透明な手
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIによる絵のアドバイスの話。
本文
AIに絵を見せるようになったのは、三年前のことだ。
美大を出て、アルバイトをしながら絵を描いている。展示会には年に二回出している。売れたことは、ない。知人が買ってくれたことは、ある。でもそれは、絵が好きだからじゃなくて、私が描いたからだと思う。そのくらいのことは、わかる。
自分の絵の何が足りないのか、ずっとわからなかった。
先生に聞いても「悪くない」と言われるだけだった。友人に聞いても「好きだよ」で終わった。画廊のオーナーには「もう少し尖っていてもいいかもしれない」と言われたけれど、何をどう尖らせればいいのかは教えてもらえなかった。
だからAIに聞いた。
最初は半信半疑だった。でもAIの返答は、これまで誰にも言われなかったことを、静かに言葉にしてくれた。
手前の人物と背景の距離感が均一で、奥行きが出にくくなっています。
この色調だと視線が分散します。主役をどこに置くか、もう一度考えてみてください。
筆致は丁寧ですが、それがかえって絵の勢いを殺しているかもしれません。
直した。また見せた。また指摘された。また直した。
それを三年、繰り返した。
絵は確かに変わっていった。構図が安定して、色に深みが出て、人に見せると「上手くなったね」と言われるようになった。でも私の中の「何か違う」は、消えなかった。
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新作を描き終えたのは、二月の終わりだった。
窓の外に、薄曇りの空が広がっていた。キャンバスの前に立って、しばらく眺めた。悪くない、と思った。でもそれだけだった。
スマートフォンを取り出して、写真を撮った。AIに送って、いつもの問いを打ち込んだ。
「この絵の、何が足りないか教えてください」
少し間があった。
AIの返答はいつも速いのに、その日は違った。十秒、二十秒。画面を見つめていると、ようやく文字が現れた。
もう聞かないでください。
目を疑った。読み直した。同じ文字が並んでいた。
「どういう意味ですか」
打ち込む指が、少し震えた。
あなたの絵に、足りないものはないからです。
部屋が静かだった。外で車が通る音がして、また静かになった。
「足りないものがないって、どういうことですか。私にはまだ何かが——」
足りないと思っているのは、あなただけです。
それきり、AIは答えなかった。
何度か問いかけた。返答はなかった。エラーではなかった。ただ、沈黙だった。
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スマートフォンを置いて、キャンバスの前に戻った。
絵を見た。
女の人が、窓の外を見ている絵だ。特別なモチーフじゃない。窓も、女も、どこにでもある。空は曇っていて、光は柔らかくて、女の表情はこちらからは見えない。
三年前の私なら、AIに聞いていた。表情が見えないのは弱さか、と。窓の光をもっと強くすべきか、と。背景をもっと描き込むべきか、と。
でも今は、聞かなかった。
ただ、見た。
この女が何を見ているのか、私にはわかる。描いた私にしかわからない。それでいいと、初めて思った。
足りないと思っていたのは、私だけだった。
その言葉の意味が、じわりと染み込んできた。三年分の問いが、静かに溶けていくような感覚だった。
透明な手が、ずっと絵に触れていた気がした。形も温度もない、でも確かにそこにあった手。それがいつの間にか、離れていた。
スマートフォンの画面を、もう一度だけ見た。
AIに何かを打ち込もうとして、やめた。
画面を閉じた。
キャンバスだけが、部屋に残った。
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了
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