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第85話 邂逅

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/5/29 📚 シリーズ: 終焉の探偵 📝 2,603文字 ✅ 全年齢

あらすじ

終焉の探偵 - 第85話 邂逅

本文

扉を開けた瞬間、空気が変わった。

 温度じゃない。湿度でもない。

 重力そのものが倍になったみたいに、足が重い。

 広い。

 懐中電灯を向けても、光が奥まで届かない。天井が闇に溶けていて、どこまで高いのか分からない。

 空間の中央に、それはあった。

 巨大な肉塊。

 赤黒い筋肉の塊が、心臓みたいに脈打っている。太い血管が四方八方に伸びて、天井を突き抜け、地上へと繋がっている。さっきの部屋にあった肉塔の、大元。全ての根っこ。

 そして。

 その上に、一人の男が立っていた。

 いつものジャケット。少し猫背気味の立ち方。ノートパソコンを膝に乗せて、キーボードを叩いていた。

 部室で原稿を書いている時と、同じ姿勢だ。

 でも、気配が違う。空気の温度が違う。

 右腕と首筋に、赤黒い触手が深く食い込んでいた。血管が体の外に飛び出して、そのまま足元の肉塊と繋がっている。人間の部分と怪物の部分が、継ぎ目なく、当然のように融合していた。

「……久我、さん」

 声が震えた。

 でも、目は逸らさなかった。

 制服の袖に、黒い灰がついている。

 さっき、先生の頬に触れた指から移った灰。

 先生だったもの。

 キーボードを叩く手が止まった。

 男がゆっくりと振り返る。

「やあ。……来てくれたんだね、真弓ちゃん」

 笑っている。

 あの頃と同じ、穏やかで優しい笑顔の輪郭。

 触手が嬉しそうに蠢く。

 その光景に、胃の底がひっくり返った。

「久我さん」

 声が出た。止められなかった。

 でも叫びじゃなかった。

「柳田先生が、灰になりました」

 久我の指が、止まった。

「……梓がにくゑを祓って、先生の意識が戻って。……でも、にくゑがなくなったら身体が保てなくて、そのまま」

 声が震える。でも、最後まで言う。

「先生は、黒い灰になって消えました。私の手の中で」

 袖を見せた。黒い染み。

 久我の目が、そこに落ちた。

 一秒。二秒。三秒。

 表情が読めない。能面みたいに固まっている。

「……そうか」

 声に、感情がなかった。

「それで、はるかさんは最後に何か言ったのかい」

 はるかさん。

 先生の名前を、あの呼び方で呼んだ。

 その声だけが、ほんの少しだけ震えていた。

「――あなたを助けてほしいと言いました」

 久我の目が、見開かれた。

「許さなくていい、と。自分にしたこと、許さなくていいから。でも、あの人を助けてあげて、と」

 久我の唇が動いた。音にならない。

「自分が灰になりながら、最後まであなたの心配をしていました」

 沈黙。

 肉塊の脈動だけが、とくん、とくん、と空間を満たしている。

 久我の表情が、一瞬だけ崩れた。

 能面の下に、人間の顔が透けた。あの校庭で「はるかさん」と叫んだ時の、あの顔が。

 でも、すぐに消えた。

 冷たい仮面が、彼の顔を覆い直す。

「……必要な犠牲だった。それだけだ」

 その言葉を聞いた瞬間。

 私の中で、何かが燃えた。

 でも、切れなかった。

 先生の約束がある。

 「怒って、それでも助ける」と、あの灰になっていく手を握って誓った。

 だから、切れない。切れてたまるか。

「……先生は、最後まであなたのことを『いつきさん』と呼んでいました」

 静かに言った。

 怒りを、言葉の奥に沈めて。

「あなたがどれだけ先生を道具にしても、先生はあなたを愛していました。……それが、必要な犠牲ですか」

 久我は答えなかった。

 背を向けた。

◇

「……君は、この世界が憎かったのかい?」

 探偵さんが、静かに前に出た。

 久我は、ふっと笑った。唇の端だけで。

「憎い? まさか」

 肉塊の上をゆっくりと歩きながら、久我は語り始めた。

 まるで、自作の小説の解説をするみたいに。自分だけが知っている種明かしを、得意げに披露するみたいに。

「ただ……退屈だったんだよ」

 その一言の重さに、足元の肉がびくりと反応した。

「探偵くん、君なら分かるだろう? 本来あるべきだった『正史』の世界を」

 久我の目が、遠くを見る。ここではない、別の世界の記憶を映しているみたいに。

「あの世界で、僕は記録者だった。村が炎に包まれ、人々が溶け合い、世界が終焉へと向かう。……それは僕の記録が引き起こしたんだ」

 声が、熱を帯びていく。

「それを彼に知らされた時の僕の気持ちがわかるかい? 恐怖? 悲しみ? 違う。恍惚だったよ」

 久我の目が光った。肉壁の赤い光を反射したのか、それとも、あの時の恍惚が今も瞳に棲みついているのか。

「この世の終わりを、僕が引き起こした。僕が物語を創造したんだ。……あの瞬間、僕は確かにこの世界で一番重要な人間だった」

 両手を広げた。指揮者が、最高の一音を待つように。

「けれど、目が覚めたらどうだ?」

 声が、急に冷える。

「世界は平和になっていた。吉川という医者が奇跡を起こし、誰も死なず、村は存続し、真弓ちゃんも生き残った。……素晴らしいハッピーエンドだ」

 私は唇を噛んだ。

「でも」

 久我の声から、温度が消えた。

「その世界に、僕の居場所はなかった。伊織は吉川と結ばれた。幸せな家庭を築いた。僕に残されたのは、売れない怪談を書くだけの空虚な日々だ。……僕は、いてもいなくても同じ存在になったんだよ」

 ――救われた世界で、救われなかった者。

 探偵さんの言葉が蘇る。

 久我は、この平和な世界で、自分だけが透明人間になってしまったように感じていたんだ。

「伊織の結婚祝いで村を訪れた夜、……『彼』が僕を呼んだ」

 久我が足元の肉塊を踏みしめた。とくん、とそれが応える。

「本体が見せてくれたよ。正史の記憶を。『あの世界では、お前は偉大だった。もう一度やらないか』とね」

「じゃあ……操られたんですか?」

 私が問うと、久我は首を振った。ゆっくりと、はっきりと。

「違うよ、真弓ちゃん。僕は、自分でその手を握り返したんだ」

 一点の迷いもない笑顔。

 狂気すら、彼の理屈の中では整然と筋が通っている。

「この退屈で嘘くさい平和を壊して、あの美しく残酷な悲劇を取り戻す。僕が再び偉大な『記録者』になるために」

 久我の視線が、私を射抜いた。

「鍵は君だ。君の体内にある正史世界への設計図。君が覚醒すれば、世界は『あるべき姿』に戻る」

「あるべき姿って……」

 唇が震える。

「みんなが死ぬ世界が、あるべき姿なんですか……!?」

「美しいだろう? あの悲劇は」

 心底うっとりとした顔で、久我は言った。

 言葉が、通じない。

 目の前にいるのは、もう私の知っている人間じゃない。承認欲求と物語への執着に魂を食い尽くされた、怪物の抜け殻だ。

 ――でも。

 先生が言った。「本当は優しい人」と。「怒っているだけ」と。

 この狂気の奥に、まだ何か残っているのか。

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作者について

カクナ・ノゾム

カクナ・ノゾム

カクナノゾムと申します。 趣味の小説を細々と書いてます。 面白いことは間違いないので是非是非ご一読くださいませ。

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