第88話 銀鎖の剣
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あらすじ
終焉の探偵 - 第88話 銀鎖の剣
本文
赤い膜の向こうで、光が閃いた。
私の意識はもう半分沈んでいた。肉に覆われた視界の隙間から、断片的に見えている。感じている。
探偵さんが、駆けた。
銀鎖の剣が唸りを上げて弧を描く。肉壁から噴き出した触手の群れを、一閃で焼き払った。
剣が触れた因果そのものが切り裂かれて、最初からなかったかのように消えていく。
光を纏とい。黒いコートをたなびかせ、探偵さんは久我に詰め寄る。
「久我樹」
探偵さんの声が、空間に響いた。低くて深い、超越者の声。
「出てこい。お前の物語を終わらせに来た」
肉塊の中心から、声が返ってきた。
もう人間の口から出ている声じゃない。空間全体が振動して生み出す、地鳴りみたいな声。
『……終わらせる? 僕を?』
笑い声。壁が震えた。
『来いよ、探偵さん。――この空間全体が僕だ。僕の肉だ。僕の物語だ』
天井から肉柱が落ちてきた。
探偵さんが横に跳ぶ。刃を振るう。肉柱が因果ごと消滅する。
でも、消えた場所からすぐに新しい肉が生えてくる。
床が隆起する。壁が迫る。天井が下がる。
空間そのものが久我の意志で収縮していく。探偵さんを、万力みたいに潰そうとしている。
探偵さんが鎖を振るう。空間を切り開く。潰される度に切り開く。
でも、息が荒い。光が、少しずつ弱くなっている。
(……探偵さん……)
私の意識が沈む中で、それだけは見えていた。
探偵さんは、消耗している。
◇
封印を解いた代償なのだろうか?
その封印を解いた今、力は解放されている。でも同時に、その力に身体が耐えられなくなっていく。
鞭を振るう度に、光が揺らぐ。
足元に血が滴っている。光の衣の下で、身体が壊れ始めている。
それでも、探偵さんは止まらなかった。
一歩。また一歩。
肉壁を切り裂いて。触手を焼いて。迫りくる牙を叩き折って。
「そこにいるんだろう? もう逃げることも隠れることもできない」
探偵さんの言葉に、ぞわりと壁が動き出し、数多の肉人形と、それに守られた何かが姿を現した。
赤黒い筋肉の塊。
太い血管が四方八方に伸びている。中心に、人の形が透けて見える。
久我だ。肉と融合して、もう人の形を半分失っている。
あれは――にくゑの心臓?
『無駄だ!』
久我の声が空間を揺らした。
『いくら切ったって、こちらには清音の霊力で生み出した分体がまだ何千と眠っている! 一人で僕を倒せるわけがない!』
「お前ならわかるだろう?」
探偵さんが、静かに言った。
鞭を構え直す。血が手首を伝う。
「千や万の木偶人形が何の役にたつ?」
一歩。
「これだけの人を犠牲にして。これだけの命を使い潰して。……それで手に入れたものは何だ、久我樹」
沈黙。肉塊の脈動が、一瞬だけ乱れた。
探偵さんが、にくゑの心臓の前に立った。
「……何も手に入らなかった。そうだろう、終焉存在よ」
『黙れ』
心臓から触手が噴き出した。十本。二十本。全方位から。
探偵さんが、腕を振り上げた。
先端が白熱して伸びた。剣の光が鞭のように伸び、宙に十字の軌跡を刻む。
触手が全て切り飛ばされる。因果が断たれる。再生する間もない。
そして、光はそのまま――蛇のようにうねりながら、久我に向かって突き進んでゆく。
幾つもの肉の触手がそれを阻もうとするが、その軌跡にあるものは全て蒸発していった。
ヒュン――と。
白銀の光が、肉塊を貫いた。
久我の胸を巻き取り、背後の肉塊の血管を絡め取り、締め上げる。
『――ぐ、あ……ッ!』
久我の声が、初めて苦痛に歪んだ。
空間の声じゃない。人間の、喉から出た声。
「この物語を終らせよう」
探偵さんが、光の帯となった剣をを引いた。全体重をかけて。
「お前とにくゑの、接続を――断つっ!」
ぶちぶちぶちっ。
肉が千切れていく。光の縛めが久我の身体に食い込んで、肉塊との接続を一本ずつ引き裂いていく。
清音さんの時と同じだ。ケーブルが抜ける。管が外れる。融合が解除されていく。
ぶちんっ!
最後の血管が千切れて、久我の身体が肉塊から引き剥がされた。
ドサリ。
乾いた音。
にくゑから切り離された久我が、糸の切れた人形みたいに床に崩れ落ちた。
鎖が、だらりと垂れ下がった。光が消えかけている。
◇
影達は消えていた。
そこに横たわっているのは、ただの男だった。
痩せて、ひび割れて、指先から少しずつ灰になり始めている。
柳田先生と同じだ。清音さんと同じだ。
にくゑを外したら、身体が持たない。
「……やられた、な」
久我が、笑った。
自嘲。でも、その笑い方は不思議と穏やかだった。
探偵さんは静かに見下ろしていた。
剣を下ろして。
光が弱まって剣が消えてゆく。
勝者の驕りも、怒りもない。凪いだ水面みたいに静かな瞳。
「……久我樹」
「……名探偵さん。一つだけ、聞いてくれよ」
久我が、震える手を伸ばした。天井を掴もうとするみたいに。
「俺は、本当は……はるかのことが……好きだったよ」
息が止まった。
柳田先生。久我に利用されて、怪物に変えられて、灰になった先生。
「伊織への未練じゃなかったんだ。あいつが直樹と幸せにやってるのは、嬉しかったよ。本当に」
声が掠れる。灰になっていく喉で、最後の言葉を絞り出している。
「でも……俺には、何もなかった。救われたこの世界で、俺だけが要らない人間だった。誰の物語にも……俺は、書かれなかったんだ」
指先が灰になって崩れていく。
「……はるかだけが、俺を見てくれてた。俺の怪談を最初に褒めてくれたのも、あの人だった」
久我の目に、涙が光った。
「なのに……俺がやったことは」
声が震えた。
「あの人を、一番ひどい目にあわせることだった」
灰が、膝まで登ってきている。
「……真弓ちゃん」
赤い膜越しに、久我の目が私を見た。
能面じゃない。冷笑じゃない。壊れそうに歪んだ、人間の目。
「ごめんな」
――けれど。
次の瞬間、その目に影が差した。
久我の唇が、微かに笑った。
穏やかな笑みじゃない。最後に残った、あの冷たい光。
「でもね、名探偵」
「……何だ」
「遅いよ」
探偵さんの目が、見開かれた。
「にくゑのネットワークはもう完成してるんだ。真弓ちゃんが取り込まれた時点で、正史への書き換えは始まっている」
久我の身体が、胸から崩れ始めた。灰が風に乗って散っていく。
「僕が消えても、もう止まらない」
最後の視線が、私を射抜いた。
「……正しい歴史が、帰ってくるのさ」
その言葉を最後に。
久我樹の身体は、黒い灰になって崩れ落ちた。
風もない地下空間で、灰がゆっくりと散っていく。
柳田先生の灰と、同じ色だった。
後には何も残らなかった。
彼が生きた痕跡すら。
◇
久我が消えた。
終わった。
そう思った瞬間。
ズズズズズ……ッ!!
地鳴り。
背後の巨大な肉塊が、狂ったように脈打ち始めた。
ドクン!! ドクン!! ドクン!!
制御者を失ったにくゑの心臓。でも止まらない。
「――歴史の修正力が、運命が動き出してしまったのか!?」
探偵さんが焦ったような声をあげた。今までにないくらい。
制御者を失ったにくゑの心臓。でも止まらない。
そして、回路の中心にいるのは――私だ。
身体が裂けるように熱い。
肉が全身を覆い尽くしていく。赤い膜が視界を奪っていく。
背中から伸びたケーブルが、にくゑの心臓と直結して、正史の記憶が津波みたいに流れ込んでくる。
ううん、違う。
私から流れ出している。
私の見た悪夢が、現実になろうとしている。
『そう、歪みであるお前を取り込み、歴史は正しく修正される』
どこからか声がする。
私の――私のせいで、あの世界が変わってしまう。
私がいるばかりに――。
燃える村。崩れる世界。溶けていく人々。
本来あるべき歴史が、私を通して現実を上書きしようとしている。
肉の殻が、私を完全に包み込もうとしていた。
「真弓!」
探偵さんの声。
遠い。でも聞こえた。
赤い膜が閉じていく。最後の隙間から、探偵さんの姿が見えた。
光が弱まっている。身体中から血を流している。片膝をついている。
手の中の鎖は光を失いかけて、ただの銀色の金属に戻りつつある。
それでも立ち上がって、こちらに手を伸ばしている。
「……待っていろ。いま行く」
その声は、震えていた。
でも、目は震えていなかった。
探偵さんが立ち上がった。
崩れかけた身体を、最後の光で繋ぎ止めて。
消えかけた鎖を振り絞って、閉ざされようとする肉の殻に叩きつけた。
光と闇が衝突する。
肉が裂ける。鎖が食い込む。殻の隙間が開く。
探偵さんの手が、肉の隙間から差し伸べられた。
「掴まれ、真弓!」
でも、私の手はもう動かなかった。
肉に塞がれている。指一本動かせない。
赤い膜が、完全に視界を覆った。
最後に聞こえたのは、探偵さんの叫びだった。
「――真弓ッ!!」
そして、私は正史という名の悪夢の中へ、落ちていった。
赤い膜の向こうで、光が閃いた。
私の意識はもう半分沈んでいた。肉に覆われた視界の隙間から、断片的に見えている。感じている。
探偵さんが、走ってくるのが見える。
でも、もう、意識が。
――そして世界が書き換わり始めた。
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