第86話 繋がる声
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あらすじ
終焉の探偵 - 第86話 繋がる声
本文
その時、不意に私の胸ポケットが、温かくなった。
――ぶぅん。
微かな振動。まるで、何かが起動したみたいに。
「なに……?」
手を入れる。指先に触れたのは、伊織さんからもらったお守り袋。中に入っているはずの、書きかけの原稿用紙。
それと――もう一つ。
紙が一枚、混ざっている。
取り出す。見覚えのある紙。
探偵さんの名刺だった。
「え、これ……なんか光ってますけど?」
探偵さんが、いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「吉川先生と約束したからね。二枚は繋がってるんだよ」
名刺が、淡い光を放っている。
そこに――声が、重なった。
『――樹』
低くて、少し震えた声。
吉川先生だ。
『樹。……お前の話は、全部聞こえていた。名刺が拾ってくれたんだよ、お前の声を』
久我の顔が、強張った。
能面のような冷笑が、ひび割れる。
『……直樹』
『なぜ言わなかった。退屈だったなら。居場所がないと感じていたなら。……なぜ、俺たちに相談しなかった』
先生の声が、詰まった。
『お前は俺の友人だっただろう。……今でもそうだと、俺は思ってるんだ』
沈黙。名刺の光が揺れている。
もう一つ、声が割り込んだ。女性の声。鋭くて、でも泣いているようで。
『バカ。大バカ!』
伊織さんだ。
『退屈なら新作の感想でも書いてくれればよかったのよ! あんたの批評、一番的確だったんだから……っ!』
久我の目が、揺れた。
怒りではない。困惑でもない。
もっと深い場所にある、とっくに捨てたはずの感情が、かさぶたを剥がされるみたいに滲み出してくる。
私は、胸ポケットからもう一つのもの――伊織さんのお守りを取り出した。
書きかけの原稿用紙。「最高のハッピーエンド」のプロット。
久我に、差し出した。
「……これ。伊織さんの新作のプロットです」
久我の視線が、原稿用紙に落ちた。
「ハッピーエンドにしてあるって。……先輩は、こういう結末があり得ることを、まだ信じてるんです」
久我の指が、微かに震えた。
伸ばしかけた手。触れようとした指先。
――しかし。
久我は目を閉じた。
そして開けた時、その瞳にはもう、揺らぎはなかった。
「……もう、遅いよ」
静かな声だった。
怒りでも冷笑でもない、ただ諦めた声。
「俺はもう、人間には戻れない。器が壊れすぎた」
久我が背を向けた。
一瞬、その背中が震えた。
「ハッピーエンドのプロットか。……相変わらず、伊織は甘いな」
その声に、諦めが滲んでいた。
一瞬だけ、背中が震えた。届いていたのだと思った。
――けれど。
久我が、ゆっくりと振り返った。
その顔に浮かんでいたのは、諦めでも悲しみでもなかった。
冷笑。
「……しかし」
久我が、名刺を見下ろした。まだ淡い光を放っている名刺を。その向こうにいる、吉川先生と伊織さんの声を。
「安全地帯からお説教かい?」
声が、変わった。
さっきまでの揺らぎが嘘みたいに消えて、冷えた刃物みたいな声。
「全く、君たちは認識が甘いとしか言いようがないな」
久我が、足元の肉塊を軽く踏んだ。
とくん、と肉が応えた。
――その瞬間。
名刺から、異音が聞こえた。
ドドドドド……。
地鳴り。でもここのじゃない。名刺の向こう側――村から聞こえている。
『――なんだ、この揺れは……!?』
吉川先生の声。
ビシッ。ビシビシビシッ。
『病院の壁が……! おい、何が……!』
壁が裂ける音。床が隆起する音。
コンクリートの下に埋まっている、にくゑの本体が動き出していた。
『樹ッ! お前、まさか……!!』
「まさか? 何を驚いているんだい、直樹」
久我の声は穏やかだった。親しい友人と世間話をするように。
「既にこちらのにくゑが本体だ。巫女もいない君たちがそちらのにくゑを眠らせておけるとでも?」
『やめ――くぅあッ!!』
吉川先生の悲鳴。何かに打たれた音。壁が崩れる音。
「先生ッ!!」
私が叫んだ。
名刺の光が激しく明滅する。ノイズが走る。
『樹っ……! あんた、自分が何やってるか分かって……ッ!』
伊織さんの声。途切れ途切れに。背後で何か巨大なものが蠢いている音。
「分かってるよ、伊織。ずっと前から」
久我は笑っていた。
「友情ごっこはもう終わりだ。……まぁ村ごと全滅するのも正史の通りだ。安心して逝ってくれ」
遠くから、別の声が聞こえた。太い声。村長の声。
何かを叫んでいる。逃げろ、と。
ズズゥンッ!!
巨大な破壊音。建物が潰れたような音。
名刺の光が、ブツッと途切れた。
――沈黙。
伊織さんの声も。吉川先生の声も。清一さんの声も。
何も、聞こえなくなった。
名刺が、ぱきん、と。
乾いた音を立てて、二つに割れた。光が消え、ただの紙切れになって、粘液の床に落ちた。
「…………え」
声が出なかった。
指先が震えている。何が起きたのか、理解が追いつかない。
「……殺した、の……?」
私の唇が、勝手に動いた。
「殺したって……吉川先生を……伊織さんを……」
久我は答えなかった。
もう興味がないみたいに、背を向けていた。
「これで余計な声は聞こえなくなった」
静かに言って、肉塊の奥へと沈んでいった。
静寂が戻る。
割れた名刺の欠片を、震える手で拾い上げた。
光はもうない。声ももうない。ただの紙。
伊織さんの原稿用紙を取り出した。「最高のハッピーエンド」のプロット。
書きかけの文字が、涙で滲んだ。
届いていた。確かに。
でも、久我の返事は殺害だった。
「あ……ああああああッ!!」
叫んでいた。
自分の声だと気づくのに数秒かかった。
膝が折れた。粘液の床に手をついた。名刺の欠片を握りしめた手から血が出ている。紙の端で切ったのか、それすら分からない。
吉川先生。
私を診てくれた。私の身体の中にある正史の記憶について、一緒に悩んでくれた。
伊織さん。
お守りをくれた。「最高のハッピーエンド」を信じている人。
清一さん。
村を守ろうとしていた人。
全部。たった一回の足踏みで。
声が止まらない。涙が止まらない。手が止まらない。
何を叫んでいるのか自分でも分からなかった。ただ、声を出していないと壊れそうだった。
「……っ、ぁあああああッ!!」
梓の咆哮が、私の泣き声を貫いた。
振り返ると、梓が壁を殴っていた。
肉壁を。血まみれの拳で。何度も。何度も。
殴るたびに、壁がぐちゃりと凹む。でもすぐ元に戻る。何も変わらない。
「殺す……殺す殺す殺す……ッ!」
歯の間から漏れる声。涙が顎を伝って落ちている。
伊織さんは、梓にとっても先輩だった。吉川先生も。清一さんも。
村の仲間だった。
探偵さんだけが、動かなかった。
目を伏せて。拳を握りしめて。
◇
「……よくもッ!」
かすれた声が、静寂を破った。
梓が、壁に手をつきながら一歩前に出る。膝が震えている。さっきの戦闘で力を使い果たしている。
それでも、右手に光が凝ろうとしている。弱い。緋色じゃなくて、薄い桃色。弓の形にすらならない光の欠片。
「清音はどこ。返して」
短い台詞。でもそこに込められた感情の量に、空気が歪んだ。
「ああ、彼女ならそこにいるよ」
久我が親指で背後を指した。
笑っている。見せたくてたまらない、という笑い方。
「来てごらん。……僕の最高傑作を」
肉塊の裏側に回り込んだ時、梓の足が止まった。
私の足も。
――繭。
黒い影でできた、巨大な繭。
高さは二メートル以上。太い血管が無数に繋がっていて、心臓部と直結している。肉塊の根元に、子宮みたいに埋め込まれていた。
半透明の膜を通して、中に人の形が透けて見える。
白い巫女装束。長い黒髪。
清音さんだった。
でも。
おかしい。
清音さんのお腹が、大きく膨らんでいた。
とくん。とくん。
膨らんだ腹部が、規則的に脈打っている。
その瞬間、繭が収縮した。
ぐちゅり。
繭の底から、赤黒い塊が押し出された。
粘液にまみれた、拳大の肉の塊。それが床に落ちて、ぐにゃりと蠢き、小さな人の形を取り始める。
にくゑの分体。
私たちが村で見た、あの肉人形。街に溶け込んで、人を喰って、増殖していたあれ。
全部、ここから生まれていた。
清音さんの身体から。
「……っ……!」
梓の顔から、色が消えた。
繭はまた収縮する。とくん。ぐちゅり。また一つ、肉の塊が押し出される。
間隔は三十秒。機械的に、正確に、休みなく。
清音さんの身体が道具として使われている。にくゑを産み出すための、生きた工場として。
「清音さんの巫女としての霊力が、にくゑの分体に『魂』を与えているんだ」
探偵さんが、低い声で言った。
「普通の女性から産まれた分体は、ただの肉塊でしかない。でも巫女の霊力を通せば、意思を持ち、人に化け、自律的に行動できる……完全な分体になる」
「だから清音を……」
「ああ。彼女が選ばれた理由は、そこにある」
久我が、満足そうに頷いた。
「彼女は最高の母胎だよ。一日に百体以上の分体を産んでくれる。おかげで世界中ににくゑを配置できた」
母胎。
その言葉を聞いた瞬間、梓の身体から何かが溢れた。
力じゃない。光でもない。
純粋な、殺意。
「……殺す」
梓の目が変わった。
涙が流れている。でも、目は笑っていない。死んでいる。
「お前を殺す。六道の果てまで追いかけて、魂ごと殺す」
声に感情がなかった。本気すぎて、感情がこぼれ落ちていた。
久我が、少しだけ目を細めた。おもしろそうに。
「やれるものなら」
梓が駆けた。
膝が笑っている。足が縺れている。力なんかとっくに残っていない。
それでも駆けた。清音のところへ。
久我が指を鳴らした。パチン。
肉壁が裂けて、肉人形が這い出してくる。無数に。壁になって梓の前に立ちはだかる。
梓の拳が、肉人形を殴った。
弓も矢もない。素手で。
拳が肉に沈む。何も起きない。人間の拳では、にくゑは殺せない。
それでも殴った。何度も。何度も。
拳の皮が破れて、血が飛んだ。
「梓ッ!」
私が駆け寄って、後ろから抱きしめた。
「やめて……! 手が、手が……!」
「離せッ!」
梓が暴れる。でも力がない。暴れれば暴れるほど、体が崩れていく。
「離せよ……清音が……清音があんな目にっ……!」
声が、壊れた。
梓が、私の腕の中で崩れ落ちた。
「うぁ……あああ……っ」
泣いていた。
武器も力も失って、それでも清音を助けたくて、でもどうしようもなくて。
あの誇り高い梓が、地面に膝をついて、声を殺さずに泣いていた。
繭が収縮する。とくん。ぐちゅり。
また一つ、分体が産まれた。
梓が泣いている間も、清音さんの身体は休まない。
久我が、静かに見下ろしている。
「可哀想に。……でも、分かるだろう? 僕が清音さんを手放す理由がないことくらい」
私は梓を抱きしめたまま、久我を見上げた。
先生は灰になった。
サヤカの首にはケーブルが根を張っている。
清音さんはにくゑの母胎にされている。
全部、この人がやったことだ。
先生が「優しい人」と言った、この人が。
怒りと、悲しみと、約束が、胸の中で渦を巻いている。
探偵さんが、私たちの前に立った。
「……ライター君。僕からも一つ」
「何だい」
「君がやったことはもう、取り返しがつかないところまで来ている」
探偵さんの声は静かだった。でも、その奥に何かが軋んでいる。
「柳田先生は、もう戻らない。でも――まだ間に合うものもある」
探偵さんが、清音さんの繭を見た。
「この子は、まだ助けられる」
久我の顔から、笑みが消えた。
「……助ける? 彼女を引き抜いたら、にくゑの分体は全部止まる。世界中の計画が頓挫する。……僕がそれを許すと思うのかい?」
「思わないよ。だから――」
探偵さんが、袖を捲った。
腕に巻きついた、あの銀の鎖が微かに光った。
「力ずくだ」
久我の目が、初めて真剣になった。
空気が、張り詰める。
肉塊の脈動が速くなる。
壁の肉人形たちが、一斉にこちらを向いた。
「……いいだろう」
久我が、立ち上がった。
足元の肉塊に触手が沈み込み、空間全体が久我の意思に応えるように震える。
「来るなら来いよ、探偵くん。――僕の物語を、書き換えられるものならね」
私は梓を支えながら立ち上がった。
袖についた黒い灰に触れる。先生の灰。
(……先生。全部見ました。あなたが愛した人が、こんなことをしていました)
怒っている。めちゃくちゃに怒っている。
でも、約束がある。
(怒って、それでも、助ける)
梓が、血まみれの拳で涙を拭いた。
震える足で、立ち上がった。
「……やるわよ」
かすれた声。でも、目は死んでない。さっきの殺意の奥に、もう一度火が灯っている。
「清音を、取り戻す」
探偵さんが、苦く呟いた。
「――ああ、せめて彼女だけでも、ね」
まるで自分に言い聞かせるように。
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