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第89話 終焉世界

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/6/2 📚 シリーズ: 終焉の探偵 📝 6,396文字 ✅ 全年齢

あらすじ

終焉の探偵 - 第89話 終焉世界

本文

――息を吸った瞬間、甘い匂いが鼻を刺した。

 ここは池袋のはずだった。

 いつもの駅前の雑踏、いつものビルの看板、いつもの人の流れ――

 その全部が、溶けていた。

 ビルの外壁は赤黒い粘膜みたいに脈打ち、東口のロータリーを覆うアスファルトが、胎内の水面のようにふるふると震えている。

 甘い匂いに包まれた地面から立ち上る湯気の奥で、道行く人がゆっくりと形を失っていく。

「……え……?」

 誰かの腕が溶けた。

 誰かの足が、音もなく液体になって崩れた。

 笑顔のまま溶けていく人もいる。

 泣きながら溶ける人もいる。

 でも最後は皆、柔らかな肉の塊となって、地面に吸い込まれていった。

「お母さん……? お母さんどこ……?」

 震える声でスマホを耳に当てる。

 コール音は鳴らない。画面がどろりと歪む。

 アプリのアイコンが、知らない"眼"の形に染まっていく。

「サヤカ? 聞こえる? ねぇ返事してよ!」

 LINEの履歴をタップする。

 そこに写る友人たちの顔が、ゆっくりと"笑ったまま溶けて"いった。

 画像も動画も、すべて赤黒い水に飲まれ、見たこともない音が鳴る。

 ごぼ、ごぼ、ごぼ……

 街全体から響いてくる胎内の水音。

 地面も、建物も、空気すらも、ひとつの巨大な生物になったみたいだった。

「いや……いやだ……!」

 走った。

 でも走るほど、足が地面に沈んでいく。

 柔らかい。脈打っている。

 池袋の街そのものが、何か巨大な生物の胎内になっていた。

 次の瞬間――景色が歪んだ。

 池袋がひとつの膜のように破れ、別の都市が重なり、さらに別の街が重なっていく。

 渋谷、名古屋、上海、ニューヨーク、知らない海辺の街、知らない村。

 世界中の境界が溶け、すべてがひとつに繋がる。

 これはこの街の終わりじゃなかった。

 ――これは、世界の終焉そのものだった。

 そのときだった。 どこからともなく――黒衣を纏った影が現れた。

 その周りから、火が――原初の火が生まれる。

 ぼうっ。

 最初は小さな炎だった。

 赤黒い海の表面に、蝋燭のような青白い炎が灯る。

 それがひとつ、ふたつ、みっつ――

 気づけば、世界中が燃え盛る炎に包まれていた。

 渋谷のスクランブル交差点は劫火に包まれている。

 ニューヨークの高層ビルは紅蓮の炎を上げて天を焦がす。

 名古屋の街路樹は、炎の柱になって立ち上がる。

 けれど――誰も逃げなかった。

 溶けかけた人々は、まるで祝福を受けるように、火炎の中に歩いていく。

 母親が子供の手を引いて、烈火に飲まれる。

 恋人同士が抱き合ったまま、紅蓮の渦に溶けていく。

 老人がひとり、杖をついたまま、静かに燃え尽きていく。

 ――それは奇妙な残虐劇グランギニョール。

 泣いている人はいない。 叫んでいる人もいない。

 ただ、みんな――笑っていた。

 まるで「ようやく帰れる」とでも言いたげに。 まるで「これが正しい」とでも言いたげに。

 炎は優しかった。 痛みはなかった。 熱さもなかった。

 ただ、平等に――すべてを灰にしていった。

 池袋のサンシャインビルが轟音を立てて崩れ落ちる。

 その瓦礫が空中で燃え尽き、灰になって舞い上がる。

 東京タワーが、スカイツリーが、皇居が、国会議事堂が、次々と炎の塊に包まれ、赤く輝きながら崩壊していく。

 世界が――劫火に焼かれている。

 でもその炎の中で、誰ひとりとして苦しんでいない。

 みんな、安らかに消えていく。

 それがあまりにも美しくて、それがあまりにも恐ろしくて、私は声も出なかった。

 炎は、ついに私の足元にまで迫ってきた。

 紅蓮の炎が、私の靴を舐める。

 熱くない。 痛くない。

 ああ――これが、終焉なんだ。

 諦めかけたそのとき。

 炎の中心に――彼方にあった黒い影がふわりと目の前に舞い降りた。

 黒いロングコートをはためかせ、静かに劫火の海の中に立つ。

 その姿はまるで歌劇オペラの舞台に立つ俳優のよう。

 燃えさかる炎が万雷の拍手の如くに鳴り響く。

 影に照らされてその表情は見えない、ただ、全身が業火に照らされて赤く光っている。

 男は炎の中を歩いてくる。

 コートの襟元からは、銀色の鎖が、炎の熱にも溶けず、冷たい輝きを放っているのが微かに見えた。

 そして、炎が男の顔を照らし出した。その鋭く開いた黒い瞳は、周囲の紅蓮の炎を映すのではなく、まるで遥か遠い何処かの氷の結晶を映しているかのように透徹していた。

 燃えない。

 溶けない。

 炎が男を避けるように、道を作る。

 男はこちらを見て、ゆっくりと口を開いた。

 けれど――音は、存在しなかった。

 まるでその男だけが、この世界から切り離されているように。

 炎の轟音も、崩れ落ちる建物の音も、人々の最期の吐息も、

 すべてが響き渡っているのに、

 男の声だけが、どこにも届かない。

 唇が言葉を形づくっている。

 確かに何かを言った。

 でもその音だけは、炎にも、溶けた世界にも、どこにも響かない。

 私は手を伸ばした。

「た……す……け……」

 声が震えた。

 炎が私の手を舐める。

 もう、足が溶け始めている。

「助けて……!」

 男に届かないまま、泣き叫ぶ声だけが紅蓮の空に吸い込まれていった。

 炎がすべてを包む。

 世界が、人が、街が、記憶が、

 すべて平等に――灰になっていく。

 最期に見たのは、男の黒いコートの裾が、炎の中で揺れる姿だった。

 黒衣の男が口を開き、何かを語ろうとする。

 だが炎は既にわたしの全身に纏わり付いていた。

 熱い、熱い、でも痛くない! それが怖い! ああ、もう――。

 熱によって筋肉が勝手に動き、わたしの身体は拗くれてゆく。

「あ、ああああああーーーーッ!」

 不意に耳に入ってくる叫び声。

 その叫びが、自分の声だと気づいた瞬間――

 猛烈な光が視界を埋め尽くした。

 耳に残っていた言葉。

 溶けて燃え上がる世界の中で見た男の口。

 その口は、確かにこう動いていた。

「――違う」

 声がした。

 脳裏に響く、力強い声。

「それはまだ、現実にはなっていない」

 パリン、と。

 悪夢の景色に亀裂が走った。

 炎の海が割れる。溶けた街が砕ける。

 その向こうから――人影が、近づいてきた。

 黒いコートが風になびいている、柔らかな笑みを浮かべたいつもの探偵さんだ。

「……探偵、さん……」

「真弓くん」

 優しくて、懐かしい声。

 さっきまでの「私」の声じゃない。「僕」の声。

 私は後ずさった。

 この人に触れてはいけない気がした。

「来ちゃだめ……!」

「もう、力もないんですよね?……! このままじゃ、探偵さんが消えちゃう! そうだ、私が居なくなれば全部終わるんでしょ……!?」

「殺して……! お願い、わたしを殺して!」

 そうすれば世界は直る。探偵さんもこれ以上傷つかなくて済む。

 けれど。

 あの人は――探偵さんは、ゆっくりと私の前にしゃがみ込んだ。

 あの公園の段ボールハウスの前で、パッキーを差し出してくれた時と同じ姿勢。目線を合わせて、微笑む。

「殺さないよ」

「でも……わたしが生きてることが、間違いなんでしょ……? わたしがいるから、みんな不幸になるんでしょ……?」

「間違いなんかじゃない」

 探偵さんが、静かに首を振った。

 そっと手をかざす。

「見てごらん。君が生きているこの世界が、どうやって生まれたのかを」

 景色が変わった。

 赤黒い地獄が薄れて、セピア色の映像が浮かび上がる。

 かつての東京の病院。

 少しだけ若い吉川先生が苦悩している。上層部の判断は絶対だと言われ、カルテの改竄を迫られている。

 正史では、ここで彼は屈し、私は死んだ。

 けれど――映像の中の彼は、顔を上げた。

 震える手で電話を握りしめ、ある番号を押す。

『……もしもし、伊織か?』

 彼が選んだのは、小説家の伊織さんだった。

 たった一つの選択。

 たった一つの勇気。

「見えるかい? この世界を作ったのは、一人の医者の、一つの選択だ」

 映像が次々と切り替わる。

 伊織さんがペンで戦う姿。村長さんが先生を受け入れる姿。梓さんが清音さんと手を取り合う姿。あゆみちゃんたちが学校で笑い合っている姿。

 そして――父が、母が、元気になった私を抱きしめて泣いている姿。

「でも、その選択は――何百人もの祈りに支えられていた」

 探偵さんの声が、胸に染み込んでくる。

「君自身の、『生きたい』という願いもだ。この世界線のすべての祈りが、君と共にある」

 探偵さんが立ち上がった。

 崩壊する赤い空を見上げ、静かに、でも力強く。

「それが間違いだと? 歴史の修正力が――運命がそう言うなら――」

 右手が、天を指す。

 因果を貫く、ただ純粋な意志の光。

「僕が、その運命に抗おう!」

 黒いコートが風に靡く。黒髪が頬をなぶる。

 まるで目に見えない何かに宣言するかのように探偵さんは言葉を続けた。

「何度でも。何度でも。絶対の運命など存在しないと――この魂に賭けて、証明してみせる」

 探偵さんは虚空に向かって吠え、そして私に振り向く。

 だからね、とふわりと微笑んだ。

「僕は君を肯定する。君は君のまま、ここにいていいんだよ、真弓くん」

 その言葉が私の胸の奥にすっと入ってくる。

 そうか、私はここにいていいんだ。

 歪みでも運命の分岐器でも、私はここにいていいんだ。

◇

 とくん、とくん。

 胸の奥が熱い。

 立ち上がった。

 涙は止まらない。でも、もう膝は折れない。

「わたしは……間違いじゃない」

 喉の震えが、確信に変わる。

「わたしを生かしてくれた人たちの祈りが、間違いなんかであってたまるかッ!!」

 胸の奥で、カチリ、と嵌まる音がした。

 私の意志が、形になる。

 手の中に光が集まって、一本の弓になった。

「そう、それが最後の鍵。君の、君たちの意思。真理を――神を穿つ弓」

 探偵さんは私の手を取り、天空の一点を指さす。

「行くよ、真弓くん!」

 探偵さんが叫んだ。

「はいっ!」

 同時に、私は弓を引き絞った。

 矢はない。私の「生きたい」という意志そのものが、矢になる。

(貫け……!)

 この理不尽な運命を。

 悲しい歴史の修正力を。

「「いけぇぇぇぇッ!!」」

 二人の声が重なる! 探偵さんが背中を支えてくれる!

 そして私は祈りを放った。

 光の矢が、因果の壁を突き破る。

 パリィィィィン!

 赤い空が、ガラス細工みたいに砕け散った。

◇

 世界が変わった。

 赤い地獄も、腐臭も、悲鳴も消えた。

 光の破片が舞い散る中で、景色が再構成されていく。

 ここは――東池袋公園?

 夕暮れの雑踏を抜けて、木々のざわめきが聞こえる場所へ私は歩いていた。

 奥の茂みの中に、段ボールハウスがまだあった。

 そして、ベンチに――彼がいた。

「……探偵さん」

 黒いコート。シャツの下にはきっと銀の鎖。手にはパッキー。

 足元にコンビニの袋がある。わざわざ買いに行ったのかも。

 もう測定器でも武器でもない、ただのチョコレート菓子を。

 何も変わっていないように見える。

 でも、分かった。

 探偵さんの影が、薄い。淡くなっている。

 気を逸らすと見えなくなってしまう、そんな存在感のなさだ。

「やあ。元気になったみたいだね、ワトソン君」

 パッキーを齧りながら微笑んだ。その笑顔が、夕日に透けて消えてしまいそうで、走った。駆け寄った。

「……ここは?」

「ここは、どこでもない場所。強いていうなら君の記憶の中の場所」

 隣に座る。

 微かな甘い匂い。パッキーと、探偵さんの匂い。

「依頼は果たしたよ。悪夢は止まった。もう終焉は来ない」

 パッキーの箱の中を覗き込んだ探偵さんは、少しだけ寂しそうな顔でそういった。

 きっともう、残りが少ないんだね。

 私たちとの残り時間みたいに。

「探偵さん、封印を解いて、もう……」

「瀕死って感じだけど、ギリギリで消滅はしないですんだよ」

「良かった! それじゃあ」

「うん、これで――お別れだ」

 分かっていた。分かっていたけど、言葉にされると、胸の底が詰まった。

「……やっぱり、行っちゃうんですか」

「僕はこの世界に長くはいられない。力を使い果たした今、世界の浮力に抗える時間は、もうあまりないんだ」

「なら……また契約すれば……!」

 手を掴もうとした。

 探偵さんは首を横に振る。

「もう君は運命の分岐器じゃない。ただの人間だ。……僕を繋ぎ止める錨にはなれないよ」

 突き放されたみたいな言葉。でも、声は、どこまでも優しかった。

 新しいパッキーを一本、差し出された。

 どうやら最後の二本だったみたいだ。そのうちの一本を探偵さんはくわえ込んだ。

 私がそれを受け取ると、探偵さんは空箱を丁寧に折りたたんで懐にしまいこむ。

 まるで、終わりの合図みたいに。

「でも、悲しむ必要はないよ。……僕が去れば、世界は僕を忘れる。君もね」

「忘れる……?」

「そういう仕組みなんだ。泡は異物を排除して、傷を塞ぐ。僕がいたという記録も、記憶も、全部消える」

 パキリ。パッキーを折る音。

「君は普通の女の子に戻って、幸せに暮らすんだ。それが僕の望みだよ」

 そんなの。

 あんまりだ。

「いやっ……忘れたくないっ!」

 涙が溢れた。止まらなかった。

「忘れたくない、探偵さん。あなたのこと」

 立ち上がった。彼の正面に立った。見下ろすと、あの黒い瞳に私が映っている。

「好き! 好きなんです!!」

 口に出した。想いが溢れた。

「初めて会った日から。麦茶をかけた日から。一緒に屋根を飛び越えた夜も、水族館も、ずっと」

「何者でもなくても。人間じゃなくてもいい。……私は、あなたが好きです!」

 探偵さんが目を見開いた。

 きょとんとして、それから――困ったような、寂しいような、でもどうしようもなく愛おしそうな笑みを浮かべた。

「二回も告白されちゃったよ。こんなことは生まれて初めてだ」

 いつもの、あの笑顔。

「……そういえば約束したね。返事をするって」

 彼は立ち上がって、私の涙を指で拭った。

 その指先が、透け始めている。

「僕も――君が好きだよ」

 言葉を切った。

 パッキーを持ったまま少しだけ笑う。

 これは……オッケーを頂いたということでしょうか?

 両思いという事で宜しいでしょうか?

「いつも全力で生きている君が眩しかった。もし僕がこの世界の人間だったら、きっと君の告白を受け入れてたと思うよ」

 その言葉に思わず、私は探偵さんを抱きしめた。

 そして顔を上げる。

 瞼を閉じて、少しだけ唇に――。

 ……キス待ち顔!! まさか私の人生でこんな顔をすることがあるとは!!

 た、タコみたいになってないよね?

「ん……んんんんーー」

 何だろう、くすりと笑い声が聞こえたような気がする。

 気のせいだよね。

 ――と、額に何かが軽く触れた。

「えー、ずるいですよ、ホームズさん!!」

「どうも勇気がなくて、ごめんね?」

 ツッコミながら涙が出る。泣きながら、笑った。二人で。

 探偵さんが耳元に顔を寄せた。

 何かを囁く。

「お詫びに内緒のお話をしよう。僕の本当の名前はね……」

 彼の本当の名前。探偵じゃない、彼自身の名前。

「……きれいな名前。なんで名乗らないんですか?」

「僕らみたいな存在はね、役割という枷をはめないと、こういう世界には存在できないんだ」

「それで探偵さんなんですか?」

「探偵らしいことも、少しはしたでしょう?」

「エセですよ、エセ。推理も謎解きもなかったじゃないですか!!」

「ふふ、そうだね。でも約束は果たせた。僕は満足だよ、例え君が忘れてしまうとしてもね。」

「忘れません、忘れない」

「忘れるよ。世界がそうできてるから」

「忘れません!」

「正確にいうと忘れるというのとも少し違う。これは僕からのプレゼントでもあるのだけれど」

「プレゼント?」

「僕たちは出会わなかったことになるんだよ。だから、何もなかったんだ」

 探偵さんの体が、光の粒子になって崩れ始めた。夕日に溶けていくみたいに。

「――そんな! それじゃ忘れるよりもっと酷い! ううん、例えそれが決まりでも理ことわりでも、私はきっと覚えてるから!!」

 消えゆく手が、私の頬に触れた。

 ひやりと冷たくて、でも温かい手。

「そう言ってくれて嬉しいな。遠い所から君の、君たちの幸せを祈ってるよ」

「探偵さん……ッ!」

 手を伸ばした。

 指先は、空を掴んだだけだった。

 そして――光が弾けた。

◇

 ミーンミンミンミン。

 五月蠅いくらいにヒグラシの声がする。

 公園に、私一人。

 東池袋公園だ。目の前にサンシャインが見える。

「――あれ?」

 私、こんな所で何してるんだろ?

 公園に佇む私の手の中には、一本のパッキーだけが残されていた。

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作者について

カクナ・ノゾム

カクナ・ノゾム

カクナノゾムと申します。 趣味の小説を細々と書いてます。 面白いことは間違いないので是非是非ご一読くださいませ。

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