってる。そこは君の素晴らしい強みだよ」
「……ありがとう、ございます」
「だから、その強みを台無しにしないために、このチェック工程だけ一緒に見直そう」
尚哉は椅子を引き寄せ、阿部の隣に座った。
「ほら、ここ。発注書のダブルチェック欄、今は一人で確認してるでしょ?」
「はい……」
「これ、二人体制にしない? 岩立さんにも協力してもらってさ」
岩立が「もちろん、いいですよ」と笑顔で頷いた。
「一人で抱え込まなくていいんだよ、阿部くん。チームってそういうものだから」
「……はい」
「いいかい。怒鳴られて覚えたことより、笑って覚えたことの方が、ずっと忘れないからさ」
阿部がはっと顔を上げた。
「次は笑って成功させよう。な?」
阿部の目に、確かな光が戻った。
彼は深く頷き、「はい!」と前を向いた。
「大塚さん」
「ん?」
「私も……いつか、大塚さんみたいになれますかね」
「なれるよ。っていうか、もうなりかけてる」
「え?」
「だって今、ちゃんと前向いてるじゃん」
阿部は照れくさそうに笑った。その笑顔を見て、尚哉は思った。
——土屋先輩、俺、ちょっとは近づけましたかね。
* * *
その夜。
帰宅した尚哉を出迎えたのは、「パパー!」という元気な声と、がしゃん、という不吉な音だった。
「あっ……」
リビングに駆けつけると、五歳の娘・世蘭が、床に散らばったガラスの破片の前で固まっていた。結婚記念日に妻と二人で選んだ、思い出のグラスだった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
世蘭は半泣きで、小さな手を握りしめている。
尚哉の胸に、一瞬、熱いものがこみ上げた。——怒り、ではない。悲しみでもない。
七年前の自分が、重なって見えたのだ。
「世蘭」
「……ごめんなさい」
「いいよ」
尚哉はしゃがみ込んで、娘を抱きしめた。
「怪我はない?」
「ない……」
「よかった。それが一番大事だから」
「でも、パパとママの大事なコップ……」
「うん、大事だったね。でもね、世蘭の方がもっと大事だよ」
妻の千咲が、掃除機を持ってリビングに入ってきた。
「あらあら、大丈夫?」
「うん、怪我はないみたい」
「よかった。陽菜、今度から気をつけようね」
「……うん」
千咲は微笑んで、尚哉にウインクした。
——いいパパになったね。
そう言われた気がして、尚哉は少し照れくさくなった。
* * *
子供を寝かしつけた後、尚哉は一人静かにお風呂に浸かっていた。
たっぷりのお湯に肩まで浸かり、ふう、と深く息を吐く。入浴剤のラベンダーの香りと共に、一日の緊張が溶けていく。
湯船の縁に腕を乗せ、ぼんやりと天井を見上げた。
今日一日、いろんなことがあった。阿部くんのミス。娘のグラス。でも、どちらも「いいよ」と言えた。
七年前の自分には、想像もできなかったことだ。
湯気の向こう、曇った鏡に映る自分の顔は、かつての怯えた若者のものではなかった。
三十代半ば。少し疲れた顔。でも、悪くない顔だと思う。
「……うん。いいよ」
誰かに向けた言葉を、今度は自分自身に、小さな声で贈ってみる。
土屋先輩ほど完璧じゃないし、おちゃめな冗談もうまく言えないけれど。それでも今日、誰かの心を少しでも救えたのなら。
「よくやってるよ、尚哉」
お湯をかき混ぜる音が、優しく耳に響く。
「いいよの日」。
一月一四日を「一」「一」「四」と読んで、「いいよ」。
くだらない語呂合わせだと笑われるかもしれない。
でも尚哉は、この日を大切にしようと決めていた。
一年に一度、自分に「いいよ」と言ってあげる日。
完璧じゃなくても、失敗しても、それでも「いいよ」と許してあげる日。
土屋先輩は今、どこで何をしているだろう。
数年前に転職して、別の会社で活躍しているらしい。
きっと今日も、誰かに「いいよ」と言っているに違いない。
——先輩、俺、あなたにもらったバトン、ちゃんと繋いでますよ。
湯船から上がり、脱衣所で身体を拭く。鏡の中の自分に、もう一度小さく頷いた。
(了)
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