日記の表紙画像

日記

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/4/18 📚 シリーズ: にくゑ-本編 📝 3,998文字 ✅ 全年齢

あらすじ

にくゑ - 日記

本文

村の夜道を歩きながら、梓はまだ唇に清音の温もりを感じていた。

 初めての口づけ。

 短く、けれど永遠のように長い時間。

 清音の冷たい指先が頬に触れた瞬間、世界が変わったような気がした。

 足取りは軽やか、というより地面に触れているのかどうかもよくわからない。頭の中は清音の面影でいっぱいで、家までの道のりも夢を見ているように過ぎていった。

 玄関の戸を開けて、靴を脱ぐ。いつもの動作なのに、全てが特別に思える。清音が愛してくれている。私も清音を愛している。それだけで、この小さな家さえも輝いて見えた。

「ただいま……」

 誰もいない部屋に声をかけて、梓はくすりと笑った。母がいた頃の癖が、まだ抜けない。でも今夜は寂しくなかった。胸の中に清音がいるから。

 居間の電灯をつけて、梓は畳の上にごろりと横になった。

 天井を見上げながら、さっきの出来事を反芻する。

 清音の瞳の色。少し震えていた睫毛。唇が重なる瞬間の、あの静寂。

「はぁ……」

 大きなため息が漏れる。幸せすぎて、どうしていいかわからない。

 このまま天井を見つめていても眠れそうにない。梓は身を起こし、せめて布団を敷こうと押し入れに向かった。

 でも、浮かれた足取りがいけなかった。

 床の間の前を通りかかった時、畳の縁に足を取られてしまったのだ。

「わっ!」

 バランスを崩し、床の間に手をついて体を支える。

 その時、指先に違和感があった。

「あれ……?」

 床板の一部が、わずかに浮いている。

 普段なら気づかないほどの、ほんの小さなずれ。でも確かに、他の部分とは違っていた。

 梓は首をかしげながら、その部分に指をかけた。すると、板がすっと持ち上がった。

「隠し……?」

 床板の下に、小さな空間があった。

 そこに、古い革表紙の手帳のようなものが何冊も入っている。

 梓の胸に、嫌な予感が走った。

 さっきまでの浮かれた気分が、急に冷めていく。

 手を伸ばして、それを取り出す。重みがある。長い間、誰にも見られることなくそこに眠っていたのだろう。

 表紙を見ると、かすれた文字で書かれていた。

 ――『弓子』

 母の名前だった。

 梓の手が震えた。

 これは母の日記だ。東京に出る前の。

 日記は全部で七冊。どれも表紙に数字が書かれている。

 でも、どうしてこんなところに隠されていたのだろう。

 一番下にあった手帳から、恐る恐るページを開く。

 そこには、こどもの筆跡でびっしりと文字が記されていた。

『わたしは ここにいても いいのでしょうか』

 最初の一行を読んだだけで、梓の血が凍りついた。

 清音との口づけの余韻は、跡形もなく消えていた。

◆

 震える手で、梓は革表紙を開いた。

 乾いた紙の匂いが立ちのぼり、胸の奥を締めつける。インクの滲んだ筆跡は、確かに母のものだった。

しちがつみっか

わたしは ここにいても いいのでしょうか

なぜ、わたしにはとうさまもかあさまもいないのですか

でも、きょうは にいさまが てをにぎってくれました

うれしくて、ないてしまいました

おかみさんは こわいめで わたしをみます

でも おにいさまは わらってくれます

それだけがうれしいです

 ――文字を追う梓の頬を、涙がすっと伝った。母にも、こんな幼い孤独があったのか。

七月十五日

きのう、きよねさまから、ふしぎな話をききました。

このむらの人は、しんだらみんな、にくゑさまのなかへいって、

ずっとしあわせにくらせるのだそうです。

わたしは小間づかいだから、しんだらどうなるのだろう。

でも、にくゑさまはやさしい神さまだときいたので、

きっとわたしも、みんなと同じところにいけるのだと思いたいです。

けれど、この家には、わたしと血のつながった人はひとりもいません。

兄さまも、ほんとうは兄さまではありません。

だからこそ、みんなと同じ場所に行けると信じたいのです。

 ――梓は唇を噛んだ。母が語らなかった過去の重さが、紙の一行ごとに押し寄せてくる。何冊か飛ばして拾い読みをする。

九月二十日

おつとめは日に日にたいへんになります。

井戸の水を運び、畑の草を抜き、清音さまのお世話もします。

兄さまは「よう頑張っとる」と声をかけてくださいます。

その言葉だけで、胸が熱くなります。

けれど、奥さまはいつも冷たい目でわたしを見ています。

前の村長さまも、村の古い人たちも、わたしにだけよそよそしい。

どうしてでしょう。わたしはよそ者だからでしょうか。

「遠縁の娘」と言われても、心のどこかで居場所を失っていくようです。

 ――梓は、日記の最後の一冊を手に取った。そこにはこう書いてあった。

六月二日

今夜のことを、どうしても書かずにはいられません。

夕立に濡れて震えていたわたしを、兄さまが抱き寄せてくださったのです。

その温かさに縋ってしまい、わたしは……自ら一線を越えました。

小間づかいなのに。

罪だと知りながら、身体は兄さまを求めてしまいました。

嬉しくて、怖くて、死んでしまいたいほどに愛おしい。

八月十日

虚木の家に残された古い記録を見ました。

そこに書かれていたのは、恐ろしい事実――

わたしは先代清音様の娘――清一兄様の実の妹であり、兄様に子供が出来なかった時に新しい清音になるための、“予備”として生まれたということ。

そして、この村のすべては、にくゑさまを封じ、同時に愛し続けるためにあるのだと知りました。

大旦那様――お父様に尋ねると、知ってしまったのか、と苦い顔で呟かれました。なんということ!

そうと、そうと知っていればあんなことは――。

いいえ嘘です。たとえ知っていたとしても私は恋に落ちていたでしょう。そして罪を犯したと思います。

八月十一日

奥さまのお腹に、新しい清音が宿ったことを知りました。

その同じ頃、わたしの母――先代の清音さまは亡くなりました。

村は静かに揺らぎ、わたしの胸もまたざわめいています。

そして今、わたし自身の腹の奥にも、小さな命の鼓動を感じています。

実の兄との……子供です。このことはお父様しか知りません。

これは罪の証なのでしょうか。

それとも赦しなのでしょうか。

八月十五日

大旦那――父は私にこう告げた。

「村を出るとええ」と。

罪を抱えて、誰にも知られぬように。

奥様の悋気は、私とこの子を殺すかも知れない。

儀式を得ていない私とこの子は、本当の意味で死ぬことになる。

ならば――と。

祭りの前に村を出るならば、お前のことは誰にも気がつかれない。何故なら、今の村には清音がいないから。

生活の面倒は村で見よう、と。

それは父が私に見せた、せめてもの愛情だったのだろうか?

しかし儀式を終えていない私が村を出て大丈夫なのだろうか?

父はいった。

虚木の強い血を持つお前なら、村の外でも生きていける、と。

だが、成人の儀を得ていない私は、長くは生きられないかも知れない。

しかし、わたしは決めた。

この子を守るために。

わたし自身の罪を隠すために。

にくゑさまの支配から逃れるために。

――もう帰らない。

もう、わたしは巫女の予備ではない。

わたしは母になる。

笑顔の檻に囚われず、この子を抱いて生きるために。

◆

 ――最後の行を読み終えても、梓はしばらくページをめくることができなかった。

 目の前の文字は、確かに母の手で書かれたものだ。それなのに、受け止めきれない。

 ――母は、村長の妹だった。

 ――母は「予備」と呼ばれ、自分の存在を否定されていた。

 ――それでも、兄に縋り、愛してしまった。

 ――そして、私を身ごもり、村を出た。

 頭の中で言葉をひとつひとつ並べるたび、胸の奥が冷たく縮む。

 母の「ごめんね」という口癖。あれは、この罪の重さから漏れた言葉だったのか。

 そして、清音。

 もしも母の日記が本当なら――清音は私の、姉?

 梓は口元を押さえた。吐き出したいのに声が出ない。

 信じられない。けれど、母の震える筆跡は、容赦なく真実を告げていた。

 ページをめくる手が震える。

 ――わたし。この子って、わたしのこと?

 胸の奥で、心臓が暴れるように打っていた。

 乱れる手で日記をめくってゆく。

 その中に、こんな文章が目に飛び込んできた。

 ――洞窟の祠の裏に、清音の名を継ぐ板がある。そこに私も名を記すことになった。

 洞窟? あの祠のある洞窟だろうか。

 この村に他の洞窟はない。きっと間違いない。

 確かめよう。もしそんなものがあるならこの日記は……きっと本当のことだったのだろう。

 表紙を閉じると、ひんやりとした感触が掌に吸いついた。

 最後に母が記した言葉が、頭の中で反響する。

 ――洞窟の祠の裏に、清音の名を継ぐ板がある。

「……確かめなきゃ」

 かすれた声が、自分のものだと気づくまでに時間がかかった。

 母が守ろうとしたもの。にくゑの正体。そして、自分自身が何者なのか。

 全ての答えが、あの祠にあるのかもしれない。

 梓は震える手で日記を胸に抱いた。

 清音の口づけの余韻は完全に消え、代わりに冷たい決意が胸の奥で固まっていく。

 立ち上がり、外套を羽織る。懐中電灯を手に取る。

 夜の山道は危険だが、もう迷っている時間はない。

 玄関で振り返ると、電灯に照らされた居間が見えた。

 さっきまで幸せに浸っていた自分が、遠い過去の人のように思える。

「行こう、梓!」

 自分に言い聞かせるように呟いて、戸を閉めた。

 夜気は冷たく、草の匂いが濃く漂っている。

 村の家々は既に灯りを落とし、静寂に包まれていた。

 洞窟への道は、清音と歩いた時とは全く違って感じられた。

 あの時は恋の高揚感に包まれていたが、今は不安と決意だけが足を前に進める。

 石段を下りながら、梓は母の文字を思い返した。

 ――清音の名を継ぐ板。

 それは何を意味するのだろう。

 足音が石に反響する。心臓の鼓動が耳の奥で響く。

 一歩一歩、真実に近づいている実感があった。

 その時、闇の先に細い灯りが揺れた。

 同じように懐中電灯を手にした、背の高い影。

「……吉川先生?」

 振り返った男の眼鏡に、光がちらりと反射した。

 息を弾ませた声が、夜気を震わせる。

「どうして、こんなところに?」

「先生こそ?」

 闇の中、二つの灯りが重なった。

 それぞれ違う理由で、同じ真実を求めて。

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作者について

カクナ・ノゾム

カクナ・ノゾム

カクナノゾムと申します。 趣味の小説を細々と書いてます。 面白いことは間違いないので是非是非ご一読くださいませ。

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