第85話 邂逅
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
終焉の探偵 - 第85話 邂逅
本文
扉を開けた瞬間、空気が変わった。
温度じゃない。湿度でもない。
重力そのものが倍になったみたいに、足が重い。
広い。
懐中電灯を向けても、光が奥まで届かない。天井が闇に溶けていて、どこまで高いのか分からない。
空間の中央に、それはあった。
巨大な肉塊。
赤黒い筋肉の塊が、心臓みたいに脈打っている。太い血管が四方八方に伸びて、天井を突き抜け、地上へと繋がっている。さっきの部屋にあった肉塔の、大元。全ての根っこ。
そして。
その上に、一人の男が立っていた。
いつものジャケット。少し猫背気味の立ち方。ノートパソコンを膝に乗せて、キーボードを叩いていた。
部室で原稿を書いている時と、同じ姿勢だ。
でも、気配が違う。空気の温度が違う。
右腕と首筋に、赤黒い触手が深く食い込んでいた。血管が体の外に飛び出して、そのまま足元の肉塊と繋がっている。人間の部分と怪物の部分が、継ぎ目なく、当然のように融合していた。
「……久我、さん」
声が震えた。
でも、目は逸らさなかった。
制服の袖に、黒い灰がついている。
さっき、先生の頬に触れた指から移った灰。
先生だったもの。
キーボードを叩く手が止まった。
男がゆっくりと振り返る。
「やあ。……来てくれたんだね、真弓ちゃん」
笑っている。
あの頃と同じ、穏やかで優しい笑顔の輪郭。
触手が嬉しそうに蠢く。
その光景に、胃の底がひっくり返った。
「久我さん」
声が出た。止められなかった。
でも叫びじゃなかった。
「柳田先生が、灰になりました」
久我の指が、止まった。
「……梓がにくゑを祓って、先生の意識が戻って。……でも、にくゑがなくなったら身体が保てなくて、そのまま」
声が震える。でも、最後まで言う。
「先生は、黒い灰になって消えました。私の手の中で」
袖を見せた。黒い染み。
久我の目が、そこに落ちた。
一秒。二秒。三秒。
表情が読めない。能面みたいに固まっている。
「……そうか」
声に、感情がなかった。
「それで、はるかさんは最後に何か言ったのかい」
はるかさん。
先生の名前を、あの呼び方で呼んだ。
その声だけが、ほんの少しだけ震えていた。
「――あなたを助けてほしいと言いました」
久我の目が、見開かれた。
「許さなくていい、と。自分にしたこと、許さなくていいから。でも、あの人を助けてあげて、と」
久我の唇が動いた。音にならない。
「自分が灰になりながら、最後まであなたの心配をしていました」
沈黙。
肉塊の脈動だけが、とくん、とくん、と空間を満たしている。
久我の表情が、一瞬だけ崩れた。
能面の下に、人間の顔が透けた。あの校庭で「はるかさん」と叫んだ時の、あの顔が。
でも、すぐに消えた。
冷たい仮面が、彼の顔を覆い直す。
「……必要な犠牲だった。それだけだ」
その言葉を聞いた瞬間。
私の中で、何かが燃えた。
でも、切れなかった。
先生の約束がある。
「怒って、それでも助ける」と、あの灰になっていく手を握って誓った。
だから、切れない。切れてたまるか。
「……先生は、最後まであなたのことを『いつきさん』と呼んでいました」
静かに言った。
怒りを、言葉の奥に沈めて。
「あなたがどれだけ先生を道具にしても、先生はあなたを愛していました。……それが、必要な犠牲ですか」
久我は答えなかった。
背を向けた。
◇
「……君は、この世界が憎かったのかい?」
探偵さんが、静かに前に出た。
久我は、ふっと笑った。唇の端だけで。
「憎い? まさか」
肉塊の上をゆっくりと歩きながら、久我は語り始めた。
まるで、自作の小説の解説をするみたいに。自分だけが知っている種明かしを、得意げに披露するみたいに。
「ただ……退屈だったんだよ」
その一言の重さに、足元の肉がびくりと反応した。
「探偵くん、君なら分かるだろう? 本来あるべきだった『正史』の世界を」
久我の目が、遠くを見る。ここではない、別の世界の記憶を映しているみたいに。
「あの世界で、僕は記録者だった。村が炎に包まれ、人々が溶け合い、世界が終焉へと向かう。……それは僕の記録が引き起こしたんだ」
声が、熱を帯びていく。
「それを彼に知らされた時の僕の気持ちがわかるかい? 恐怖? 悲しみ? 違う。恍惚だったよ」
久我の目が光った。肉壁の赤い光を反射したのか、それとも、あの時の恍惚が今も瞳に棲みついているのか。
「この世の終わりを、僕が引き起こした。僕が物語を創造したんだ。……あの瞬間、僕は確かにこの世界で一番重要な人間だった」
両手を広げた。指揮者が、最高の一音を待つように。
「けれど、目が覚めたらどうだ?」
声が、急に冷える。
「世界は平和になっていた。吉川という医者が奇跡を起こし、誰も死なず、村は存続し、真弓ちゃんも生き残った。……素晴らしいハッピーエンドだ」
私は唇を噛んだ。
「でも」
久我の声から、温度が消えた。
「その世界に、僕の居場所はなかった。伊織は吉川と結ばれた。幸せな家庭を築いた。僕に残されたのは、売れない怪談を書くだけの空虚な日々だ。……僕は、いてもいなくても同じ存在になったんだよ」
――救われた世界で、救われなかった者。
探偵さんの言葉が蘇る。
久我は、この平和な世界で、自分だけが透明人間になってしまったように感じていたんだ。
「伊織の結婚祝いで村を訪れた夜、……『彼』が僕を呼んだ」
久我が足元の肉塊を踏みしめた。とくん、とそれが応える。
「本体が見せてくれたよ。正史の記憶を。『あの世界では、お前は偉大だった。もう一度やらないか』とね」
「じゃあ……操られたんですか?」
私が問うと、久我は首を振った。ゆっくりと、はっきりと。
「違うよ、真弓ちゃん。僕は、自分でその手を握り返したんだ」
一点の迷いもない笑顔。
狂気すら、彼の理屈の中では整然と筋が通っている。
「この退屈で嘘くさい平和を壊して、あの美しく残酷な悲劇を取り戻す。僕が再び偉大な『記録者』になるために」
久我の視線が、私を射抜いた。
「鍵は君だ。君の体内にある正史世界への設計図。君が覚醒すれば、世界は『あるべき姿』に戻る」
「あるべき姿って……」
唇が震える。
「みんなが死ぬ世界が、あるべき姿なんですか……!?」
「美しいだろう? あの悲劇は」
心底うっとりとした顔で、久我は言った。
言葉が、通じない。
目の前にいるのは、もう私の知っている人間じゃない。承認欲求と物語への執着に魂を食い尽くされた、怪物の抜け殻だ。
――でも。
先生が言った。「本当は優しい人」と。「怒っているだけ」と。
この狂気の奥に、まだ何か残っているのか。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。