第70話 真夏の彷徨、あるいは罪の蓋
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
終焉の探偵 - 第70話 真夏の彷徨、あるいは罪の蓋
本文
翌朝、目が覚めると、隣の布団はもう冷たくなっていた。
枕元には、『祭りの準備で集まりがあるから行ってくる。朝ごはんは適当に食べて』という走り書き。
体が重い――やっぱり体調はあがったりさがったりみたいだ。
まるで中学校の頃に戻ったみたい。
一人になりたくなかった。
梓がいなくなると、昨夜のあゆみちゃんたちの賑やかさが嘘のように、古民家の静寂が耳に痛い。
私は簡単な食事を水で流し込むと、サンダルを突っかけて外へ出た。
――そうだ。探偵さん。
探偵さんを誘って蛍を見に行こう。
スマホを使って連絡してみるけど、応答もなくて既読もつかない。
そんなに広い村って訳でもないし、探しに行こうかな。
ミーンミンミンミン。
――外は、暴力的なまでの快晴だった。
ジリジリと肌を焼く日差し。
乾いた道から立ち上る陽炎が、村の景色を油絵のように歪ませている。
蝉時雨が、まるでノイズのように脳味噌を揺さぶった。
「……探偵さーん」
あてどなく名前を呼んでみるけれど、返事はない。
吉川先生の診療所、裏の土蔵、村の広場。
先生や伊織さんに聞いても、昨日から戻っていないと言われた。
きっと村の何かを探っているんだろうな。
あちこち歩き回ったけれど、あの黒いコートの姿は見当たらない。
体調は最悪だった。
視界の端に、時折白い火花のようなものが散る。地面がスポンジみたいに柔らかく感じて、足元がおぼつかない。
それでも私は歩き続けた。
足を止めたら、思考の隙間から「何か」が溢れ出してきそうで、怖かったから。
村はずれの林道に差し掛かった時だ。
木陰の濃い闇から、ジャリ、と砂利を踏む音がした。
「――おや、真弓ちゃんじゃなかか。ずいぶんとまぁ大きくなってなぁ!!」
ビクリとして顔を上げると、猟銃を肩に担いだ初老の男性が立っていた。
誰だっけ。えーっと、そうだ、猟師の庄助さんだ。
日に焼けた顔の皺に、玉のような汗が溜まっている。
「あ……庄助さん、こんにちは」
「おお、覚えとってくれたとか。こげな暑い中、どこ行くんね。顔色が、ちと悪かぞ」
「ちょっと、散歩をしてて……」
言い訳をしながら、私の視線は吸い寄せられるように、庄助さんの手元に釘付けになった。
その太い指に、無造作に掴まれているもの。
鮮やかな青い羽を持つ、一羽の鳥だった。
力なく垂れ下がった首。
白く濁った瞳。
そして、くちばしの端から一筋、乾きかけた赤黒い線が流れている。
「ああ、これか。さっき仕留めたんじゃ」
私の視線に気づいた庄助さんが、悪気なくその亡骸を掲げてみせた。
ぶらり、と鳥の体が揺れる。
「綺麗な羽根をしとるが、畑を荒らす害鳥じゃけぇな。可哀想じゃが、これも村の守りじゃ」
――可哀想じゃが。
その言葉が、耳の奥で、ぐわんと歪んで反響した。
害鳥だから。
村を守るためだから。
だから、命を奪っても仕方がない。
ドクン、と心臓が跳ねた。
強烈な既視感(デジャヴ)が、背骨を駆け上がる。
(……あ)
逆光の中で、ぶら下がっている鳥の姿が、一瞬、別のものに見えた。
コンクリートの床。
制服のリボン。
投げ出された白い手足。
私の可愛い後輩だったはずの、千晶ちゃんの顔をした――肉塊。
『――先輩、見てください!』
幻聴が聞こえた。
あの日、あの時、私の手の中にあった硬い感触。
肉を断つ、鈍い衝撃。
飛び散る飛沫の温かさ。
「うっ……!?」
胃袋が裏返るような吐き気に、私は口元を押さえてその場に膝をついた。
世界が赤い。
青い空も、緑の木々も、全部が赤黒いフィルター越しに見える。
「おい、大丈夫か!? やっぱ熱があるんじゃ……」
庄助さんが駆け寄ってくる。
でも、その手にある「死」が、私を責め立てる証拠品に見えて、喉から悲鳴が漏れた。
「き、来ないで……っ!」
私はサンダルが脱げるのも構わず、アスファルトを蹴った。
「真弓ちゃん?」
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
誰に謝っているのか、自分でも分からなかった。
庄助さんにか。死んだ鳥にか。
それとも、この手で息の根を止めた、あの子にか。
私は走った。
蝉の声が、私の罪を糾弾する叫び声のように降り注ぐ中を、ただ無我夢中で。
(私は、人殺しだ)
その事実は、真夏の太陽よりも熱く、重く、私を焼き焦がしていった。
◇
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
忘れていたんじゃない。
あまりに辛くて、自分が許せなくて、心を麻痺させていただけだ。
その下には腐乱した罪悪感がずっと横たわっていたんだ。
(人殺し。人殺し。人殺し)
蝉の声が、そう合唱しているように聞こえる。
私は自分のTシャツの裾で手をこすった。
何度こすっても、あの時の生暖かい感触が消えない。肉を断った、あの嫌な重みが指に残っている。
「探偵さん……っ! どこ……!?」
会いたい。あの人に会いたい。
だってあの人がいっただもん。私が、私が千晶ちゃんに手を下せって!!
ううん、違う。探偵さんのせいにしてる。
決めたのは私じゃない!?
探偵さん、どこ? あの人だけが、私を裁いてくれる。あるいは許してくれる。
今の私には、彼以外の人間は眩しすぎて、直視できない。
◇
足がもつれて、分校の前の坂道で膝をついた。
「――真弓ちゃん?」
頭上から、鈴を転がしたような声が降ってきた。
顔を上げると、麦わら帽子を被った美穂ちゃんが、ジョウロを持って立っていた。
分校の花壇に水をやりに来ていたのだろう。
「どがんしたん!? 顔色、真っ青やないの!」
美穂ちゃんが慌てて駆け寄ってくる。
その瞳は澄んでいて、一点の曇りもない。
綺麗だ。
だからこそ、今の私には耐え難いほど恐ろしかった。
「大丈夫? 熱があるんやない? 保健室、鍵開けるけぇ……」
美穂ちゃんの白い手が、私の額に伸びてくる。
やめて。
触らないで。
私の汚れが、あなたに移ってしまう。
「触らないでっ!」
私は反射的にその手を振り払ってしまった。
パシッ、と乾いた音が響く。
「あ……」
美穂ちゃんが驚いて目を丸くした。
傷ついたような顔。
やってしまった。私は、心配してくれた友達の手を。
「ご、ごめん……ごめんなさい……!」
「真弓ちゃん……?」
「あのね、美穂ちゃん。探偵さん……黒いコートの人、見なかった?」
私は謝罪もそこそこに、縋るように尋ねた。
「え? あ、あの人なら……さっき、村の広場の方で見たような気がするけど……」
「ありがとう!」
私は立ち上がり、美穂ちゃんから逃げるように走り出した。
背中で「真弓ちゃん! 無理したらいけんよ!」という声が聞こえたけれど、振り返れなかった。
◇
広場についても、彼の姿はなかった。
いるのは、盆踊りの櫓(やぐら)を組み立てている村の大人たちだけ。
太陽は真上にあり、影すらも焼き尽くそうとしている。
フラフラと歩いていると、橋の欄干に自転車を止めて休んでいる人影があった。
健太くんだ。
彼は本を読みながら、ペットボトルの水を飲んでいた。
「……あれ、真弓ちゃん?」
私に気づいた健太くんが、眼鏡の位置を直しながら近寄ってくる。
「どしたん、そんな息切らして。……っていうか、なんか様子変じゃぞ?」
健太くんは鋭い。
私の異常な雰囲気を察して、眉をひそめた。
「ねえ、健太くん。探偵さん、知らない?」
「探偵さん?……黒コートのよそもんならさっき広場におらんかったか?」
「いなかったの! どこにもいないの!」
叫んだ拍子に、視界がぐらりと揺れた。
地面が迫ってくる。
「おいっ!」
倒れそうになった私を、健太くんがとっさに支えてくれた。
彼の腕の体温。生きた人間の温かさ。
それが、私が奪ってしまった千晶の体温と重なって、私は悲鳴を上げそうになった。
「放して……!」
「落ち着きんさい! お前、手ぇ冷えきっとるぞ。これはいけん、梓ちゃんか先生呼ばんと……」
「いいの! 私は探偵さんに会いたいの!」
私は健太くんの腕を強引に解いた。
彼は呆気にとられた顔で私を見ていた。
「真弓ちゃん、お前……」
「ごめんね、健太くん。あとで、ちゃんと説明するから……!」
私はまた走った。
足の裏が痛い。喉が渇いて張り付きそうだ。
でも、止まるわけにはいかない。
◇
それから、どれくらい歩き回っただろう。
村中を探して、探して、探して。
誰に聞いても「さっきまでそこにいた」「あっちへ行った」と、蜃気楼のように捕まらない。
太陽が傾き始め、空が赤く染まりだした。
その赤色が、私の記憶の蓋を完全に焼き切った。
(殺した。殺した。殺した)
あの子の笑顔。
あの子の最期の表情。
私の手のひらの感触。
「う、ぅぅ……」
限界だった。
心も体も、もう一歩も動けない。
私は村の外れ、鬱蒼とした森の入り口にある、古い鳥居の前まで来ていた。
朱色が剥げ落ちた鳥居が、夕日を浴びて、まるで血に濡れているように見える。
「……探偵、さん……」
名前を呼ぶ声も、カスカスに枯れていた。
その場にうずくまり、膝に顔を埋める。
もう、ダメだ。
このまま私が溶けてしまえばいい。そうすれば、この罪も消えるのかな。
「……やあ」
頭上から、待ち焦がれていた声が降ってきた。
幻聴かと思った。
恐る恐る顔を上げると、逆光の中に、黒いコートの裾が揺れていた。
「探偵、さん……?」
「ずいぶん探したよ、ワトソン君。……まるで迷子の子供みたいだ」
彼は鳥居の下に立っていた。
世界から切り離された影のように、どこか寂しげに。
でも、その瞳だけは、確かに私を捉えていた。
張り詰めていた糸が、プツリと切れた。
「探偵さんっ……!」
私は地を這うようにして、彼の足元へ縋り付いた。
コートの裾を握りしめる。
ああ、やっと会えた。
私の罪を、この人なら――。