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その声を……

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/5/5 📚 シリーズ: にくゑ-本編 📝 1,648文字 ✅ 全年齢

あらすじ

にくゑ - その声を……

本文

店に戻り、千鶴は商品の整理をはじめた。何か頭に霧がかかったようにぼぅっとして仕事が覚束ない。

 夕暮れが山に沈むころ、千鶴は店の前に出る。

 西の空はまだ茜色を残しているが、風は冷たい。

 隣に目をやると、診療所の明かりは、煌々と輝いている。

 ――先生にお夕飯、と思いはしたが、気怠さが勝り、何もする気になれなかった。

 胸の奥に、重たい鼓動がある。

 右腕の包帯が湿って、内側に熱がこもる。

 触れると、脈に合わせてわずかに震えた。

「どうしたのかしら?」

 そう呟いてみるが、痛みよりも——懐かしさのようなものが胸を満たしていく。

 宵闇が迫る中、千鶴は部屋に戻った。

 部屋の中はもう薄暗い。

 障子を閉め、囲炉裏に火を入れる。

 燃え残った薪が湿っていて、ぱちぱちと音を立てた。

 その音に混じって、微かな囁きがした。

 ……千鶴。

 火が鳴ったのかと思った。

 けれど、違う。

 もっと低く、柔らかい声。

 耳の奥で溶けるように響く。

 「宋次……さん?」

 声に出した瞬間、右腕の包帯が熱を帯びた。

 中で何かがうごめくように、皮膚がざわめく。

 千鶴は息を呑み、袖口を押さえた。

 ――会いたい……だが、いけん。

 ――村を出ろ……逃げるんじゃ。

 音ではない。

 心の奥に染みこむような響きだった。

 涙が頬を伝う。

 「あなた……生きていたんですね……」

 それだけで、胸の痛みが消えていく。

 風が吹き込み、吊り下げた風鈴が鳴った。

 その音が止むと同時に、湯飲みがかすかに揺れる。

 お茶の表面に、波紋がひとつ。

 部屋の中には、自分以外の呼吸があった。

 右腕の包帯の隙間から、じわりと赤い滲みが広がる。

 掌に温かい感触。

 それは血のはずなのに、冷たくはなかった。

「どこに……どこにいるんですか、あなた!」

 その言葉を口にした瞬間、外で何かが軋んだ。

 井戸の方角から、金属が鳴るような音。

 それがまるで返事のように響いた。

 千鶴は障子を開けた。

 夜の空気が一気に流れ込む。

 山の上に、赤黒い月が出ていた。

 冷たいはずの風が、どこか甘い匂いを運んでくる。

 ――千鶴、来ちゃいけん。

 「ええ、宋次さん……そっち、ですか?」

 箪笥の上の写真立てに手を伸ばす。

 夏祭りの夜、並んで笑っているふたり。

 夫の手が、自分の肩を抱いている。

 写真の中のその感触を確かめるように、右腕を抱いた。

「もう、待つのは終わりにしないと」

 彼女は微笑み、ゆっくり障子を閉めた。

 その背に、見えない何かの影が寄り添っていた。

◆

 深夜になった。

 家の中の火はすべて落ち、闇の中に囲炉裏の灰だけがほのかに光っている。

 千鶴は座布団の上で身を起こし、右腕をそっと押さえた。

 包帯の下がぬるりと湿っている。

 指先に触れると、温かい液が滲んでいた。

 ――千鶴。

 ――ひとめ会いたい……だが来ちゃいけん。

 あの声が、今夜はすぐ耳のそばで聞こえる。

 遠くからではない。家の外、戸口の向こうに立っているような気配。

 千鶴は深く息を吸い、寝間着のまま立ち上がった。

 写真立てを手に取り、夫の笑顔を見つめる。

「宋次さん、もう……今、行きますね。あなたと一緒にいたいんです」

 障子を開けると、霧が流れ込んだ。

 外の空気は、どこか生ぬるい。

 月が赤黒く霞んで、雲の間に沈みかけている。

 裸足のまま戸口を出る。

 土の冷たさが、足裏から心臓までゆっくりと登ってくる。

 庭の風鈴がひとつ鳴った。

 それが合図のように、包帯の端がふわりと解けた。

 腕から赤い滴がひとつ、地面に落ちる。

 霧の向こうに、懐かしい影が揺れている。

 木立の向こう、井戸へ続く細い道。

 水音が微かに聞こえる。

 その音は不思議と優しく、まるで胎内の鼓動のようだった。

 千鶴は歩き出す。

 右腕から滴る血の跡が、薄い月明かりに光る。

 一歩ごとに、世界が柔らかく遠のいていく。

 耳の奥で、水と呼吸が重なり、声になる。

 ――千鶴。もう、いい。

「ええ、宋次さん。ずっと、ずっと待ってたんですよ」

 霧が濃くなる。

 前方に、黒い影がひとつ立っていた。

 見慣れた背丈。見間違えようのない姿。

 千鶴は足を止めない。

 右腕を差し伸べ、闇へ向かって歩く。

 やがて彼女の姿は、霧に溶けるように消えた。

 夜の村に、静寂だけが残る。

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作者について

カクナ・ノゾム

カクナ・ノゾム

カクナノゾムと申します。 趣味の小説を細々と書いてます。 面白いことは間違いないので是非是非ご一読くださいませ。

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