第86話 繋がる声の表紙画像

第86話 繋がる声

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/5/30 📚 シリーズ: 終焉の探偵 📝 4,970文字 ✅ 全年齢

あらすじ

終焉の探偵 - 第86話 繋がる声

本文

その時、不意に私の胸ポケットが、温かくなった。

 ――ぶぅん。

 微かな振動。まるで、何かが起動したみたいに。

「なに……?」

 手を入れる。指先に触れたのは、伊織さんからもらったお守り袋。中に入っているはずの、書きかけの原稿用紙。

 それと――もう一つ。

 紙が一枚、混ざっている。

 取り出す。見覚えのある紙。

 探偵さんの名刺だった。

「え、これ……なんか光ってますけど?」

 探偵さんが、いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「吉川先生と約束したからね。二枚は繋がってるんだよ」

 名刺が、淡い光を放っている。

 そこに――声が、重なった。

『――樹』

 低くて、少し震えた声。

 吉川先生だ。

『樹。……お前の話は、全部聞こえていた。名刺が拾ってくれたんだよ、お前の声を』

 久我の顔が、強張った。

 能面のような冷笑が、ひび割れる。

『……直樹』

『なぜ言わなかった。退屈だったなら。居場所がないと感じていたなら。……なぜ、俺たちに相談しなかった』

 先生の声が、詰まった。

『お前は俺の友人だっただろう。……今でもそうだと、俺は思ってるんだ』

 沈黙。名刺の光が揺れている。

 もう一つ、声が割り込んだ。女性の声。鋭くて、でも泣いているようで。

『バカ。大バカ!』

 伊織さんだ。

『退屈なら新作の感想でも書いてくれればよかったのよ! あんたの批評、一番的確だったんだから……っ!』

 久我の目が、揺れた。

 怒りではない。困惑でもない。

 もっと深い場所にある、とっくに捨てたはずの感情が、かさぶたを剥がされるみたいに滲み出してくる。

 私は、胸ポケットからもう一つのもの――伊織さんのお守りを取り出した。

 書きかけの原稿用紙。「最高のハッピーエンド」のプロット。

 久我に、差し出した。

「……これ。伊織さんの新作のプロットです」

 久我の視線が、原稿用紙に落ちた。

「ハッピーエンドにしてあるって。……先輩は、こういう結末があり得ることを、まだ信じてるんです」

 久我の指が、微かに震えた。

 伸ばしかけた手。触れようとした指先。

 ――しかし。

 久我は目を閉じた。

 そして開けた時、その瞳にはもう、揺らぎはなかった。

「……もう、遅いよ」

 静かな声だった。

 怒りでも冷笑でもない、ただ諦めた声。

「俺はもう、人間には戻れない。器が壊れすぎた」

 久我が背を向けた。

 一瞬、その背中が震えた。

「ハッピーエンドのプロットか。……相変わらず、伊織は甘いな」

 その声に、諦めが滲んでいた。

 一瞬だけ、背中が震えた。届いていたのだと思った。

 ――けれど。

 久我が、ゆっくりと振り返った。

 その顔に浮かんでいたのは、諦めでも悲しみでもなかった。

 冷笑。

「……しかし」

 久我が、名刺を見下ろした。まだ淡い光を放っている名刺を。その向こうにいる、吉川先生と伊織さんの声を。

「安全地帯からお説教かい?」

 声が、変わった。

 さっきまでの揺らぎが嘘みたいに消えて、冷えた刃物みたいな声。

「全く、君たちは認識が甘いとしか言いようがないな」

 久我が、足元の肉塊を軽く踏んだ。

 とくん、と肉が応えた。

 ――その瞬間。

 名刺から、異音が聞こえた。

 ドドドドド……。

 地鳴り。でもここのじゃない。名刺の向こう側――村から聞こえている。

『――なんだ、この揺れは……!?』

 吉川先生の声。

 ビシッ。ビシビシビシッ。

『病院の壁が……! おい、何が……!』

 壁が裂ける音。床が隆起する音。

 コンクリートの下に埋まっている、にくゑの本体が動き出していた。

『樹ッ! お前、まさか……!!』

「まさか? 何を驚いているんだい、直樹」

 久我の声は穏やかだった。親しい友人と世間話をするように。

「既にこちらのにくゑが本体だ。巫女もいない君たちがそちらのにくゑを眠らせておけるとでも?」

『やめ――くぅあッ!!』

 吉川先生の悲鳴。何かに打たれた音。壁が崩れる音。

「先生ッ!!」

 私が叫んだ。

 名刺の光が激しく明滅する。ノイズが走る。

『樹っ……! あんた、自分が何やってるか分かって……ッ!』

 伊織さんの声。途切れ途切れに。背後で何か巨大なものが蠢いている音。

「分かってるよ、伊織。ずっと前から」

 久我は笑っていた。

「友情ごっこはもう終わりだ。……まぁ村ごと全滅するのも正史の通りだ。安心して逝ってくれ」

 遠くから、別の声が聞こえた。太い声。村長の声。

 何かを叫んでいる。逃げろ、と。

 ズズゥンッ!!

 巨大な破壊音。建物が潰れたような音。

 名刺の光が、ブツッと途切れた。

 ――沈黙。

 伊織さんの声も。吉川先生の声も。清一さんの声も。

 何も、聞こえなくなった。

 名刺が、ぱきん、と。

 乾いた音を立てて、二つに割れた。光が消え、ただの紙切れになって、粘液の床に落ちた。

「…………え」

 声が出なかった。

 指先が震えている。何が起きたのか、理解が追いつかない。

「……殺した、の……?」

 私の唇が、勝手に動いた。

「殺したって……吉川先生を……伊織さんを……」

 久我は答えなかった。

 もう興味がないみたいに、背を向けていた。

「これで余計な声は聞こえなくなった」

 静かに言って、肉塊の奥へと沈んでいった。

 静寂が戻る。

 割れた名刺の欠片を、震える手で拾い上げた。

 光はもうない。声ももうない。ただの紙。

 伊織さんの原稿用紙を取り出した。「最高のハッピーエンド」のプロット。

 書きかけの文字が、涙で滲んだ。

 届いていた。確かに。

 でも、久我の返事は殺害だった。

「あ……ああああああッ!!」

 叫んでいた。

 自分の声だと気づくのに数秒かかった。

 膝が折れた。粘液の床に手をついた。名刺の欠片を握りしめた手から血が出ている。紙の端で切ったのか、それすら分からない。

 吉川先生。

 私を診てくれた。私の身体の中にある正史の記憶について、一緒に悩んでくれた。

 伊織さん。

 お守りをくれた。「最高のハッピーエンド」を信じている人。

 清一さん。

 村を守ろうとしていた人。

 全部。たった一回の足踏みで。

 声が止まらない。涙が止まらない。手が止まらない。

 何を叫んでいるのか自分でも分からなかった。ただ、声を出していないと壊れそうだった。

「……っ、ぁあああああッ!!」

 梓の咆哮が、私の泣き声を貫いた。

 振り返ると、梓が壁を殴っていた。

 肉壁を。血まみれの拳で。何度も。何度も。

 殴るたびに、壁がぐちゃりと凹む。でもすぐ元に戻る。何も変わらない。

「殺す……殺す殺す殺す……ッ!」

 歯の間から漏れる声。涙が顎を伝って落ちている。

 伊織さんは、梓にとっても先輩だった。吉川先生も。清一さんも。

 村の仲間だった。

 探偵さんだけが、動かなかった。

 目を伏せて。拳を握りしめて。

◇

「……よくもッ!」

 かすれた声が、静寂を破った。

 梓が、壁に手をつきながら一歩前に出る。膝が震えている。さっきの戦闘で力を使い果たしている。

 それでも、右手に光が凝ろうとしている。弱い。緋色じゃなくて、薄い桃色。弓の形にすらならない光の欠片。

「清音はどこ。返して」

 短い台詞。でもそこに込められた感情の量に、空気が歪んだ。

「ああ、彼女ならそこにいるよ」

 久我が親指で背後を指した。

 笑っている。見せたくてたまらない、という笑い方。

「来てごらん。……僕の最高傑作を」

 肉塊の裏側に回り込んだ時、梓の足が止まった。

 私の足も。

 ――繭。

 黒い影でできた、巨大な繭。

 高さは二メートル以上。太い血管が無数に繋がっていて、心臓部と直結している。肉塊の根元に、子宮みたいに埋め込まれていた。

 半透明の膜を通して、中に人の形が透けて見える。

 白い巫女装束。長い黒髪。

 清音さんだった。

 でも。

 おかしい。

 清音さんのお腹が、大きく膨らんでいた。

 とくん。とくん。

 膨らんだ腹部が、規則的に脈打っている。

 その瞬間、繭が収縮した。

 ぐちゅり。

 繭の底から、赤黒い塊が押し出された。

 粘液にまみれた、拳大の肉の塊。それが床に落ちて、ぐにゃりと蠢き、小さな人の形を取り始める。

 にくゑの分体。

 私たちが村で見た、あの肉人形。街に溶け込んで、人を喰って、増殖していたあれ。

 全部、ここから生まれていた。

 清音さんの身体から。

「……っ……!」

 梓の顔から、色が消えた。

 繭はまた収縮する。とくん。ぐちゅり。また一つ、肉の塊が押し出される。

 間隔は三十秒。機械的に、正確に、休みなく。

 清音さんの身体が道具として使われている。にくゑを産み出すための、生きた工場として。

「清音さんの巫女としての霊力が、にくゑの分体に『魂』を与えているんだ」

 探偵さんが、低い声で言った。

「普通の女性から産まれた分体は、ただの肉塊でしかない。でも巫女の霊力を通せば、意思を持ち、人に化け、自律的に行動できる……完全な分体になる」

「だから清音を……」

「ああ。彼女が選ばれた理由は、そこにある」

 久我が、満足そうに頷いた。

「彼女は最高の母胎だよ。一日に百体以上の分体を産んでくれる。おかげで世界中ににくゑを配置できた」

 母胎。

 その言葉を聞いた瞬間、梓の身体から何かが溢れた。

 力じゃない。光でもない。

 純粋な、殺意。

「……殺す」

 梓の目が変わった。

 涙が流れている。でも、目は笑っていない。死んでいる。

「お前を殺す。六道の果てまで追いかけて、魂ごと殺す」

 声に感情がなかった。本気すぎて、感情がこぼれ落ちていた。

 久我が、少しだけ目を細めた。おもしろそうに。

「やれるものなら」

 梓が駆けた。

 膝が笑っている。足が縺れている。力なんかとっくに残っていない。

 それでも駆けた。清音のところへ。

 久我が指を鳴らした。パチン。

 肉壁が裂けて、肉人形が這い出してくる。無数に。壁になって梓の前に立ちはだかる。

 梓の拳が、肉人形を殴った。

 弓も矢もない。素手で。

 拳が肉に沈む。何も起きない。人間の拳では、にくゑは殺せない。

 それでも殴った。何度も。何度も。

 拳の皮が破れて、血が飛んだ。

「梓ッ!」

 私が駆け寄って、後ろから抱きしめた。

「やめて……! 手が、手が……!」

「離せッ!」

 梓が暴れる。でも力がない。暴れれば暴れるほど、体が崩れていく。

「離せよ……清音が……清音があんな目にっ……!」

 声が、壊れた。

 梓が、私の腕の中で崩れ落ちた。

「うぁ……あああ……っ」

 泣いていた。

 武器も力も失って、それでも清音を助けたくて、でもどうしようもなくて。

 あの誇り高い梓が、地面に膝をついて、声を殺さずに泣いていた。

 繭が収縮する。とくん。ぐちゅり。

 また一つ、分体が産まれた。

 梓が泣いている間も、清音さんの身体は休まない。

 久我が、静かに見下ろしている。

「可哀想に。……でも、分かるだろう? 僕が清音さんを手放す理由がないことくらい」

 私は梓を抱きしめたまま、久我を見上げた。

 先生は灰になった。

 サヤカの首にはケーブルが根を張っている。

 清音さんはにくゑの母胎にされている。

 全部、この人がやったことだ。

 先生が「優しい人」と言った、この人が。

 怒りと、悲しみと、約束が、胸の中で渦を巻いている。

 探偵さんが、私たちの前に立った。

「……ライター君。僕からも一つ」

「何だい」

「君がやったことはもう、取り返しがつかないところまで来ている」

 探偵さんの声は静かだった。でも、その奥に何かが軋んでいる。

「柳田先生は、もう戻らない。でも――まだ間に合うものもある」

 探偵さんが、清音さんの繭を見た。

「この子は、まだ助けられる」

 久我の顔から、笑みが消えた。

「……助ける? 彼女を引き抜いたら、にくゑの分体は全部止まる。世界中の計画が頓挫する。……僕がそれを許すと思うのかい?」

「思わないよ。だから――」

 探偵さんが、袖を捲った。

 腕に巻きついた、あの銀の鎖が微かに光った。

「力ずくだ」

 久我の目が、初めて真剣になった。

 空気が、張り詰める。

 肉塊の脈動が速くなる。

 壁の肉人形たちが、一斉にこちらを向いた。

「……いいだろう」

 久我が、立ち上がった。

 足元の肉塊に触手が沈み込み、空間全体が久我の意思に応えるように震える。

「来るなら来いよ、探偵くん。――僕の物語を、書き換えられるものならね」

 私は梓を支えながら立ち上がった。

 袖についた黒い灰に触れる。先生の灰。

(……先生。全部見ました。あなたが愛した人が、こんなことをしていました)

 怒っている。めちゃくちゃに怒っている。

 でも、約束がある。

(怒って、それでも、助ける)

 梓が、血まみれの拳で涙を拭いた。

 震える足で、立ち上がった。

「……やるわよ」

 かすれた声。でも、目は死んでない。さっきの殺意の奥に、もう一度火が灯っている。

「清音を、取り戻す」

 探偵さんが、苦く呟いた。

「――ああ、せめて彼女だけでも、ね」

 まるで自分に言い聞かせるように。

ジャンル・タグ

, , , , , , ,

作品統計

👁️ 閲覧数: 2 👍 いいね: 0 📚 本棚登録: 0

作者について

カクナ・ノゾム

カクナ・ノゾム

カクナノゾムと申します。 趣味の小説を細々と書いてます。 面白いことは間違いないので是非是非ご一読くださいませ。

👥 フォロワー: 2人

作者ページを見る