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追想

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/4/16 📚 シリーズ: にくゑ-本編 📝 5,693文字 ✅ 全年齢

あらすじ

にくゑ - 追想

本文

――まただ。また一人だ。

 その言葉が心の奥で何度も反響する。

 ――時は遡る――

 そう、あの日は雨だった。

 目を閉じると、遠い雨音が蘇る――東京の通学路、アスファルトを叩く雨。黄色いビニール傘の内側で世界が円く切り取られて、そこだけ薄明るい。梓は鞄を胸に抱きしめ、制服の袖で手首を隠すくせを直せないまま、校門をくぐる。

 それはまだ梓が中学生の頃。受験まではまだ一年の間があった。

 ――昼の放課、廊下の突き当たりで男子が立っていた。肩越しに雨上がりの太陽が差し込み、顔だけが明るい。

「……好きです」

 ぎこちない言い方。

 梓は喉の奥がひゅっとすぼまり、恐怖に似た波が胸の底からせり上がってくるのをどうにもできなかった。

 幼い頃から父を知らないせいばかりでもないだろうが、梓は男性が苦手だった。

 まして、まっすぐな感情をぶつけられると、どうすればいいのかわからない。

「……ありがとう。でも、ごめんなさい」

 梓は相手の目をまっすぐ見て言った。怖かったけれど、曖昧にしたくなかった。

「どうしてかな?」

 困った表情。やさしい声。

 ――それでも、梓は言葉を選んだ。

「あなたのことをよく知らないし、私も自分の気持ちがよくわからないから」

 男子は困った笑顔をうかべたまま、そっか、と言った。梓は会話の後、その男子生徒がよく女子たちの噂に上っているバスケット部のキャプテンで上級生だったことを思い出す。

 夕方、教室の空気は少しだけざらりとしていた。クラスの女子たちの視線が、梓に刺さる。他愛のない噂が、手のひらの砂のように目の前を流れた。「感じ悪いよね」「あれで断るんだ」誰かが見ていたようだ。

 その翌朝。

 教室のドアを開けると、空気がピンと鳴った気がした。

「おはよう」

 机に腰かけると、表面に油性ペンで書かれた字があった。

《どろぼうねこ》

 最初はカバンの角で擦れば消えるかと思った。けれどインクは木目に入り込み、指先に黒が移るだけだった。

「梓ってさ」

 後ろの席から、わざと聞こえる声。

「顔だけいいよね。中身は、人の彼氏とる泥棒のくせに」

「“彼氏”でもなかったじゃん」

「そういうとこ、うざ」

 笑いが、耳の後ろをかすめる。笑顔の形をした刃物が、鈍く皮膚に食い込む。

 彼女は友達だった。友だちだった筈だ。放課後の購買でパンを分け合って、「おいしいね」と笑って、お互いの愚痴を橋の欄干の上で風にさらした。

 その日の放課後、二人の関係は壊れた。

「……あんた、わかってたんでしょ?」

 彼女の目は赤かった。濡れたまつ毛の先がきらきらして、でも怒りで震えている。

「なに、を」

「とぼけないで。あの人、梓に告白したって。知ってる。ずっと、ずっと好きだったのに」

「違うの。私、断った。ほんとに」

「嘘つき」

 その一語が、階段の壁にぶつかって反響する。

「前から思ってた。梓、なんか、人の気持ちわかってない。自分が可愛いの、知っててさ。――最低」

 梓の胸に怒りがこみ上げた。震える声で言い返す。

「私は嘘なんてついてない。本当に断ったの。あなたこそ――」

 言いかけて、友人の涙に気づく。怒りが悲しみに変わった。

「……友達だったのに、どうして信じてくれないの」

 でも友人は振り返らず、扉が閉まる音だけが残った。

 翌日から、教室は別の国になった。連絡網の紙から名前が消え、係の仕事が回ってこない。「体育のペア、決めて」と先生が言うと、視線は一斉に足元へ落ちる。

 夜になると、古い団地の一室は静かだった。玄関のドアを閉める音に続いて、台所から水の音がする。

「おかえり」

 母親の弓子の声は柔らかい。けれど梓には、その柔らかさのまわりに薄い膜がかかっているように感じられた。膜は光を曇らせ、言葉の端を鈍くする。

「今日、どうだった?」

「ふつう」

「そっか」

 食卓の上に、白い湯気が立つ。味噌汁の湯気は、冬の夜を丸く照らすランプみたいだ。

「ねえ」

 突然、母が言う。

「ごめんね」

「なにが?」

「ううん。ごめんね」

 梓は箸を置いた。

「お母さん、私にちゃんと話して。何を謝ってるの? 私、お母さんのこと何も知らない」

 母は困ったように微笑む。

「梓が大きくなったら、きっと」

「いつ? いつになったら話してくれるの?」

 母は答えず、ただ「ごめんね」を繰り返した。

 問いはいつも宙に浮く。梓は箸を持ち直して、何もなかったふうに大根を口に運ぶ。「薄い味」と思いながら、実際にはちょうどいい塩梅だった。舌に遅れて、胸がじわりと温かくなる。

 弓子はよく咳をした。透明な咳。音だけがきれいに響いて、体温はいつも低いように見える。

「病院、行こう」

「大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」

「でも」

「梓が心配するほどじゃないの……それに病院じゃきっと治らない」

 笑顔。笑顔の奥に、やっぱり膜があった。梓は手を伸ばして、その膜をそっと破る方法を知らなかった。

 夜、机の引き出しから取り出すのは、角の丸くなった古い文庫本だった。

 幼い時、母と一緒に行った神田の古本市。一杯の人と、美味しそうな食べ物の屋台。

 そこで母が買った本を貰い受けたのだ。

 本のタイトルは『七瀬再び』

 心が読める超能力者の女性が主人公のSFだ。

 紙の匂い。ページの縁のざらざら。行間の広さ。

 七瀬は、人の心が読める。読めてしまうがゆえに、居場所を失う。

 梓はページの上の七瀬の横顔に、何度も自分の輪郭を重ねた。

「自分は人の輪に入れない」

 その感覚に名前を与えてくれたのは、教室の誰でもなく、この紙の束だった。

 ここは私のいるべき場所ではない。ここには私の仲間はいない。

 読んでいるときだけ、呼吸が楽になる。灯りは手元にだけ届く。世界が暗いのではなく、灯りが小さいのだとわかる。

 ある晩、弓子が部屋のドアをそっと開けた。

「もう寝なさい」

「うん」

 母は本の表紙を見て、ほんの少し目を細めた。

「好きなの?」

「うん」

「古いお話が好きなのね」

「だってお母さんが好きだった本だし。

 それに主人公がね、居場所のない感じが……」

「……そう」

 母は悲しげに微笑んだ。

「梓もそう思うことがあるの?」

「……うん」

 沈黙。ページの音だけが、二人の間を行き来する。

「でも、もう帰れない。帰りたくない」

「お母さん?」

 母が言った。

「梓に、ずっと言えないことがあるの」

 梓は顔を上げた。

「なに?」

「ごめんね」

 また、それだった。言葉の形をした泡が、柔らかく弾けて消える。

「いつか、話せたらいいな」

「うん」

 うなずきながら、梓の胸には小さな針が刺さったままだった。針は痛みをくれる。痛みは「ここにいる」という証になる。

 季節がひとつ過ぎたころ、母の咳は深くなった。

 朝、台所に立つ母の背中が、ひとまわり小さく見える。

「病院、行こう」

「うん……」

 今度は拒まれなかった。診察の結果、医師は丁寧に言葉を並べたが、梓は半分も覚えていない。ただ、通院のためのスケジュール表を手渡され、そこに書かれた日付が未来の形をしていることだけを、妙に冷静に見つめた。

 通院の日、帰りのバスの中で母は窓の外を見ていた。

「桜、遅いね」

「うん」

「今年は見られるかな」

「見られるよ」

 根拠はどこにもなかった。けれど言葉は、言うだけで灯りになった。

 そんな生活が数年続いた。

 少しずつ弱ってゆく母を看護しながら学校へ行く毎日。

 田舎には母親の実家があると昔聞いたが、弓子は故郷には決して戻ろうとしなかった。

 梓が水を向けても、もう二度と故郷には戻らないの、と首を振る。

 ――高校に入っても友だちをつくることもできず、梓は本と母親だけを会話の相手としていた。

 しかし、そんな生活も悪くはなかった。

 中学の時のあの悪意。あれに比べれば孤独の方がずっといい。

 そしてその夜も、母は布団の上で呼吸を整えようとしていた。

 梓は濡れタオルで額を拭きながら、何度も水を替えた。

「苦しい?」

「大丈夫」

 その「大丈夫」も、膜に包まれていた。

「梓」

「うん」

「ごめんね」

「なにが?」

「ほんとに、ごめんね」

 母の目は、どこか遠くを見ていた。

「……ありがとう」

 最後にそう言って、静かに目を閉じた。

 部屋の空気が止まる。時計の針だけが動いている。梓はしばらく、何も言えなかった。唇に載せた言葉は、冷たく、重たく、舌の上で転がるだけだった。

 告別式の日、黒い服が部屋を満たし、香の匂いがしみ込んだ。近所の人や数少ない母の友人たちは同じ形の悲しみの言葉を持ち寄り、梓の肩に順番に手を置いた。

「若いのに、ねえ」「気の毒に」「いい人だった」

 うなずくたび、体の中で小さな欠片が音を立てて外れた。

 花の海に沈む母の顔は、眠る人の顔だった。梓は指先で、棺の縁をそっと撫でた。木の手触りは固く、温度のない優しさがあった。

「……ごめんね」

 声に出す。誰に? たぶん世界のどこにもいない誰かに。

 梓は胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。

「……これで本当にひとり」

 何日かして、梓は一人になった部屋の真ん中に座っていた。カーテンが風に揺れて、薄い布が頬をかすめる。

 テーブルの上に、母の遺したものが段ボールに収められて積んである。書類、写真、古い手紙、折れた櫛、使いかけの口紅。

 梓はひとつひとつに触れ、匂いを嗅ぎ、音を確かめた。

 そこにあった古い日記。

 母が東京に出てからつけたものだった。

 そこに記されていた、母の故郷。銀行の口座には、毎月の振り込みがその村の男性から入っていた。

 母に縁のある人なのだろう。記してあった連絡先を頼りに母の死をその人に告げた。

 虚木義隆。前の村長で、昔母はこの人の家で働いていたらしい。

 名字は違うが梓の親戚筋で、母と私の面倒を見る義務があると言っていた。

 母の死を告げると、義隆は老いた声で絶句し、すすり泣いていた。

 ――それからしばらくしてからのことだ。

 村長の清一と名乗る男性から梓に手紙がきた。義隆は亡くなったと。文面は梓は村への移住を勧めていた。母の故郷であるこの村でなら安心して生活できる。母の実家の古い家が残っている。もしよければ使えばいい。また、成人するまでの生活費は村で持とう、と。

 梓は母の日記を読み返した。「もう二度と帰らない」――なぜ?

 答えは、きっとあの村にある。母が隠し続けた真実が。

 梓は手紙を握りしめた。今度は逃げない。自分で確かめる。

 それが、村へ行くことを決めた理由のひとつだった。

 机の引き出しから文庫本を取り出す。『七瀬再び』

 灯りの下でページを開く。

 七瀬は逃げる。追われる。嘲られる。

 それでも彼女は、小さな灯りを持って歩く。

 読み終えたページの端に、指の跡が残る。紙の温度は手の温度に吸い取られ、冷える。

「わたしも」

 梓は小さな声で言った。

「わたしも、歩かなきゃ」

 そうして、梓はこの村にやってきたのだった。壊れた、凍り付いた心を抱えて、それでも新しい何かを見つけるために。

 ――時間は薄く折り畳まれ、いま、分校の教室に戻ってくる。

 窓の外で、鳥の影が斜めに横切った。梓は顔を上げ、机の縁に置いた手を握り直す。

 清音。

 隣で、あの子は手を握ってくれた。ああ、やっぱり貴方は特別、と。言葉は甘く、肌の上に溶けた。

 同時に、彼女の目の底には膜とは違う何か――静かな水の深みのようなものがあった。そこに蓄えられている秘密の量を、梓は直感で知ってしまった。秘密は、愛情の形をして近づいてくることがある。

 ――知らなければいけない。

 何故、誰も美穂たちのことを覚えていないのか。

 あるいは覚えていない振りをしているのか。

 廊下の端から足音がした。あゆみの笑い声が、誰かの足音と重なる。

「梓ちゃん、一人でなにしよると?」

 顔だけ出して、あゆみが覗く。いつもどおり、明るい。

「……ちょっと、考えごと」

「考えごと、ねえ」

 あゆみは教室に入ってきて、梓の机に肘をのせた。

「さっきは、ごめんね。なんか、変なこと言ってしもうた」

「ううん」

「でも、清音様がおるけん。大丈夫やけん」

 “清音様”。その呼び方に、細い針がまたひとつ刺さる。

「清音は……優しいよ」

「そやろ? 清音様は、うちにも優しいよ」

 言いながら、あゆみは梓の目を見ない。視線は梓の手元に落ちて、そのまま机の木目を追った。

「梓ちゃんも、清音様が好きなんやろ」

「……うん」

「じゃあ、よかね」

 あゆみはにこっと笑って、くるりと踵を返した。

 扉まで三歩。そこで一度だけ振り返る。

「梓ちゃん、勘違いせんといてね」

 言葉と笑顔は優しい。けれど、優しさの輪郭は少しだけ鋭かった。

「清音は誰にでも優しいんよ?」

 扉が閉まる。静けさが戻る。

 梓は深く息を吸った。肺の奥が痛い。

 ――信じたい。

 指先が震える。清音の手の冷たさを、皮膚の記憶がまだ正確に辿れる。

 ――でも、確かめたい。

 目の裏で、母の顔が薄く笑う。「いつか、話せたらいいな」。

 いつか、は多分、来ないことがある。来ないまま、誰かがいなくなることがある。

 ――母さん。何故母さんこの村には戻ろうとしなかったの?

 村の掟って何?

 にくゑ様って何?

 どうして美穂と健太のことを誰も覚えてないの?

 あの子たちは……どうなってしまったの?

 梓はゆっくり立ち上がり、椅子の脚を床から離す。音が小さく鳴って、教室の隅で消えた。

 鞄を肩にかける。文庫本の重みが、布越しに背中へ伝わる。角の丸いその本は、たった数百グラムの灯りだ。

 窓の外は、夕暮れの色を濃くしている。山の端に沿って薄紫が広がり、校庭の鉄棒が黒い線になった。

 梓は黒板に背を向け、扉の前で一度だけ振り返る。空の机。呼ばれなかった名前。――消された気配。

 舌の先に、ひとことが乗る。

「逃げない」

 梓は自分に言い聞かせた。

「もう受け身でいるのはやめる。私は、確かめなくちゃ」

 言葉にすることで、心の奥の火が強くなった。誰かに与えられる灯りではなく、自分で燃やす炎を。

 廊下を歩く。踵の音がやけに遠くに聞こえる。

 階段を降りながら、梓は心の中で、清音の名を呼んだ。

 ――信じたい。

 でも、隠していることがあるなら、わたしはそれを知らなければいけない。

 この想いは、わからないまま抱えられるほど軽くない。

 学校の敷居を跨ぎ、夕風に頬を撫でられながら、梓は小さくうなずいた。

 清音を信じたいからこそ、確かめる。隠し事の名前を、光の下に引きずり出す。

 それが、自分の居場所を自分で選ぶということの、いちばん最初の一歩だと感じられた。

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作者について

カクナ・ノゾム

カクナ・ノゾム

カクナノゾムと申します。 趣味の小説を細々と書いてます。 面白いことは間違いないので是非是非ご一読くださいませ。

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