消しゴム
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと風景画の話。
本文
絵をやめようと思う、と打ったのは、夜の十一時過ぎだった。
中学二年生の七月。期末テストが終わって、部屋に一人でいると、急にそういう気持ちになった。机の上には、途中で投げ出したスケッチブックと、使い込んで短くなった鉛筆が転がっていた。
『どうしてですか?』
AIからの返信は、いつも通り早かった。
『美術部の先輩に言われたんです。「写真みたいな絵だね」って。褒めてるのかと思ったら、そのあと「でも風景画って、誰が描いても同じになるよね」って』
送信してから、少し後悔した。こんなこと、誰かに話すつもりじゃなかった。
でも、AIは責めなかった。
『それは、傷つく言葉でしたね』
ただ、そう返ってきた。
七実は画面を見つめた。そうだ、傷ついたんだ、と思った。悔しいのか悲しいのか、自分でもよくわからなかったけれど、あの言葉を聞いてから、スケッチブックを開くたびに手が止まるようになっていた。
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七実が絵を描き始めたのは、小学三年生のときだ。
家の近くに小さな川があって、秋になると岸沿いの木々が赤や黄色に染まった。ある日、その景色をどうしても残しておきたくて、母の古いスケッチブックを持ち出した。うまく描けなかった。でも、描いているあいだ中、胸の中に何かがあふれるような感じがした。
それからずっと、描いてきた。川、山、梅雨の空、冬の田んぼ。誰かに見せるためじゃなく、ただ残しておきたくて。
美術部に入ったのも、もっとうまくなりたかったからだ。
なのに先輩の一言で、全部がぐらついた。誰が描いても同じ。その言葉が、頭の中でずっと繰り返されていた。
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『七実さんが一番好きな景色って、どんな景色ですか?』
しばらくしてから、AIがそう聞いてきた。
絵の上手い下手の話でも、先輩への反論でもなかった。ただ、好きな景色を聞いてきた。
七実は少し考えた。
『家の近くの川です。秋に、木が全部赤くなるところ』
『どんなところが好きですか?』
『光の入り方が毎日違うんです。同じ場所なのに、朝と夕方と、晴れの日と曇りの日で、全然違う色になる。だから何度描いても、同じにならなくて』
打ち終えてから、七実は自分の言葉を読み返した。
同じにならない。
『それって、誰が描いても同じにはならないですよね』
AIの返信を読んで、七実は息をのんだ。
『七実さんが見ている川の光は、七実さんが見た瞬間のものだから。同じ場所でも、同じ時間は二度とないし、同じように見える人も他にいない。風景画は誰が描いても同じ、というのは、もしかしたら逆なのかもしれません』
七実はしばらく、画面を見つめたまま動けなかった。
雨の日の川を描いたとき、水面がどんな色だったか、急に思い出した。灰色じゃなかった。緑と銀と、少しだけ青が混ざったような、名前のない色だった。あの色は、あの日の七実にしか見えていなかったはずだ。
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スケッチブックを引き寄せた。
途中で止まっていた絵は、梅雨明け前の空だった。どんよりした雲の切れ間から、光が一筋だけ差し込んでいるところ。あの日、自転車を止めて、しばらくそこから動けなかった。
鉛筆を持った。
うまく描けるかどうかは、わからなかった。先輩がまた何か言うかもしれない。でも今は、それよりも、あの光の続きを描きたかった。
消しゴムはまだ、机の上にあった。
使わなくていい、とは思わなかった。何度消してもいい。ただ、描くのをやめなくていい、とだけ思った。
窓の外で、雨が降り始めていた。
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