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第84話 必要な犠牲

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/5/28 📚 シリーズ: 終焉の探偵 📝 7,411文字 ✅ 全年齢

あらすじ

終焉の探偵 - 第84話 必要な犠牲

本文

甘い匂いが、下から這い上がってきた。

 鉄扉を押し開けた途端、生温い風が顔面に吹きつける。

 地下壕の湿気とカビの臭いに、あの匂いが混じっている。甘くて、鉄錆びていて、鼻の粘膜に張りつく匂い。にくゑの匂いだ。

「……うっ」

 鼻を覆った。手のひらに自分の吐息が当たる。

 でも、おかしい。

 不快感はある。吐き気もある。なのに、身体が――楽になっていく。

 ここに来るまでの倦怠感。細胞の一つ一つが悲鳴を上げているような痛み。

 それが、嘘みたいに引いていく。

 冷えきった体を湯に沈めた時の、あの感覚。筋肉がゆるんで、骨の芯から温かさが広がっていく。

(……なんで。こんなに気持ち悪い場所なのに)

 階段を降りる。一段。二段。三段。

 降りるたびに、甘い匂いが濃くなる。

 降りるたびに、体が軽くなる。

 まるで水の中に帰っていくみたいに、この場所が私を歓迎している。

 それが、たまらなく怖い。

「壁」

 梓さんが、一言だけ吐き捨てた。

 懐中電灯の光が照らしたのは、コンクリートの壁――だったもの。

 ひび割れから赤黒い粘液が滲み出していた。最初はほんのうっすらと。

 でも下層に進むにつれて、染みは広がり、壁を覆い、天井を侵し、床を飲み込んでいく。

 コンクリートの通路が、少しずつ、生き物の消化管に変わっていく。

 壁が、脈打っている。

 とくん。とくん。

 心臓の裏側で、とくん、とくん、と――壁の脈動と同じリズムが鳴っている。

 私の鼓動なのか、にくゑの鼓動なのか、もう区別がつかない。

「大丈夫よ」

 梓さんが、私の手を握った。強い意志を伝えてくれる優しい手。

「きっと真弓は私が守るから。――だから、行こう」

 その声には、迷いがなかった。

 握り返す。梓の手の温度。人間の、体温。

「……うん」

 私たちは、さらに奥へ進んだ。

◇

 長い通路を抜けた先で、空間が開けた。

 懐中電灯の光が天井に届かない。広い。

 コンクリートの柱が何本も並んでいる。兵員待機所か、弾薬庫か。戦時中はそういう場所だったのかもしれない。

 今は違う。

 床一面が、粘液の沼になっていた。

 足首まで浸かる。温かい。脈打っている。

 沼の中央に、何かがある。

 懐中電灯の光が震えながら照らし出したのは――人の形をした、肉の塔だった。

 高さは三メートルほど。赤黒い筋肉の繊維が絡まり合い、何本ものケーブルが天井と床を繋いでいる。心臓のように律動して、壁の血管に脈を送り続けている。

 この空間全体の心臓。にくゑを培養し、世界中にばら撒くための、生体サーバ。

 そしてその塔の中心に、一人の女性が埋まっていた。

「……え」

 声が漏れた。

 長い黒髪。白いブラウス。見覚えのある丸い眼鏡――の、片方。もう片方は肉に飲まれていた。

 腰から下は完全に肉塔と融合していて、どこまでが人間でどこからがにくゑなのか、もう境界がない。

 腕は六本に増えていた。それぞれの手がケーブルを握り、管を握り、にくゑの分体を世界中に送り出すオペレーターのように、絶え間なく動き続けている。

 あの頰に「目」が生えたのは、いつだっただろう。手の甲に「口」が『来て』と囁いていたのは。

 あの日、校庭で異形になった先生に、久我さんが「愛してる」と叫んで、一瞬だけ意識が戻ったことがあった。

 その先生が、こんな姿で。

「……柳田、先生……?」

 私の声に、探偵さんが目を伏せた。

「ここが培養場の心臓部だ。……久我は、柳田先生の肉体をにくゑの中枢コアにしたんだね」

 言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。

「コアって……何ですか。先生は、生きてるんですか」

「生きてはいる。でも、もう人間としては……」

 探偵さんの声が、途切れた。

 それは答えなくていいという意味だった。答えを、私はもう知っている。

 さっき、サヤカのケーブルを見て「不可逆」と言われた。あの時はサヤカの首に根を張った数本のケーブルだけだった。

 でも、柳田先生は。

 身体の半分以上が、にくゑと融合している。

(……これが、「不可逆」の行き着く先……)

 サヤカの未来が、ここにある。

◇

 その時だった。

 ぐちり、と。

 嫌な音。

 肉塔が、脈動を変えた。

 規則的だったリズムが崩れる。速くなる。焦るみたいに。

「……下がって」

 探偵さんが声のトーンを変えた。私の前に一歩出る。

 柳田先生の六本の腕が、一斉に止まった。

 ケーブルを握っていた指が、開く。

 管が、ぬるりと床に落ちる。

 そして――目が開いた。

 白く濁った瞳じゃない。

 赤く光る、にくゑの目だった。

「「「キテ」」」

 先生の身体から生えた無数の口が、一斉に開いた。

 あの声。校庭で聞いたのと同じ、人間のものじゃない声。

 肉塔が、崩壊する。

 先生の身体が塔から剥がれ落ちる――いや、違う。

 塔そのものが、先生と一緒に変形している。

 足が生えた。

 腰から下を覆っていた肉が、蜘蛛の脚みたいに広がる。四本。六本。八本。

 赤黒い筋肉の束が、コンクリートの床を叩いて先生の身体を持ち上げる。

 三メートルの高さまで。

 腕は六本のまま。でも今は、ケーブルの代わりに拳を握っている。

 全身から無数の目が開き、ぎょろぎょろとこちらを捉える。

 顔だけが、柳田先生の顔をしていた。でもそこに意思はない。操り人形の、空っぽな顔。

「久我の肉人形だ」

 探偵さんの声が硬い。

「先生の身体を使って、僕たちを排除しに来た。……いや、真弓くん以外を」

「え」

「君は久我の目的だ。殺すわけにはいかない。……だから標的は、僕と梓さんだ」

 その言葉が終わる前に、先生が動いた。

 六本の腕のうち二本が、天井を殴った。

 コンクリートが砕ける。

 破片が降り注ぎ、視界が白い粉塵で覆われる。

 同時に、蜘蛛の脚が地面を蹴った。

 三メートルの巨体が、弾丸みたいに跳ぶ。

 狙いは――梓さん。

「ッ!!」

 梓さんが反応した。

 右手に光が凝る。緋色。弓の形。

 矢を番え、引き絞る。一瞬。

 放たれた光の矢が、先生の胴体に向かって一直線に走る。

 当たった。

 でも、弾かれた。

 バチィッ!

 矢が先生の身体に触れた瞬間、赤い火花が散って消える。

 にくゑの粘膜が盾になっている。あの校庭の時とは、桁違いに硬い。

「効かない……!?」

 梓さんが歯を食いしばる。

 先生の拳が、振り下ろされた。

 間一髪、横に転がって避ける。

 拳がコンクリートの床を叩いた場所に、直径一メートルのクレーターができた。

「梓く――」

 探偵さんが動こうとした。

 その瞬間、別の腕が、探偵さんに向かって伸びた。

 探偵さんの身体が吹き飛ぶ。壁に叩きつけられる。

「探偵さんッ!」

「来るなっ!」

 探偵さんが叫んだ。壁にめり込んだ身体を引き剥がしながら。

「君は僕のそばにいろ! 離れるな!」

 先生の無数の目が、一瞬だけ私を見た。

 そして、すぐに逸れた。赤い光が、探偵さんと梓さんに向き直る。

 殺さない。

 私だけは、殺さない。

 久我のトロフィーだから。

 拳がもう一度振り下ろされる。探偵さんが身を捻って躱す。

 探偵さんは防御に徹していた。私のそばを離れず、先生の攻撃を最小限の動きで躱し続ける。

 壁を盾にし、柱の陰に身を隠し、先生の拳が届くたびに私を抱えて跳ぶ。

 守られている。

 でも、それだけだ。探偵さんは反撃していない。

「探偵さん、どうして……!」

「……力を振るえるのは後一度。ならここは――」

 血を拭いながら、探偵さんが言った。

 口の端が切れている。でも、笑っている。あのいつもの、困ったような笑い方。

「梓くん! 任せた!」

◇

 弓が、鳴った。

 梓さんは先生の周りを駆け回りながら、矢を放ち続けていた。

 正面からは通らない。分かっている。でも止まらない。

 一射。胴を狙う。弾かれる。

 二射。脚を狙う。粘膜が矢を吸い込んで消す。

 三射。顔を狙う。寸前で別の腕が庇った。

「クソッ……!」

 梓さんが舌打ちする。汗が飛ぶ。

 先生の蜘蛛脚が横薙ぎに振られる。梓さんが跳んで躱す。天井のパイプを掴んで身体を振り、先生の背後に回り込む。

 背中。

 ケーブルの接続点が密集している場所。

 そこだ。

 梓さんの目が光る。

 弓を引き絞る。いつもの矢じゃない。両手が震えるほどの力を込めて、光がぎゅっと圧縮される。

 白い矢が、緋色に変わった。

「穿てッ!!」

 放たれた緋色の矢が、轟音と共に空気を裂いた。

 先生の背中に、着弾。

 バギィンッ!!

 にくゑの粘膜が、砕けた。

 赤黒い破片が飛び散り、先生の背中に風穴が開く。

「「「ギ、イィィィィ!!」」」

 先生の全身の口が、絶叫した。

 耳を劈く音。空間全体がびりびりと振動する。

 先生の身体が仰け反った。蜘蛛脚が暴れ、天井を打ち、壁を打ち、めちゃくちゃに破壊する。

 コンクリートの破片が雨みたいに降ってくる。

 探偵さんが私を抱えて柱の陰に飛び込んだ。

「……やった。梓くんが、風穴を開けた」

 探偵さんが呟く。

「でも、足りない。核に届いていない」

「核……?」

「先生の中に埋め込まれた、にくゑの分体。久我が培養した種。……あれを除去しないと、先生の身体は操られ続ける」

 先生が体勢を立て直す。背中の穴から赤黒い液体が噴き出しているが、すでに粘膜が再生し始めている。

 時間がない。

 梓さんが着地した。膝が震えている。あの一撃で、かなりの力を使った。

「梓ッ! 背中の穴、塞がる前にもう一発……!」

 私が叫んだ。

「うんっ!」

 梓さんが弓を構え直す。でも、先生はもう学習していた。

 背中を壁に押しつけて、弱点を隠す。六本の腕を広げ、梓さんに向かって突進する。

 正面突破は不可能。背中には回れない。

 梓さんの足が止まった。

 先生の拳が迫る。

 その瞬間。

「梓くん、上だ」

 探偵さんの声。静かで、確信に満ちている。

「天井。配管の接続部。あそこを撃ち抜いて」

「は?」

「いいから撃てっ!」

 梓さんの目が見開かれる。一瞬の躊躇。

 先生の拳が、あと一メートル。

 梓さんは――笑った。

 獰猛で、美しい、戦士の笑み。

「信じるわ、得たいの知れない探偵さんっ!」

 弓の向きが、変わった。

 先生の拳が空を切る。

 梓さんは身を沈めて潜り抜け、天井に向かって矢を放った。

 パイプが弾ける。

 錆びた水が、天井から滝みたいに落ちてきた。

 先生の全身を水が叩く。

 にくゑの粘膜が、水圧で剥がれてゆく。表面が白濁し、粘り気を失い、ぼろぼろと剥がれ落ちる。

 一瞬。

 ほんの、一瞬だけ。

 先生の背中の穴が、むき出しになった。

「今ッ!!」

 梓さんが叫ぶ。自分で叫んで、自分で答える。

 弓を引く。限界まで。弓そのものが悲鳴を上げるまで。

 梓さんの全身から光が迸る。緋色じゃない。白い。清音と繋がった、巫女の光。

 先生の背中の穴に向かって、一直線。

「――還りなさいッ!!」

 矢が、吸い込まれた。

 先生の身体が、内側から光った。

 白い光が、ひび割れみたいに全身を走る。

 目が。口が。蜘蛛の脚が。

 全部が、止まった。

 ――静寂。

 先生の身体が、ゆっくりと崩れ始めた。

 蜘蛛の脚が、灰みたいに崩れて消える。あの学校の時と同じだ。探偵さんが一つ一つ切り落としたのと同じように。

 増えた腕が消え、無数の目が閉じ、口が溶けていく。

 二本の腕。二本の脚。人間の、身体。

 先生の身体が、ゆっくりと床に降りる。

 崩れるように横たわった先生を、私は駆け寄って受け止めた。

 軽い。

 あまりにも、軽い。

「先生……先生!」

 返事はない。

 でも、呼吸はある。胸がわずかに上下している。

 梓さんが弓を下ろし、その場に膝をついた。

 全力を使い果たしている。肩で息をして、額から汗が滴り落ちる。

「……や、ったわ……」

 かすれた声。

 でも、目だけはまっすぐ先生を見ている。

◇

 静寂の中で、先生の指が動いた。

 ぴくり。

 小さな動きだった。でも、確かに。

 機械的な動きじゃない。にくゑに操られた動きじゃない。

 人間の、意思が込められた動き。

 目が、開いた。

 赤い光はどこにもなかった。

 透き通った、人間の瞳。

「……ぁ……」

 声。

 あの声だ。

 少年同士の恋愛を夢中で語っていた時の、あの声の面影が残っている。

 先生の視線が、ゆっくりと動く。

 天井を見て、壁を見て、そして私の顔を見つけた。

「……まゆ、み……ちゃん……?」

 知っている。覚えている。

「先生……先生! 分かりますか!? 私です、虚木真弓です!」

「……まゆみ、ちゃん……ここは……わたし……いったい……」

 先生の唇が、微かに動いた。

 笑おうとしている。あの、ちょっとずれた笑い方で。

「……どのくらい……寝て、た……?」

「先生……」

 涙が止まらなかった。

 先生の手を握る。細くて、冷たくて、骨と皮だけみたいに痩せている。

 でも、握り返してくれた。弱い力。でも確かに、先生自身の力。

 探偵さんが、静かに近づいた。

「……柳田先生。意識は、はっきりしていますか」

「……あなた……は……」

「探偵です。以前、一度お会いしていますが……覚えていないかもしれませんね」

「……ええ……なんとなく……黒い、コートの……」

 先生の目が、ゆっくりと部屋を見回した。

 赤黒い壁。粘液の床。自分の身体に残ったケーブルの痕。

 何があったのか。

 自分がどうなっていたのか。

 全部、分かっている目だった。

「……わたし……にくゑ、を……ばら蒔いて……いたのね……」

「先生のせいじゃありません」

「……身体が……勝手に……動いて……でも……意識は……時々……」

 サヤカと、同じだった。

 分かっていて、止められない。でも先生の場合、サヤカよりもっと長い時間、もっと深い闇の中に閉じ込められていた。

 先生の目から、涙がこぼれた。

 頬を伝う。顎を伝う。私の手の甲に、ぽたりと落ちた。

「……ごめん、なさい……」

「先生、謝らないでください……!」

「……にげ、なさい……ここは……危ない……」

 先生が、かすれた声で言う。

 自分の心配より、私たちの安全を。ぼろぼろの身体で、まだそんなことを言っている。

 梓さんが、先生の傍に膝をついた。

「……先生。もう大丈夫よ。中にあったにくゑは、今ので祓えたと思う」

「……あなた……は?」

「転校生。先生とは少ししかお話してなかったけど、楽しい授業だった」

 梓の声が、震えていた。強がっているのが分かる。

 先生が、また笑おうとした。

 でも、途中で顔が歪んだ。笑顔じゃなくて、泣き顔に変わった。

「……いつき、さん……」

 久我さんの名前。

 先生が最初に呼んだのは、自分を「必要な犠牲」にした男の名前だった。

「……いつきさん、は……?」

 探偵さんが、小さく頷いた。

「この先にいますよ。先生のことを案じてました」

「ふふっ……うそつきな人ね…………あの人……怒って、いたの……。世界に……自分に……全部に……」

 先生の手が、私の制服の袖を掴んだ。

 弱い力。でも、そこに込められた意思は強かった。

「……お願い……」

 先生の目が、まっすぐに私を見た。

 透き通った、人間の目。

「……あの人を……助けて、あげて……」

 予想していたのは「止めて」だった。

 でも、先生が言ったのは「助けて」だった。

「……あの人は……怒ってる、だけ、なの……本当は……優しい、人……不器用で……馬鹿で……でも……」

 先生の目から、涙が溢れた。

「……わたしにした、こと……許さなくて、いい……許さなくて、いいから……」

 先生の声が、途切れそうになる。

 でも、最後まで言い切った。

「……どうか……あの人を……助けて……」

 自分を道具にした男のことを。

 自分の身体をにくゑの苗床にした男のことを。

 必要な犠牲と切り捨てた男のことを。

 まだ、愛している。

 まだ、心配している。

 壊れた身体で、ぼろぼろに痩せた腕で、それでも「助けて」と言える。

 殺さないで、じゃない。止めて、でもない。

 助けてあげて、と。

 この人は。

 この人は、あの校庭の時から、ずっとそうだった。

 異形に変えられても、意識を奪われても、道具にされても。

 久我さんのことを、心配し続けていた。

 あの日の奇跡は、本当だったんだ。

 先生の愛は、あの時からずっと、消えていなかった。

「……約束します」

 私は先生の手を両手で包んだ。

「久我さんを、助けます。……先生の分まで、怒って、それでも助けます」

 先生が、微笑んだ。

 ぼろぼろの身体で。涙で濡れた顔で。

 でも確かに、あの教室で見た柳田先生の笑顔だった。

「……まゆみ、ちゃん……ありが、とう……」

 その瞬間、先生の指先が黒くなった。

「え」

 爪の先から。手首から。肘から。

 黒い灰が、静かに舞い上がる。

「先生……!? 先生ッ!!」

 握っていた手が、崩れた。指の形を保ったまま、砂みたいに崩れて、黒い粒子になって散っていく。

「……ああ……そう……よね……」

 先生は、驚いていなかった。

 分かっていたみたいに、自分の消えていく腕を見つめていた。

「にくゑが……無くなったら……この身体は……持たない、もの……ね……」

「嘘……嘘でしょ……!? 探偵さんッ! 何か、何かないんですか!!」

 探偵さんを振り返った。

 探偵さんは、目を伏せていた。

「……最初から、決まっていたことだよ。今意識を取り戻したことが、本当に奇跡的だ」

 知っていた。

 探偵さんは、最初からこうなると分かっていた。

「じゃあ……先生は……」

「戦わなければ、僕たちが死んでいた」

 静かな声。

 事実だけを、置いていく声。

 灰が、腕から肩へ広がっていく。

 先生の身体が、少しずつ輪郭を失っていく。

「……泣か、ないで……真弓ちゃん……」

 先生が、まだ残っている方の手で、私の涙を拭おうとした。

 指先が頬に触れた瞬間、ざらりと崩れた。黒い灰が、私の涙と混じって頬を伝った。

「……約束……覚えて、て、ね……」

 顔が、崩れ始めた。

 でも、最後まで笑っていた。

 あの、ちょっとずれた、BLの話をする時みたいな笑顔で。

「……いつき、さん、を……お願い……」

 声が、途切れた。

 微笑んだまま、先生の顔が灰になった。

 黒い粒子が静かに舞い上がり、暗い天井に吸い込まれていく。

 私の手の中に、何も残らなかった。

 さっきまで握り返してくれた手が。あの温度が。

 黒い灰だけが、床に薄く積もっていた。

 ……静寂。

 誰も、何も言えなかった。

 梓が、声を殺して泣いていた。弓を握ったまま、唇を噛んで、震えている。自分の矢が先生を祓った。自分の矢が先生を殺した。それを分かっている顔だった。

 探偵さんだけが、前を向いていた。

「……行こう」

 低い声。

「この先に、ライター君がいる」

 さらに奥。

 肉の通路の先に、分厚い鉄の扉が見えた。

 扉の向こうから、冷たい風が吹いてくる。

 にくゑの甘い匂いとは違う。もっと古くて、もっと深い場所の匂い。

 世界の底が、口を開けている匂い。

 私は振り返った。

 先生がいた場所。黒い灰が、薄く積もっている。

 それだけが、柳田はるか先生がここにいた証だった。

(……先生。約束、果たしに行きます)

 涙を拭いた。

 頬に残った黒い灰が、制服の袖に移った。

 消えない。

 この灰は、消さない。

 三人で、最後の闇へと踏み出した。

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作者について

カクナ・ノゾム

カクナ・ノゾム

カクナノゾムと申します。 趣味の小説を細々と書いてます。 面白いことは間違いないので是非是非ご一読くださいませ。

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