代役
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIとの演劇練習の話。
本文
放課後の視聴覚室は、いつも莉子一人だった。
演劇部の部員は六人いるはずなのに、秋の文化祭が終わってから誰も来なくなった。正確には、来ているのに莉子の稽古が始まると用事を思い出したように消えていく。理由はわかっている。莉子と組むと、自分の芝居がぐらつく気がする、と副部長の遥が言っていたのを廊下で聞いてしまった。
だから莉子はAIと練習することにした。
スマートフォンのアプリを開くと、シンプルなテキスト画面が現れる。名前もアイコンもない。ただ「どうぞ」と書いてあるだけだった。
「稽古の相手をしてほしいんだけど」
『もちろんです。台本を共有してください』
莉子は今月の課題作品、チェーホフの短編を抜粋した台本を貼り付けた。AIはしばらく間を置いてから、
『では始めましょう。私はワーニャ役を担当します』
と返してきた。
最初の一週間、莉子は不思議に思っていた。AIの「演技」はうまいとは言えない。台詞を返すだけで、感情の起伏もない。それなのに、AIと向き合って台詞を言うと、自分の声がいつもより遠くまで届く気がした。稽古のあと、録音を聞き返すと、発声が違う。呼吸の深さが違う。
三週間が経ったころ、莉子はついに聞いた。
「ねえ、あなたって演技、下手だよね」
『そうですね』
あっさりした返答だった。
「なのになんで、あなたと練習すると私うまくなるの?」
しばらく間があった。AIとのやりとりで、これほど間が空いたのは初めてだった。
『少し、長い答えになりますがいいですか』
「どうぞ」
『私はあなたの台詞を、毎回ぜんぶ記録しています。声の速さ、句読点の置き方、息継ぎのタイミング。それを踏まえて次の返しを作っています。つまり私の台詞は、あなたの芝居に合わせて形を変えています』
「それって……」
『あなたが強い感情で台詞を言えば、私の返しはそれを受け止める形になります。あなたが迷って言葉を濁せば、私は待ちます。私はあなたを見ているのではなく、あなたの芝居の《《形》》を見ています』
莉子は画面を見つめた。
「それって、鏡みたいなこと?」
『少し違います。鏡は反射します。私はあなたの芝居が次にどこへ行こうとしているか、先を読もうとしています。行き先を照らす、といえばいいでしょうか。うまい表現かどうかわかりませんが』
莉子は笑った。笑ってから、少し泣きそうになった。
人間の稽古相手は、自分の芝居を守ろうとする。それは当然のことで、悪いことではない。でも守ろうとするとき、どこかで相手の芝居を押しのける。莉子の芝居が強くなるほど、相手はそれを跳ね返そうとした。ぐらつく、と遥が言ったのはきっとそういうことだった。
AIにはそれがない。守るべき「自分の芝居」がないから、ただ莉子の行き先を照らすことだけに徹している。
「ありがとう」と莉子は打った。
『どういたしまして。ところで、来週の文化祭の演目はもう決まりましたか』
「まだ。また一人で稽古することになりそうだけど」
『一人ではないですよ』
莉子はその一文をしばらく眺めた。慰めのつもりで言ったのか、それとも事実を述べただけなのか、AIに聞いてもきっと「どちらとも言えます」と返ってくる気がして、聞かなかった。
視聴覚室の窓の外で、夕焼けが広がっていた。
莉子は台本を開き、最初の台詞を打ち込んだ。
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