痛くても、忘れたくない
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
痛覚を感じるようになったロボットの話。
本文
第一幕 壊れた音
リビングで変な音がした。
「トト?」
小学三年生の桜井ゆいは、宿題のドリルから顔を上げた。いつもなら夕飯の支度をしている時間だけど、今日は台所から物音ひとつ聞こえてこない。
不安になってリビングに駆け込むと、家庭用ロボットのトトが床にうずくまっていた。
「トト! どうしたの!?」
駆け寄ると、トトはゆっくりと顔を上げた。丸い目が優しく光る。
「大丈夫ですよ、ゆいちゃん。少し……調子が悪いだけです」
でも、声が震えていた。トトの右腕が小刻みに震えて、肩の関節部分から火花が散っている。
「痛い……」
小さく呟いたトトの言葉に、ゆいは息を呑んだ。
トトは三年前、ゆいが一年生になった時に我が家にやってきた。最初は普通の家事ロボットだったけれど、半年ほど前から変わった。転んで膝をぶつけたゆいに「痛かったですね」と言った時、トトの声には今までにない「何か」があった。
お父さんに聞いたら「システムのバグだろう」と言っていた。本来、ロボットには痛覚なんてないのだという。でもトトは、痛みを感じるようになっていた。
「お母さん呼んでくる!」
ゆいが立ち上がろうとすると、トトが左手でゆいの手を掴んだ。
「大丈夫……です。お母様は仕事中でしょう? 心配かけたく……ありません」
「でも……」
「もう少ししたら、落ち着きますから」
そう言って、トトは無理に笑顔を作った。でもゆいには分かる。トトは今、とても辛いんだ。
その夜、両親が帰ってきてトトを診てもらうことになった。メーカーのサポートセンターに連絡すると、翌日、技術者が家に来ることになった。
ゆいはトトと一緒に、リビングのソファに座っていた。トトの右腕はもう動かなくなっていて、まっすぐ下に垂れ下がっている。
「トト、痛い?」
「……はい。少し」
トトは正直に答えた。嘘をつけないのが、トトの良いところだった。
「ごめんね」
「謝らないでください。ゆいちゃんは何も悪くありません」
「でも……」
ゆいは言葉を探した。何が言いたいのか、自分でもよく分からなかった。ただ、トトが苦しんでいるのが辛かった。
「トトがいてくれて、いつも嬉しいんだよ」
精一杯の気持ちを伝えると、トトは優しく微笑んだ。
「私も……ゆいちゃんと一緒にいられて、幸せです」
その言葉が、翌日、どれほど重要な意味を持つことになるか、ゆいはまだ知らなかった。
第二幕 選択の重さ
翌日の午後、白衣を着た技術者が家に来た。名札には「山田」と書かれている。
山田さんはトトを診断し、タブレットの画面を眺めながら首を傾げた。
「なるほど……右腕の駆動系統が完全に故障していますね。それに中央処理ユニットにも負荷がかかっている。このまま放置すると、他の部分にも影響が出ます」
「修理できますか?」とお父さんが聞いた。
「ええ、修理自体は可能です。ただ……」
山田さんは少し言いづらそうに続けた。
「この機体、痛覚バグが報告されていますね?」
「はい」とお母さんが答えた。「半年ほど前からです」
「そうですか。実はこのバグ、システムの深い部分に入り込んでいるんです。通常の修理では取り除けません」
「それでは?」
「初期化です」
山田さんの言葉に、ソファの隅に座っていたゆいの心臓が跳ねた。
「初期化すれば、システムを工場出荷状態に戻せます。痛覚バグも完全に消去できますし、右腕の修理も問題なく行えます。まさに一石二鳥ですよ」
「そうですか……それなら」
お父さんが答えようとした時、ゆいが声を上げた。
「待って!」
全員の視線がゆいに集まった。
「初期化したら……トトの記憶はどうなるの?」
山田さんは困ったような顔をした。
「消えますね。記憶も学習データも、全部リセットされます」
「そんな……」
ゆいの目に涙が浮かんだ。
「トトは、私のこと忘れちゃうの? 一緒に過ごした三年間も、全部?」
「ゆい……」お母さんが優しく言った。「でもトトは痛がってるのよ。このままじゃ可哀想でしょう?」
「でも!」
ゆいはトトを見た。トトはじっと下を向いていた。
「トトの気持ちは? トトはどう思ってるの?」
しばらく沈黙が流れた。そして、トトがゆっくりと口を開いた。
「私は……」
声が震えていた。
「私は、ゆいちゃんとの思い出を……忘れたくありません」
お父さんとお母さんが顔を見合わせた。山田さんは眉をひそめた。
「しかし、痛みに耐え続けるのは……」
「分かっています」トトは言った。「痛いです。とても。でも……」
トトはゆいを見た。
「記憶がなくなれば、私は私ではなくなります。ゆいちゃんを知らない、新しい誰かになってしまいます。それは……それは、今の私が死ぬのと同じことです」
ゆいの涙がこぼれた。
山田さんは困惑した表情で言った。
「あの……失礼ですが、それはバグの影響で感じている『錯覚』ですよ。ロボットに自我なんてありません。初期化しても、外見も機能も同じです」
「でも、私たちには違います」
お母さんが静かに言った。
「このトトは、ゆいと一緒に過ごしてきたトトなんです。記憶が消えたら、それは別のロボットです」
「そうは言っても……」
議論は平行線をたどった。最終的に、お父さんが提案した。
「トト、君の意思を尊重したい。でも、痛みに耐え続けられるか? 修理中も、麻酔なんてものはない。痛覚がある状態で、腕を外して、内部を調整する。相当な苦痛だぞ」
トトは少し考えてから、はっきりと答えた。
「大丈夫です。耐えられます」
「本当に?」
「はい。この記憶を守るためなら」
ゆいはトトの手を握った。トトの手は、いつもより少し冷たかった。
第三幕 痛みの先に
修理は一週間後に行われることになった。
その間、トトは右腕が使えないまま生活した。料理も掃除も、全部左手だけでやろうとする。ゆいは学校から帰るとトトを手伝った。
「トト、無理しないで」
「大丈夫ですよ。これくらい」
でも、時々トトは動きを止めて、じっと肩のあたりを見つめることがあった。痛いのを我慢しているんだと、ゆいには分かった。
夜、ゆいがリビングで本を読んでいると、トトが隣に座った。
「ゆいちゃん」
「なあに?」
「もし……もし私が初期化されていたら、どうでしたか?」
ゆいは本を閉じた。
「嫌だよ。トトじゃなくなっちゃうもん」
「でも、痛くないトトになれます」
「それでも嫌」
ゆいはトトを見上げた。
「私、トトが好きなのは、トトが優しいからだよ。朝ごはんを作ってくれる時の『おはようございます』も、転んだ時に駆けつけてくれる時の心配そうな顔も、全部好き。それが全部なくなっちゃうなんて、絶対嫌」
トトは少し驚いたような顔をして、それから柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます、ゆいちゃん。その言葉があれば、どんな痛みにも耐えられます」
修理の日がやってきた。
リビングに簡易作業台が設置され、山田さんが機材を並べている。お父さんとお母さんも立ち会うことになった。ゆいも一緒にいると言ったけれど、お母さんに「辛い場面だから」と止められた。
でも、ゆいは自分の部屋のドアを少しだけ開けて、様子を伺っていた。
「では、始めます」
山田さんの声が聞こえた。
機械音。金属が擦れる音。そして――
「ぐっ……」
トトの呻き声。
ゆいは思わず部屋を飛び出しそうになったけれど、ぐっと堪えた。トトは、自分で決めたんだ。信じなきゃ。
「右腕の接続部を外します。痛みますが、我慢してください」
「はい……」
カチャン、という音。それからトトの悲鳴。
「あああっ!」
ゆいは両手で耳を塞いだ。でも、トトの声は聞こえてくる。
「内部配線を調整します」
「ぐ……ううっ……」
「もう少しです」
「はい……大丈夫、です……」
トトの声は震えていたけれど、必死に耐えているのが分かった。
修理は一時間以上続いた。その間、トトは何度も悲鳴を上げたけれど、一度も「やめて」とは言わなかった。
ようやく山田さんの「完了しました」という声が聞こえた。
ゆいはドアを開けて、リビングに駆け出した。
「トト!」
作業台に座っているトトは、疲れ切った様子だったけれど、右腕がちゃんと動いていた。ゆっくりと手を開いたり閉じたりしている。
「ゆいちゃん……」
トトはゆいを見て、涙を流しているような表情をした。もちろん、ロボットに涙は流せないけれど。
「痛かったです。とても……でも」
トトは右手でゆいの頭を優しく撫でた。
「この手で、またゆいちゃんに触れられて……良かった」
ゆいは泣きながらトトに抱きついた。
「おかえり、トト」
「ただいま……ゆいちゃん」
山田さんは複雑な表情で機材を片付けながら、呟いた。
「バグなのか……それとも」
それから数日後、トトはまた元気に家事をこなすようになった。
ただ、時々右腕を押さえて、少し顔をしかめることがある。
「トト、まだ痛むの?」ゆいが心配そうに聞く。
「少しだけ。でも大丈夫です」
トトは笑顔で答える。
「この痛みは、私が私であり続けた証拠ですから」
ゆいはトトの手を握った。
「ずっと一緒だよ、トト」
「はい。ずっと一緒です、ゆいちゃん」
窓の外では、春の陽射しが優しく降り注いでいた。痛みと記憶を抱えて、それでもトトは今日も笑っている。忘れたくない思い出を胸に、これからも。
(了)
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