第84話 必要な犠牲
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あらすじ
終焉の探偵 - 第84話 必要な犠牲
本文
甘い匂いが、下から這い上がってきた。
鉄扉を押し開けた途端、生温い風が顔面に吹きつける。
地下壕の湿気とカビの臭いに、あの匂いが混じっている。甘くて、鉄錆びていて、鼻の粘膜に張りつく匂い。にくゑの匂いだ。
「……うっ」
鼻を覆った。手のひらに自分の吐息が当たる。
でも、おかしい。
不快感はある。吐き気もある。なのに、身体が――楽になっていく。
ここに来るまでの倦怠感。細胞の一つ一つが悲鳴を上げているような痛み。
それが、嘘みたいに引いていく。
冷えきった体を湯に沈めた時の、あの感覚。筋肉がゆるんで、骨の芯から温かさが広がっていく。
(……なんで。こんなに気持ち悪い場所なのに)
階段を降りる。一段。二段。三段。
降りるたびに、甘い匂いが濃くなる。
降りるたびに、体が軽くなる。
まるで水の中に帰っていくみたいに、この場所が私を歓迎している。
それが、たまらなく怖い。
「壁」
梓さんが、一言だけ吐き捨てた。
懐中電灯の光が照らしたのは、コンクリートの壁――だったもの。
ひび割れから赤黒い粘液が滲み出していた。最初はほんのうっすらと。
でも下層に進むにつれて、染みは広がり、壁を覆い、天井を侵し、床を飲み込んでいく。
コンクリートの通路が、少しずつ、生き物の消化管に変わっていく。
壁が、脈打っている。
とくん。とくん。
心臓の裏側で、とくん、とくん、と――壁の脈動と同じリズムが鳴っている。
私の鼓動なのか、にくゑの鼓動なのか、もう区別がつかない。
「大丈夫よ」
梓さんが、私の手を握った。強い意志を伝えてくれる優しい手。
「きっと真弓は私が守るから。――だから、行こう」
その声には、迷いがなかった。
握り返す。梓の手の温度。人間の、体温。
「……うん」
私たちは、さらに奥へ進んだ。
◇
長い通路を抜けた先で、空間が開けた。
懐中電灯の光が天井に届かない。広い。
コンクリートの柱が何本も並んでいる。兵員待機所か、弾薬庫か。戦時中はそういう場所だったのかもしれない。
今は違う。
床一面が、粘液の沼になっていた。
足首まで浸かる。温かい。脈打っている。
沼の中央に、何かがある。
懐中電灯の光が震えながら照らし出したのは――人の形をした、肉の塔だった。
高さは三メートルほど。赤黒い筋肉の繊維が絡まり合い、何本ものケーブルが天井と床を繋いでいる。心臓のように律動して、壁の血管に脈を送り続けている。
この空間全体の心臓。にくゑを培養し、世界中にばら撒くための、生体サーバ。
そしてその塔の中心に、一人の女性が埋まっていた。
「……え」
声が漏れた。
長い黒髪。白いブラウス。見覚えのある丸い眼鏡――の、片方。もう片方は肉に飲まれていた。
腰から下は完全に肉塔と融合していて、どこまでが人間でどこからがにくゑなのか、もう境界がない。
腕は六本に増えていた。それぞれの手がケーブルを握り、管を握り、にくゑの分体を世界中に送り出すオペレーターのように、絶え間なく動き続けている。
あの頰に「目」が生えたのは、いつだっただろう。手の甲に「口」が『来て』と囁いていたのは。
あの日、校庭で異形になった先生に、久我さんが「愛してる」と叫んで、一瞬だけ意識が戻ったことがあった。
その先生が、こんな姿で。
「……柳田、先生……?」
私の声に、探偵さんが目を伏せた。
「ここが培養場の心臓部だ。……久我は、柳田先生の肉体をにくゑの中枢コアにしたんだね」
言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。
「コアって……何ですか。先生は、生きてるんですか」
「生きてはいる。でも、もう人間としては……」
探偵さんの声が、途切れた。
それは答えなくていいという意味だった。答えを、私はもう知っている。
さっき、サヤカのケーブルを見て「不可逆」と言われた。あの時はサヤカの首に根を張った数本のケーブルだけだった。
でも、柳田先生は。
身体の半分以上が、にくゑと融合している。
(……これが、「不可逆」の行き着く先……)
サヤカの未来が、ここにある。
◇
その時だった。
ぐちり、と。
嫌な音。
肉塔が、脈動を変えた。
規則的だったリズムが崩れる。速くなる。焦るみたいに。
「……下がって」
探偵さんが声のトーンを変えた。私の前に一歩出る。
柳田先生の六本の腕が、一斉に止まった。
ケーブルを握っていた指が、開く。
管が、ぬるりと床に落ちる。
そして――目が開いた。
白く濁った瞳じゃない。
赤く光る、にくゑの目だった。
「「「キテ」」」
先生の身体から生えた無数の口が、一斉に開いた。
あの声。校庭で聞いたのと同じ、人間のものじゃない声。
肉塔が、崩壊する。
先生の身体が塔から剥がれ落ちる――いや、違う。
塔そのものが、先生と一緒に変形している。
足が生えた。
腰から下を覆っていた肉が、蜘蛛の脚みたいに広がる。四本。六本。八本。
赤黒い筋肉の束が、コンクリートの床を叩いて先生の身体を持ち上げる。
三メートルの高さまで。
腕は六本のまま。でも今は、ケーブルの代わりに拳を握っている。
全身から無数の目が開き、ぎょろぎょろとこちらを捉える。
顔だけが、柳田先生の顔をしていた。でもそこに意思はない。操り人形の、空っぽな顔。
「久我の肉人形だ」
探偵さんの声が硬い。
「先生の身体を使って、僕たちを排除しに来た。……いや、真弓くん以外を」
「え」
「君は久我の目的だ。殺すわけにはいかない。……だから標的は、僕と梓さんだ」
その言葉が終わる前に、先生が動いた。
六本の腕のうち二本が、天井を殴った。
コンクリートが砕ける。
破片が降り注ぎ、視界が白い粉塵で覆われる。
同時に、蜘蛛の脚が地面を蹴った。
三メートルの巨体が、弾丸みたいに跳ぶ。
狙いは――梓さん。
「ッ!!」
梓さんが反応した。
右手に光が凝る。緋色。弓の形。
矢を番え、引き絞る。一瞬。
放たれた光の矢が、先生の胴体に向かって一直線に走る。
当たった。
でも、弾かれた。
バチィッ!
矢が先生の身体に触れた瞬間、赤い火花が散って消える。
にくゑの粘膜が盾になっている。あの校庭の時とは、桁違いに硬い。
「効かない……!?」
梓さんが歯を食いしばる。
先生の拳が、振り下ろされた。
間一髪、横に転がって避ける。
拳がコンクリートの床を叩いた場所に、直径一メートルのクレーターができた。
「梓く――」
探偵さんが動こうとした。
その瞬間、別の腕が、探偵さんに向かって伸びた。
探偵さんの身体が吹き飛ぶ。壁に叩きつけられる。
「探偵さんッ!」
「来るなっ!」
探偵さんが叫んだ。壁にめり込んだ身体を引き剥がしながら。
「君は僕のそばにいろ! 離れるな!」
先生の無数の目が、一瞬だけ私を見た。
そして、すぐに逸れた。赤い光が、探偵さんと梓さんに向き直る。
殺さない。
私だけは、殺さない。
久我のトロフィーだから。
拳がもう一度振り下ろされる。探偵さんが身を捻って躱す。
探偵さんは防御に徹していた。私のそばを離れず、先生の攻撃を最小限の動きで躱し続ける。
壁を盾にし、柱の陰に身を隠し、先生の拳が届くたびに私を抱えて跳ぶ。
守られている。
でも、それだけだ。探偵さんは反撃していない。
「探偵さん、どうして……!」
「……力を振るえるのは後一度。ならここは――」
血を拭いながら、探偵さんが言った。
口の端が切れている。でも、笑っている。あのいつもの、困ったような笑い方。
「梓くん! 任せた!」
◇
弓が、鳴った。
梓さんは先生の周りを駆け回りながら、矢を放ち続けていた。
正面からは通らない。分かっている。でも止まらない。
一射。胴を狙う。弾かれる。
二射。脚を狙う。粘膜が矢を吸い込んで消す。
三射。顔を狙う。寸前で別の腕が庇った。
「クソッ……!」
梓さんが舌打ちする。汗が飛ぶ。
先生の蜘蛛脚が横薙ぎに振られる。梓さんが跳んで躱す。天井のパイプを掴んで身体を振り、先生の背後に回り込む。
背中。
ケーブルの接続点が密集している場所。
そこだ。
梓さんの目が光る。
弓を引き絞る。いつもの矢じゃない。両手が震えるほどの力を込めて、光がぎゅっと圧縮される。
白い矢が、緋色に変わった。
「穿てッ!!」
放たれた緋色の矢が、轟音と共に空気を裂いた。
先生の背中に、着弾。
バギィンッ!!
にくゑの粘膜が、砕けた。
赤黒い破片が飛び散り、先生の背中に風穴が開く。
「「「ギ、イィィィィ!!」」」
先生の全身の口が、絶叫した。
耳を劈く音。空間全体がびりびりと振動する。
先生の身体が仰け反った。蜘蛛脚が暴れ、天井を打ち、壁を打ち、めちゃくちゃに破壊する。
コンクリートの破片が雨みたいに降ってくる。
探偵さんが私を抱えて柱の陰に飛び込んだ。
「……やった。梓くんが、風穴を開けた」
探偵さんが呟く。
「でも、足りない。核に届いていない」
「核……?」
「先生の中に埋め込まれた、にくゑの分体。久我が培養した種。……あれを除去しないと、先生の身体は操られ続ける」
先生が体勢を立て直す。背中の穴から赤黒い液体が噴き出しているが、すでに粘膜が再生し始めている。
時間がない。
梓さんが着地した。膝が震えている。あの一撃で、かなりの力を使った。
「梓ッ! 背中の穴、塞がる前にもう一発……!」
私が叫んだ。
「うんっ!」
梓さんが弓を構え直す。でも、先生はもう学習していた。
背中を壁に押しつけて、弱点を隠す。六本の腕を広げ、梓さんに向かって突進する。
正面突破は不可能。背中には回れない。
梓さんの足が止まった。
先生の拳が迫る。
その瞬間。
「梓くん、上だ」
探偵さんの声。静かで、確信に満ちている。
「天井。配管の接続部。あそこを撃ち抜いて」
「は?」
「いいから撃てっ!」
梓さんの目が見開かれる。一瞬の躊躇。
先生の拳が、あと一メートル。
梓さんは――笑った。
獰猛で、美しい、戦士の笑み。
「信じるわ、得たいの知れない探偵さんっ!」
弓の向きが、変わった。
先生の拳が空を切る。
梓さんは身を沈めて潜り抜け、天井に向かって矢を放った。
パイプが弾ける。
錆びた水が、天井から滝みたいに落ちてきた。
先生の全身を水が叩く。
にくゑの粘膜が、水圧で剥がれてゆく。表面が白濁し、粘り気を失い、ぼろぼろと剥がれ落ちる。
一瞬。
ほんの、一瞬だけ。
先生の背中の穴が、むき出しになった。
「今ッ!!」
梓さんが叫ぶ。自分で叫んで、自分で答える。
弓を引く。限界まで。弓そのものが悲鳴を上げるまで。
梓さんの全身から光が迸る。緋色じゃない。白い。清音と繋がった、巫女の光。
先生の背中の穴に向かって、一直線。
「――還りなさいッ!!」
矢が、吸い込まれた。
先生の身体が、内側から光った。
白い光が、ひび割れみたいに全身を走る。
目が。口が。蜘蛛の脚が。
全部が、止まった。
――静寂。
先生の身体が、ゆっくりと崩れ始めた。
蜘蛛の脚が、灰みたいに崩れて消える。あの学校の時と同じだ。探偵さんが一つ一つ切り落としたのと同じように。
増えた腕が消え、無数の目が閉じ、口が溶けていく。
二本の腕。二本の脚。人間の、身体。
先生の身体が、ゆっくりと床に降りる。
崩れるように横たわった先生を、私は駆け寄って受け止めた。
軽い。
あまりにも、軽い。
「先生……先生!」
返事はない。
でも、呼吸はある。胸がわずかに上下している。
梓さんが弓を下ろし、その場に膝をついた。
全力を使い果たしている。肩で息をして、額から汗が滴り落ちる。
「……や、ったわ……」
かすれた声。
でも、目だけはまっすぐ先生を見ている。
◇
静寂の中で、先生の指が動いた。
ぴくり。
小さな動きだった。でも、確かに。
機械的な動きじゃない。にくゑに操られた動きじゃない。
人間の、意思が込められた動き。
目が、開いた。
赤い光はどこにもなかった。
透き通った、人間の瞳。
「……ぁ……」
声。
あの声だ。
少年同士の恋愛を夢中で語っていた時の、あの声の面影が残っている。
先生の視線が、ゆっくりと動く。
天井を見て、壁を見て、そして私の顔を見つけた。
「……まゆ、み……ちゃん……?」
知っている。覚えている。
「先生……先生! 分かりますか!? 私です、虚木真弓です!」
「……まゆみ、ちゃん……ここは……わたし……いったい……」
先生の唇が、微かに動いた。
笑おうとしている。あの、ちょっとずれた笑い方で。
「……どのくらい……寝て、た……?」
「先生……」
涙が止まらなかった。
先生の手を握る。細くて、冷たくて、骨と皮だけみたいに痩せている。
でも、握り返してくれた。弱い力。でも確かに、先生自身の力。
探偵さんが、静かに近づいた。
「……柳田先生。意識は、はっきりしていますか」
「……あなた……は……」
「探偵です。以前、一度お会いしていますが……覚えていないかもしれませんね」
「……ええ……なんとなく……黒い、コートの……」
先生の目が、ゆっくりと部屋を見回した。
赤黒い壁。粘液の床。自分の身体に残ったケーブルの痕。
何があったのか。
自分がどうなっていたのか。
全部、分かっている目だった。
「……わたし……にくゑ、を……ばら蒔いて……いたのね……」
「先生のせいじゃありません」
「……身体が……勝手に……動いて……でも……意識は……時々……」
サヤカと、同じだった。
分かっていて、止められない。でも先生の場合、サヤカよりもっと長い時間、もっと深い闇の中に閉じ込められていた。
先生の目から、涙がこぼれた。
頬を伝う。顎を伝う。私の手の甲に、ぽたりと落ちた。
「……ごめん、なさい……」
「先生、謝らないでください……!」
「……にげ、なさい……ここは……危ない……」
先生が、かすれた声で言う。
自分の心配より、私たちの安全を。ぼろぼろの身体で、まだそんなことを言っている。
梓さんが、先生の傍に膝をついた。
「……先生。もう大丈夫よ。中にあったにくゑは、今ので祓えたと思う」
「……あなた……は?」
「転校生。先生とは少ししかお話してなかったけど、楽しい授業だった」
梓の声が、震えていた。強がっているのが分かる。
先生が、また笑おうとした。
でも、途中で顔が歪んだ。笑顔じゃなくて、泣き顔に変わった。
「……いつき、さん……」
久我さんの名前。
先生が最初に呼んだのは、自分を「必要な犠牲」にした男の名前だった。
「……いつきさん、は……?」
探偵さんが、小さく頷いた。
「この先にいますよ。先生のことを案じてました」
「ふふっ……うそつきな人ね…………あの人……怒って、いたの……。世界に……自分に……全部に……」
先生の手が、私の制服の袖を掴んだ。
弱い力。でも、そこに込められた意思は強かった。
「……お願い……」
先生の目が、まっすぐに私を見た。
透き通った、人間の目。
「……あの人を……助けて、あげて……」
予想していたのは「止めて」だった。
でも、先生が言ったのは「助けて」だった。
「……あの人は……怒ってる、だけ、なの……本当は……優しい、人……不器用で……馬鹿で……でも……」
先生の目から、涙が溢れた。
「……わたしにした、こと……許さなくて、いい……許さなくて、いいから……」
先生の声が、途切れそうになる。
でも、最後まで言い切った。
「……どうか……あの人を……助けて……」
自分を道具にした男のことを。
自分の身体をにくゑの苗床にした男のことを。
必要な犠牲と切り捨てた男のことを。
まだ、愛している。
まだ、心配している。
壊れた身体で、ぼろぼろに痩せた腕で、それでも「助けて」と言える。
殺さないで、じゃない。止めて、でもない。
助けてあげて、と。
この人は。
この人は、あの校庭の時から、ずっとそうだった。
異形に変えられても、意識を奪われても、道具にされても。
久我さんのことを、心配し続けていた。
あの日の奇跡は、本当だったんだ。
先生の愛は、あの時からずっと、消えていなかった。
「……約束します」
私は先生の手を両手で包んだ。
「久我さんを、助けます。……先生の分まで、怒って、それでも助けます」
先生が、微笑んだ。
ぼろぼろの身体で。涙で濡れた顔で。
でも確かに、あの教室で見た柳田先生の笑顔だった。
「……まゆみ、ちゃん……ありが、とう……」
その瞬間、先生の指先が黒くなった。
「え」
爪の先から。手首から。肘から。
黒い灰が、静かに舞い上がる。
「先生……!? 先生ッ!!」
握っていた手が、崩れた。指の形を保ったまま、砂みたいに崩れて、黒い粒子になって散っていく。
「……ああ……そう……よね……」
先生は、驚いていなかった。
分かっていたみたいに、自分の消えていく腕を見つめていた。
「にくゑが……無くなったら……この身体は……持たない、もの……ね……」
「嘘……嘘でしょ……!? 探偵さんッ! 何か、何かないんですか!!」
探偵さんを振り返った。
探偵さんは、目を伏せていた。
「……最初から、決まっていたことだよ。今意識を取り戻したことが、本当に奇跡的だ」
知っていた。
探偵さんは、最初からこうなると分かっていた。
「じゃあ……先生は……」
「戦わなければ、僕たちが死んでいた」
静かな声。
事実だけを、置いていく声。
灰が、腕から肩へ広がっていく。
先生の身体が、少しずつ輪郭を失っていく。
「……泣か、ないで……真弓ちゃん……」
先生が、まだ残っている方の手で、私の涙を拭おうとした。
指先が頬に触れた瞬間、ざらりと崩れた。黒い灰が、私の涙と混じって頬を伝った。
「……約束……覚えて、て、ね……」
顔が、崩れ始めた。
でも、最後まで笑っていた。
あの、ちょっとずれた、BLの話をする時みたいな笑顔で。
「……いつき、さん、を……お願い……」
声が、途切れた。
微笑んだまま、先生の顔が灰になった。
黒い粒子が静かに舞い上がり、暗い天井に吸い込まれていく。
私の手の中に、何も残らなかった。
さっきまで握り返してくれた手が。あの温度が。
黒い灰だけが、床に薄く積もっていた。
……静寂。
誰も、何も言えなかった。
梓が、声を殺して泣いていた。弓を握ったまま、唇を噛んで、震えている。自分の矢が先生を祓った。自分の矢が先生を殺した。それを分かっている顔だった。
探偵さんだけが、前を向いていた。
「……行こう」
低い声。
「この先に、ライター君がいる」
さらに奥。
肉の通路の先に、分厚い鉄の扉が見えた。
扉の向こうから、冷たい風が吹いてくる。
にくゑの甘い匂いとは違う。もっと古くて、もっと深い場所の匂い。
世界の底が、口を開けている匂い。
私は振り返った。
先生がいた場所。黒い灰が、薄く積もっている。
それだけが、柳田はるか先生がここにいた証だった。
(……先生。約束、果たしに行きます)
涙を拭いた。
頬に残った黒い灰が、制服の袖に移った。
消えない。
この灰は、消さない。
三人で、最後の闇へと踏み出した。
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