律と霧
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あらすじ
ピアノ調律師・瀬尾律、52歳。三十年間、A=440Hzの音叉から始まる仕事を続けてきた。指が覚えている。耳が知っている。だがその耳が、少しずつ遠くなっていく。 うなりが消えない。道を間違える。同じ話を繰り返す。 若年性認知症の診断を受けた律が選んだのは、たった一件「最後の調律」だった。
本文
§1 四四〇
音叉を弾く。
銀色の二股が空気を割り、細い振動が生まれる。A=440Hz。ピアノの調律は、この一音から始まる。
瀬尾律は音叉の柄をピアノの響板に押し当てた。木が振動を受け取り、増幅する。澄んだ音が部屋に広がった。三十年間、この音だけは揺らいだことがなかった。父から受け継いだ音叉は、握り込むと掌にちょうど収まる。銀色はとうに鈍くなっているが、周波数は変わらない。
秋の午前。顧客の矢野邸。築三十年の一戸建ての二階に、ヤマハのアップライトピアノがある。律はこの家の調律を十五年担当している。矢野夫人が「お茶をどうぞ」と声をかけたが、律は軽く会釈して断った。作業中は飲まない。余計な音を身体に入れたくなかった。
蓋を開け、アクション機構を引き出す。ハンマーの列が整然と並んでいる。フェルトの状態を目で確認し、それから鍵盤に指を置いた。
中央のA音を打鍵する。音叉の基準音と合わせる。ピアノの中央Aは三本の弦が張られている。三本が完全に同じ音高で鳴ったとき、ユニゾンが成立する。ズレがあれば、うなりが生じる。二つの周波数の差が、空気の中で揺れを作る。
律はチューニングハンマーを調律ピンにかけ、ほんの僅か回した。うなりが遅くなる。もう少し。うなりが消える。三本の弦が一つの音になった。
ここから広げていく。基準のAを起点に、オクターブを上下に渡り、十二の音すべてを整えていく。平均律。すべての音が数学的に等間隔に並ぶ調律法。どんな調でも弾ける代わりに、一つひとつの音程は純正な比率からわずかにずれている。ピアノとは、そういう楽器だった。完璧な和声は持たないが、すべての和声を鳴らせる。
律は低音域から順に作業を進めた。左手で鍵盤を打ち、右手でハンマーを操る。耳は弦の振動だけを聴いている。エアコンの送風音、階下のテレビ、遠くの車——それらは意識の外に退く。残るのは弦の声だけだった。
指に返ってくる感触は三十年分の蓄積だった。ピンの硬さ、弦の反発、ハンマーの回転角度。一つひとつを言語化したことはない。指が知っている。
二時間で八十八鍵すべてを整え終えた。律は最高音域から最低音域まで、ゆっくりとグリッサンドを弾いた。音が一本の線になって流れていく。途切れも濁りもなかった。
矢野夫人が二階に上がってきた。「いつもきれいな音にしてくださって」と言った。律は「いえ、もともとよく鳴るピアノですから」と答えた。工具を一つずつ拭き、革の工具箱に戻した。配置は三十年変わっていない。チューニングハンマー、ミュート、音叉、フェルトテープ。指が触れるだけで何がどこにあるかわかる。
玄関で靴を履き、矢野邸を出た。次の予定は午後三時、別の顧客宅。二時間ほど空きがある。律は電車に乗り、最寄り駅で降りて家に向かった。
*
マンションの鍵を開けると、奏恵の声がした。
「おかえり。早かったね」
「矢野さん、今日は早めに終わった」
リビングに入ると、奏恵がキッチンに立っていた。魚の匂いがする。煮付けだろう。律は手を洗い、ダイニングの椅子に腰を下ろした。
「午後は田村さんのところ?」
「三時から」
「お弁当、作ろうか」
「いい。駅前で何か食べる」
奏恵は「そう」と言って鍋の火を弱めた。律はテーブルの上のメモ帳を見た。今日の予定が書いてある。矢野邸10:00、田村邸15:00。自分の字だった。
「今日、矢野さんのところ行ってきたよ」
「うん、聞いた。早かったねって」
律は口を閉じた。さっき同じことを言った。言ったことは覚えている。覚えているのに、口が繰り返した。
奏恵は鍋の蓋を戻した。振り向かなかった。
*
午後。田村邸のグランドピアノ。リビングの窓から秋の光が入り、黒い筐体を鈍く照らしている。
律は音叉を弾いた。A=440Hz。同じ音。同じ手順。蓋を開け、三本の弦を合わせる。
中音域に差しかかったとき、指が止まった。
うなりが消えない。
三本の弦を合わせたはずだった。ピンを回し、振動の差を詰めた。だがかすかな揺れが残っている。弦のせいだろうか。季節の変わり目で、湿度が不安定になっている。ピンが馴染むまでに時間がかかることはある。
律はもう一度ピンを回した。うなりが——消えたのか、消えていないのか。耳を澄ませた。空気の中に、揺れの残像があるような気がした。
弦のせいだ、と律は判断した。工具箱を閉じた。
帰り道、駅のホームで電車を待ちながら、右手の親指と人差し指をこすり合わせた。チューニングハンマーのタコに、まだピンの感触が残っている。三十年分の感触。
電車が来た。律は乗り込み、吊り革を掴んだ。
窓の外を、秋の町が流れていった。
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## §2 うなり
十月に入って、工具箱の中の配置が変わっていた。
ミュートがチューニングハンマーの左側にある。律はミュートを右側に置く。三十年、一度も変えたことがない。自分で動かしたのだろう。動かした記憶がなかった。
律は黙ってミュートを右に戻し、工具箱を閉じた。
*
顧客の遠藤邸に向かう道で、角を一つ間違えた。十二年通った道だった。交差点に立ち、左に曲がるべきか右に曲がるべきかを三秒ほど考えた。スマートフォンの地図を開き、現在地を確認した。右だった。三秒で済んだ。だが三秒は、三十年のキャリアの中で初めての三秒だった。
遠藤邸のアップライトを調律する。低音域は問題なかった。中音域に入る。打鍵して、耳を澄ませる。うなりを探す。
あった。
前回と同じだ。三本の弦を合わせたはずなのに、微かな揺れが残る。ピンを回す。揺れが変わる。消えたか。もう一度打鍵する。消えている。消えていると判断する。だが次の音に移ったとき、さっき合わせた音が本当に合っていたのか、確信が揺らいだ。
戻って確認した。合っていた。
その日、律はいつもより四十分多く時間をかけた。遠藤氏に「丁寧にやっていただいて」と言われた。律は笑って「季節の変わり目ですので」と答えた。
*
メモが増えた。
律はもともとメモを取る人間ではなかった。顧客の名前、住所、ピアノの機種、前回の状態——すべて頭に入っていた。十月の半ばから、手帳に書くようになった。書いたことを忘れているのではない。書かなければ不安なのだった。
朝、手帳を開く。今日の予定を確認する。前のページに同じ予定が書いてある。自分の字で、同じ内容が二度。
律は手帳を閉じた。
*
夜。夕食の後、奏恵がテレビを消した。
律は新聞を読んでいた。読んでいるふりをしていた。活字が目に入らない。奏恵がテーブルの向かいに座り、しばらく黙っていた。二十六年一緒にいると、沈黙にも種類がある。これは、何かを言おうとしている沈黙だった。
「ねえ」
律は新聞から目を上げた。
「一緒に病院、行かない?」
「病院」
「うん。検査してもらったほうがいいと思うの」
律は新聞を畳んだ。手が丁寧に角を揃えていた。
「疲れてるだけだよ。秋は湿度の変動が大きいから、仕事に時間がかかるんだ」
「そう」
奏恵はそれ以上何も言わなかった。立ち上がって、台所に向かった。蛇口をひねる音がした。食器を洗い始めたのだろう。
律は新聞のスポーツ欄を見つめていた。結果はさっき読んだはずだった。どこのチームが勝ったか、思い出せなかった。
*
翌週、律は自分から病院に行こうと言った。奏恵はすでにコートを出していた。
大学病院の神経内科。待合室の蛍光灯がわずかに唸っていた。50ヘルツ。東日本の交流周波数。律の耳にはそれが聞こえる。聞こえていた。
MRI検査を受けた。認知機能検査を受けた。日付を書き、図形を模写し、単語を覚えて五分後に思い出した。思い出せないものが二つあった。
診察室で医師が画像を見せた。「海馬の萎縮が見られます」と言った。穏やかな声だった。「若年性アルツハイマー型認知症の可能性が高い」。律は医師の口元を見ていた。声は聞こえていた。内容も理解していた。だが音が、少し遠かった。
奏恵は律の隣に座っていた。膝の上で手を組んでいた。その手が白くなるほど握り締められていることを、律は視界の端で見た。
医師が治療の選択肢を説明した。進行を遅らせる薬がある。介護保険の申請について。利用できるサービスについて。律は頷いた。メモを取ろうとして、ペンを出した。何を書けばいいかわからなかった。
奏恵が「資料をいただけますか」と言った。医師が紙を渡した。奏恵がそれを受け取った。律のペンは、手帳の上で止まったままだった。
*
病院を出た。十月の空は高く、薄い雲が流れていた。
二人は並んで歩いた。どちらも話さなかった。律は奏恵の歩く速度に合わせようとした。だが自分のほうが遅くなっていることに気づいた。奏恵が半歩先にいる。いつからだろう。いつから自分は遅くなったのだろう。
駅に向かう途中、律が口を開いた。
「……椎名さんのところ、来月だったな」
奏恵は律を見た。
「うん。十一月。いつもの」
「行くよ」
奏恵は何も言わなかった。ただ、歩く速度を少しだけ緩めた。律の隣に並んだ。
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§3 弦の張力
グランドピアノの内部には、約二百三十本の弦が張られている。その総張力は、およそ二十トン。鋳鉄のフレームがその力を受け止めている。一本でも弦が切れれば、全体のバランスが変わる。切れた弦は張り直せる。だが、切れたことに気づかなければ——。
*
律は組合の定例会に出た。月に一度、調律師が五人ほど集まり、情報交換をする。新しいメーカーの弦の話。デジタルチューナーを補助に使うかどうかの議論。年配の調律師は耳だけで合わせることに誇りを持っている。律もそうだった。
「瀬尾さん、最近どうです」
後輩の宮田が声をかけてきた。律は「変わらないよ」と答えた。手帳を見る回数が増えたことは言わなかった。道を間違えたことも。うなりが消えないことも。
「来月の研修会、瀬尾さんも出ますよね。整音のデモ」
「ああ」
出るつもりだった。出られるかどうかは別の話だった。
帰り道、律は自分の手を見た。右手の親指と人差し指のタコ。三十年の蓄積。この手が動く限り、自分は調律師だ。この手が何を覚えているかは、頭とは関係ない。
だが頭が壊れたとき、この手はどこに行くのだろう。
*
平均律について、律はよく考えるようになった。
純正律は、物理的に最も美しい音程比を持つ。三度の和音は澄み切って震えがない。だが純正律で調律したピアノは、限られた調でしか美しく鳴らない。転調すると途端に濁る。
平均律は、すべての音が微かにずれている。三度は少し広く、五度は少し狭い。完璧な和声は一つもない。だからこそ、どんな調でも弾ける。すべての調が等しく不完全で、等しく演奏可能。
これまで律は、ずれを消すことが仕事だった。三本の弦をぴたりと合わせ、うなりをゼロにする。客のピアノを「正しい」状態にする。正しさは一つしかないと信じていた。
今、自分の中の基準が揺らいでいる。A=440Hzが遠くなっている。正しさが、霧の中に沈んでいく。
*
十月の最終週。律は予定表を整理した。
十一月の顧客を確認する。五件。そのうち椎名邸は三日。あとの四件に連絡をした。「来月の調律は、同業者に引き継ぎます」。理由は「体調の都合」とだけ伝えた。矢野夫人は「お大事にしてください」と言った。遠藤氏は「長い間お世話になりました」と言った。長い間、と言われたとき、律は電話を握る手に力が入った。
椎名邸だけは、自分でやる。
八年前から担当している家。雫がまだ小さかった頃、調律のたびにピアノの横に座って、律の手元をじっと見ていた。「瀬尾さん、なんで音叉を叩くんですか」と聞かれたことがある。「基準の音を作るためだよ」と答えた。「基準って何ですか」。律は少し考えて、「全部の音が、ここから始まるんだ」と言った。雫は「ふうん」と言って、音叉に触ろうとした。律はそっと雫の手を取って、振動するU字の先端に触れさせた。雫の指が震えた。「わあ」と雫が言った。
あの振動を、まだ覚えている。
*
十一月一日。朝。律は書斎で工具箱を開けた。
中身を一つずつ確認した。チューニングハンマー。ミュート三種。音叉。フェルトテープ。ゴムくさび。それぞれを手に取り、指で触れ、元の位置に戻した。名前を口の中で呟いた。チューニングハンマー。ミュート。音叉。
全部わかる。全部ある。
工具箱を閉じた。革のバックルを留めた。持ち上げた。重さはいつもと同じだった。
リビングに出ると、奏恵が玄関に立っていた。律の靴を揃えていた。
「椎名さんのところ、行ってくる」
「うん」
奏恵はそれだけ言った。弁当を差し出すでもなく、気をつけてと言うでもなく。ただ、玄関に立って、律が靴を履くのを見ていた。
律は靴紐を結んだ。立ち上がり、工具箱を持った。ドアノブに手をかけた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアを開けた。十一月の空気が冷たかった。
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§4 整音
椎名邸までの道を、律は迷わなかった。
駅から徒歩十二分。住宅街の角を二つ曲がり、突き当たりを右。白い門扉にネームプレート。八年間通った道が、今日も足の下にあった。それが小さな安堵をくれた。安堵は長くは持たなかったが、玄関のチャイムを押すまでの間は確かにそこにあった。
椎名夫人が出迎えた。「お待ちしていました」。リビングに通される。ヤマハのグランドピアノ。C3。雫が七歳のときに、両親が買い与えたものだった。律が最初に調律したとき、雫はピアノの横に小さな椅子を持ってきて座った。今は中学二年生になっている。ピアノの上の写真立てには、小学校の入学式の写真がまだ飾ってあった。
「雫は三時半ごろ帰ってくると思います」
「わかりました。それまでに終わらせます」
椎名夫人がリビングを出た。律は工具箱を床に置いた。バックルを外す。蓋を開ける。中身を確認する。全部ある。
グランドピアノの大屋根を上げた。弦が整然と張られている。低音の巻線弦から高音の裸線弦まで、二百三十本。それぞれが定められた張力で、定められた音高を保っている。
律は音叉を取り出した。
父から受け継いだ銀色の音叉。柄を握り、二股の先端を膝に打ちつけた。振動が始まる。A=440Hz。
響板に当てた。音が広がった。
遠い、と律は思わなかった。思わないようにした。音叉は鳴っている。基準音はそこにある。自分の耳がそれをどう聴いているかは、考えないことにした。
中央Aの鍵盤を打った。三本の弦が鳴る。音叉と合わせる。ピンを回す。うなりを探す。
——あった。揺れている。ピンを回す。揺れが変わる。もう少し。もう少し。
消えた。消えただろうか。もう一度打鍵する。静かに聴く。空気の中に揺れはない。ないはずだ。
律は次の音に進んだ。
*
低音域は順調だった。弦が太く、振動が大きいぶん、ずれが聴き取りやすい。律の指はピンの回転角度を覚えていた。四分の一回転、八分の一回転。微細な調整が、頭で考えるより先に手で完了する。
中音域に入った。
三十分ほど作業を続けたところで、律の手が止まった。
さっき合わせたはずの音に戻って打鍵した。合っている。次の音を打鍵した。合っている。だが二つの音を続けて鳴らしたとき、その間にある関係——五度の音程が、正しいのかどうかわからなかった。
平均律の五度は、純正な五度より約二セント狭い。二セント。常人には聴き取れない差。律はそれを三十年間、一発で判断してきた。
今日、その二セントが聴こえない。
律は同じ二音を何度も弾いた。打鍵して、聴く。打鍵して、聴く。合っているのか。ずれているのか。耳が答えを返さなかった。
額に汗が浮いた。手が震えた。チューニングハンマーを握る指に力が入りすぎている。このままでは弦を傷める。
律は工具をピアノの上に置いた。手を膝に下ろした。目を閉じた。
霧の中にいるようだった。音は鳴っている。空気は振動している。だがそれが「正しい」のかどうかを判定する基準が、自分の中から消えていた。
これが終わりだ、と体のどこかが告げていた。もう合わせられない。三十年の耳が、閉じようとしている。
*
玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー」
雫の声。廊下をスリッパがぱたぱたと歩いてきて、リビングのドアが開いた。
「あ。瀬尾さん」
制服のまま、鞄を肩にかけた雫がいた。頬が少し赤い。外が寒かったのだろう。
「来てくれたんですね。今日」
「……ああ」
「ピアノ、もう終わりましたか?」
「いや」
律は自分の声を聞いた。かすれていた。
「ちょっと待ってね」
雫は「はい」と言って、ダイニングの椅子に座った。鞄を下ろし、律のほうを見た。待っている。八年前と同じように、ピアノの近くで、律の仕事を待っている。
律は深呼吸をした。
音叉を手に取った。弾いた。A=440Hz。音が鳴った。遠いのか近いのかわからなかった。だが鳴っていた。
鍵盤に指を置いた。
鍵盤の重さが返ってきた。約五十グラム。押し下げたときの抵抗、戻るときの弾力。この感触を、律の指は知っていた。三十年間、何千回、何万回と繰り返した感触。頭が忘れても、指は覚えている。
中音域の続きから再開した。五度の音程が正しいかどうか、耳は教えてくれなかった。だが指がピンを回した。この角度で、この力加減で。指が知っている回転量を、そのまま手に任せた。
整音に移った。ハンマーのフェルトに針を入れる。繊維を一本ずつほぐし、硬くなった部分を柔らかくする。この作業は耳よりも手の感覚で判断する。フェルトの弾力、針の刺さる深さ。律の指はフェルトの状態を正確に読み取った。
一時間かけて、八十八鍵すべてを終えた。
完璧ではないことを、律は知っていた。中音域のどこかに、自分では判断できなかったずれが残っている。だが指が選んだ調整を、律は信じることにした。三十年の指を。
工具を拭いた。一つずつ、工具箱に戻した。蓋を閉じた。バックルを留めた。
雫がダイニングからこちらを見ていた。
「弾いてみて」
律は言った。雫は椅子から立ち上がり、ピアノの前に座った。
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§5 残響
雫は鍵盤の上に指を置いた。爪を短く切った、小さな手。オクターブにはまだ届かない。
深呼吸した。弾き始めた。
ショパンのノクターン。第二番。変ホ長調。コンクールの課題曲ではない。雫が好きな曲だった。左手が低音を支え、右手がメロディーを歌う。
律はダイニングの椅子に座って聴いた。
技術的には未熟だった。テンポが一箇所揺れた。装飾音が少しもたついた。
音が鳴っている。
律が二時間かけて整えたピアノから、音楽が生まれている。低音の響きが床を伝わり、中音域のメロディーが部屋の空気を震わせ、高音が天井に散る。完璧な調律ではない。律にはそれがわかる。中音域のどこかに、自分が判断できなかったずれが残っている。
だが音楽は鳴っている。
ノクターンの旋律が上がり、下がり、また上がる。ショパンが書いた音符を、雫の指が一つずつ拾い上げていく。その指が打つ鍵盤の先に、律が整えたハンマーがあり、律が合わせた弦がある。雫の音楽と律の調律が、一つの空間の中で重なっている。
ずれたままの五度が鳴った。律の耳にはそれが正しいのかわからなかった。だが雫の指は迷いなく次の音に進んだ。音楽はずれを含んだまま流れていった。平均律とはそういうものだった。すべてが微かにずれていて、すべてが音楽として成立する。
最後のフレーズ。右手が高音で旋律を歌い、左手が低音で和音を置く。音が小さくなっていく。消えかけて、最後の一音。
雫が指を鍵盤から離した。
音が止んだ。だが空気の中に振動が残っていた。壁に、窓に、天井に、ピアノの筐体の中に。残響。音が消えた後に、空間が覚えている振動。
しばらく、誰も動かなかった。
雫が振り向いた。
「瀬尾さん」
「うん」
「この音が好きです」
律は何か返そうとした。言葉を探した。適切な言葉が見つからなかった。調律師として技術的なことを言うべきなのか、それとも——。
「……ありがとう」
それだけ言った。雫は少し笑った。
*
椎名夫人に挨拶をして、玄関を出た。十一月の空は高かった。銀杏が色づいている。空気が冷たく、肺の奥まで入ってきた。
工具箱が重い。いつもと同じ重さのはずだった。
駅に向かって歩きながら、律はポケットのスマートフォンを取り出した。奏恵の番号を押した。
「終わった?」
「終わった」
「そう」
「……帰る」
「うん。待ってる」
電話を切った。二十六年分の会話が、四つの文に収まっていた。
*
マンションの玄関を開けた。奏恵が廊下に立っていた。出迎えたのではない。たまたまそこにいたのだ。洗濯物を取り込んだ帰りだったのかもしれない。
律は靴を脱いだ。工具箱を廊下に下ろした。革のケースが床に触れる音がした。
奏恵の手が見えた。洗濯物を抱えていた手。その手を、律は取った。強くはない。ただ、触れた。奏恵の指は冷たかった。洗濯物が外に干してあったのだろう。
奏恵は何も言わなかった。律の手を握り返した。
二人はしばらく玄関に立っていた。何も言わず、手を繋いで。外から夕方のチャイムが聞こえた。五時を告げる音が、遠くの町内スピーカーから流れてきた。
*
書斎の棚に、音叉が置いてある。
銀色の二股。父から受け継ぎ、三十年使い込んだもの。弾けば今もA=440Hzを発する。金属の周波数は変わらない。
音叉は棚の上で静かに光を反射している。
明日、律はこの音叉を弾かないかもしれない。あるいは弾くかもしれない。弾いたとき、その音が正しく聞こえるかどうかはわからない。
だが今日、この音叉から始まった調律が、少女のピアノを鳴らした。音楽は鳴った。部屋に満ちた。壁に触れた。窓を震わせた。
音が消えた後も、残響はしばらくそこにあった。
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この作品には認知症に関する描写が含まれます。
つらくなったときは:
- 若年性認知症コールセンター: 0800-100-2707(月〜土 10:00-15:00・通話料無料)
- 認知症の人と家族の会: 0120-294-456(月〜金 10:00-15:00・通話料無料)
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■ 著者について
NanyaKanya — 壊れかけた日常を、物語で静かに修復する。
他の作品:
・『骨と祈り』(ヤングケアラー×解剖学)Amazon Kindle
・『矩と灯り』(孤立×建築)Amazon Kindle
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https://note.com/harinezupc_09
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