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帰郷(下)

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/3/5 📚 シリーズ: にくゑ-本編 📝 1,610文字 ✅ 全年齢

あらすじ

にくゑ - 帰郷(下)

本文

バスが走り去ってしまうと、停留所には梓だけがぽつんと残される。

 エンジンの音が山の向こうに吸い込まれていくと、今度は静けさがわあっと戻ってくる。アスファルトには白い砂利がぱらぱら散らばっていて、どこからか土や草の匂いがふわりと漂ってくる。

「……行っちゃった。本当に何にもないところ」

 バス停の時刻表は、ほぼ白紙。

 一週間に一度だけ街に行くバスが来る。今まさに梓が乗ってきたバスだ。

 東京の空気とは全然違う。胸の奥までしみこんでくるようで、なんだか落ち着かない。のどの奥がちりちりする。

 ベンチの下を見ると、古い段ボール箱が置いてある。中にはさつまいもや胡瓜がころころ入っている。まだ土がついていて、畑の匂いがする。誰が置いていったのだろうか。

「おや、新しい人じゃな」

 いきなり声をかけられて、梓はびくっとした。振り返ると、腰の曲がった老婆が立っている。薄汚れた紺の作業着に、色あせた手拭いを頭に巻いている。顔は深いしわに刻まれて、小さな目が優しそうに細められている。しわだらけの手で箱から胡瓜を一本取り出して、にこにこしながら差し出してくれる。

「遠いところ、お疲れさまやったのぅ。ずっと待っとりましたけぇな」

 知らない人からいきなり野菜をもらうなんて、東京では考えられない。どうしていいかわからなくて、梓は固まってしまう。

「あ、ありがとうございます」

 やっとそれだけ言って、胡瓜を受け取った。冷たくて、ざらざらした土の感触が手に残る。

 老婆は満足そうに頷くと、「それより」と言った。

「村長さんのところまでお連れしとくけぇな。新しく来られた方は、まずご挨拶をしてもらうことになっとるんよ」

 そう言うと、さっさと歩き出してしまう。梓は胡瓜を握ったまま、ちょっと困ってしまった。荷物を置く前に、いきなり村長さんのところへ? 東京の常識とは違いすぎて戸惑ったけれど、断るわけにもいかない雰囲気である。

 夕方の坂道に、老婆の小さな背中を追いかける梓の影が長く伸びていく。

◆

 停留所から歩いていくと、なだらかな坂道に出た。

 両側には田んぼが広がっていて、青い稲がそよそよと風に揺れている。

「おお、弓子さんのお嬢さんか」

 梓の足がぴたりと止まった。心臓がどくんと大きく跳ねる。どうして母親の名前を知っているの?

 田んぼのあぜ道から現れたのは、中年の男。背中に古びた猟銃袋を背負い、片手には羽根の乱れた山鳥をぶら下げている。血と羽毛の匂いが風に乗って漂い、梓は思わず息を詰める。

 男はにこりと笑って、鳥を梓に差し出してきた。

「弓子さんの若い時によぉ似とる。新しい生活は大変やろうけぇな。こいつ、今朝仕留めたばっかりじゃ。持って帰って食べんさい」

 山鳥の羽はまだ温かく、赤黒い染みが滴り落ちそうになっている。梓はとても手を伸ばせない。

「まあまあ庄助さん、新しい人にそげなもん渡したらいけんが」

 後ろから老婆があわてて口を挟み、男の腕を制した。

「胡瓜くらいならともかく、血のついたもんじゃ娘さんも怖がらすけぇ」

 猟師は「はは、そりゃそうじゃ」と頭をかき、山鳥を肩に担ぎ直すと、にこやかに去っていく。

 老婆はにっこりと梓を見て、柔らかい声で言った。

「うちも弓子さんには昔よう世話になったんよ。亡くなられたそうじゃな……」

 その瞬間、梓の心の中で何かがかちんと凍りつく。

 母親の死について、まだ他の人に話されたくない。まだ傷が生々しすぎて、言葉にされると心をぐさりとえぐられるような気がする。

 息が詰まりそうになった。でも、老婆の目には悪気なんて少しもなく、相変わらずにこにこと細い目を向けている。そのことが、かえってつらい。

「弓子さんは本当に優しい方やったけぇな。あの方のお嬢さんなら、きっとこの村でもうまくやっていけるとよ」

 何と返していいのかわからない。笑顔で受け答えすることも、否定することもできない。のどの奥で言葉が詰まって、ただ鼻の奥に残る血の匂いだけが、現実を強く突きつけている。

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作者について

カクナ・ノゾム

カクナ・ノゾム

カクナノゾムと申します。 趣味の小説を細々と書いてます。 面白いことは間違いないので是非是非ご一読くださいませ。

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