色と水
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あらすじ
染色家の神崎深雪は、産後、色が見えなくなった。藍の青も、茜の赤も、灰色の濃淡にしか映らない。生後三ヶ月の娘・凪は泣き、深雪の手は動かない。 草木染では、布に色を定着させるために媒染という工程がある。ミョウバンで明るく、鉄で暗く。同じ染液でも、媒染剤が変われば色が変わる。 色を失った手が、もう一度水に触れるまでの、梅雨から初夏の物語。
本文
§1 媒染
媒染剤がなければ、色は定着しない。
草木染の色素は、そのままでは繊維に留まらない。ミョウバン、鉄、銅——金属塩の溶液に布を浸すことで、繊維と色素の間に橋が架かる。この前処理を媒染という。目に見える変化は何もない。布は白いまま水から上がる。だが繊維の内側では、色を受け入れる準備が静かに進んでいる。
神崎深雪はこの工程が好きだった。
*
三月。工房で桜の枝を煮出していた。まだ花のつかない、固い枝。細く刻み、大鍋に入れ、水を張って火にかける。煮え始めると、薄い琥珀色の液が立ち上ってくる。桜の色は花弁にあるのではない。枝に、樹皮に、木部に染料が潜んでいる。
煮出した液を漉し、木綿の布を浸した。引き上げて、ミョウバン液に浸す。また引き上げて、染料液に戻す。この往復を繰り返す。一度では染まらない。三度、四度と浸すうちに、布の上に淡い桜色が現れてくる。
そのときは妊娠七ヶ月だった。腹が重かった。立ち仕事がつらくなっていた。でも手は動いた。布を液から引き上げるとき、水が腕を伝って肘から落ちた。その水滴に、窓からの光が当たった。
それが最後に染めた布だった。
*
六月。深雪は台所に立っている。
哺乳瓶を洗っている。スポンジが瓶の底を擦る音がする。蛇口から出る水が、泡を流していく。もう一本。もう一本。三本洗って水切り台に伏せた。
凪の泣き声がする。リビングのバウンサーに寝かせたばかりだった。深雪は手を拭いて、リビングに戻った。
抱き上げた。泣き止まない。おむつは替えた。授乳は一時間前に終えた。室温は適切だ。理由がわからない。深雪は凪を胸に抱いたまま、リビングを歩いた。窓際まで行って戻り、ソファの横を通り、また窓際まで。同じ動線を繰り返した。凪がようやく泣き止んだのは、十五分後だった。
昨夜、三回起きた。二時、四時、五時半。拓真は六時に起きて、「行ってくるね。何かあったら電話して」と言った。深雪は玄関まで見送らなかった。布団の中から「うん」とだけ返した。
凪が眠った。深雪はバウンサーにそっと下ろした。背中が離れる瞬間、凪の眉がぴくりと動いた。起きるかもしれない。深雪は手を添えたまま、三十秒待った。眉が戻った。眠っている。
静かになった。
台所に戻る。昼食を作ろうとした。冷蔵庫を開けた。豆腐がある。卵がある。小松菜が少し萎びている。何を作ればいいのか、手が止まった。組み合わせが浮かばない。以前はこんなことはなかった。冷蔵庫の中身を見れば、三品は思いつけた。
冷蔵庫を閉じた。
リビングの窓から、六月の光が入っている。晴れ間だった。洗濯物を干すべきだろう。洗濯機の中に、朝回したまま取り出していない洗濯物がある。干さなければ匂いがつく。わかっている。足が動かない。
窓の向こうに、工房の小さな建物が見える。築四十年の離れを改装した、六畳ほどの空間。深雪が五年かけて整えた場所だった。棚に染料の瓶が並び、天井から染めた布が吊るされている——いた。今はカーテンが引かれている。三ヶ月、開けていない。
*
午後。凪が二度目の昼寝をしている間に、深雪は洗濯物を干した。バスタオルを広げたとき、手が止まった。白いタオルだった。白い。
以前なら、この白にも色を見た。少し青みがかっている、少しクリームに寄っている——布の色味を見分けることが、染色家の基本だった。今、白は白だった。それ以上の何も見えなかった。
タオルを干した。隣に凪の肌着を干した。小さい。手のひらほどの肌着。これも白い。
物干し台から工房が見える。窓のカーテン越しに、棚の輪郭がぼんやり見えた。棚にはミョウバン液の入ったガラス瓶が並んでいるはずだった。透明な液体。光を通すと、微かに黄色い。その黄色が好きだった。レモンの皮を煮出したような、かすかな色。
今は、カーテン越しの影しか見えない。
*
夕方。拓真が帰ってきた。
「ただいま。凪、今日どうだった」
「泣いた。あとは寝てた」
「そっか」
拓真はスーツのまま、バウンサーの凪を覗き込んだ。凪は目を開けて拓真を見たが、泣きもしなかった。拓真は凪の頬に指を近づけた。凪の手が動いて、拓真の指を握った。
「お、握ってる」
深雪はキッチンに立っていた。夕飯を作り始めていた。味噌汁の鍋に水を入れた。出汁パックを入れた。火をつけた。ここまでは動けた。
具を何にするか、また手が止まった。
拓真が凪を抱いてキッチンに来た。深雪の横に立った。鍋を見た。
「味噌汁?」
「うん」
「具、俺が切ろうか」
「……お願い」
拓真は凪を片腕に抱え、もう片方の手で冷蔵庫から豆腐を取り出した。深雪は鍋の湯が沸くのを見ていた。水面に小さな泡が浮かび上がる。泡が壊れる。また浮かぶ。壊れる。
窓の外が暗くなっていた。六月の日は長い。暗くなるのは七時を過ぎてからだ。それでも暗くなった。一日が終わる。明日も同じ一日が始まる。凪が泣いて、授乳して、おむつを替えて、泣いて、寝て。
鍋が煮立った。深雪は火を弱めた。
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§2 退色
退色。染めた色は、光と水に晒されるうちに褪せる。
紫外線が色素の分子構造を壊す。洗濯のたびに、繊維から色素が溶け出す。草木染の色はとくに弱い。化学染料のように繊維に食い込まない。時間が経てば、どんな色も淡くなっていく。それを防ぐのが媒染だが、天然の色を完全に止めることはできない。
色は、褪せるものだ。
*
梅雨に入った。
雨が三日続いた。洗濯物が乾かない。浴室に干したバスタオルが、翌朝もまだ湿っている。深雪はその湿ったタオルで凪の身体を拭いた。新しいタオルを出せばいい。わかっている。引き出しを開けて、選んで、取り出す。それだけの動作がひどく遠かった。
四日目に雨が止んだ。深雪は凪を抱いて工房に行った。
三ヶ月ぶりにドアを開けた。空気が籠もっていた。湿気と、かすかなカビの匂い。窓を開けた。風が入ってきたが、空気は重いままだった。
棚の染料瓶はそのままだった。ラベルに深雪の字で植物の名前が書いてある。ザクロ、クチナシ、ヨモギ、タマネギの皮。液は変色しているものもあった。使えるかどうかわからない。
架台に布が一枚、掛かっていた。三月に染めかけたまま放置した木綿。桜で染めた淡い桜色——だったはずの色が、褪せていた。窓際の架台に掛けたままだったから、日光が当たったのだろう。布の半分は元の色に近く、半分はほとんど白に戻っていた。退色。三ヶ月分の退色。
深雪は布に触れた。手は布目を覚えている。木綿の平織り。ミョウバン媒染。ざらつきの中に、かすかな柔らかさ。指が知っている感触だった。
だが色が思い出せなかった。この布を何色に染めるつもりだったのか。桜色だったはず。でも「桜色」という言葉が、色と結びつかなかった。桜色とは、どういう色だったか。
凪が泣いた。深雪は布を架台に戻し、工房を出た。
*
一ヶ月検診のときのことを、よく思い出す。
保健センターの廊下は蛍光灯が白かった。凪を抱いて待合の椅子に座っていた。他の母親たちがいた。赤ちゃんを抱いた女性が五、六人。みんな同じように疲れた顔をしていた。同じように。だから普通なのだと深雪は判断した。
保健師に「眠れていますか」と聞かれた。「はい」と答えた。嘘ではなかった。眠れてはいる。夜中に三回起きるが、その合間には眠っている。ただ、起きているときも眠っているような気がする。その境界が曖昧になっている。
「食欲はありますか」。「はい」。これも嘘ではなかった。食べてはいる。何を食べたか思い出せないことが増えたが、食べてはいる。
保健師はチェックリストに印をつけて、「順調ですね」と言った。
*
雨の日が続いた。窓の外はずっと灰色だった。
深雪はリビングのソファに座って、窓を見ていた。雨粒が窓ガラスを伝う。一筋、二筋。水が水を吸い込んで、太い筋になって流れていく。透明な水。
以前なら、この雨を見ながら染料のことを考えた。灰色の空の灰色は、何で染めれば出せるだろう。藍の薄い液か。栗のイガの煮出しか。灰色には無数の灰色がある。青に寄った灰色、茶に寄った灰色、緑を含んだ灰色。深雪の目はそれを見分けられた。
今、窓の外は灰色だった。一色の灰色。濃淡がなかった。
凪がバウンサーで手を動かしている。天井を見ている。何を見ているのだろう。深雪は凪の顔を見た。顔の色。赤ちゃんの肌は——何色だろう。白い。赤い。薄い。言葉が浮かぶが、色と繋がらなかった。
鉄媒染は色を暗く沈ませる。
その知識が不意に浮かんだ。ミョウバンは色を明るく出す。鉄は暗く沈ませる。同じ染料でも、媒染剤が違えば色が変わる。茜で染めた布をミョウバン媒染すれば鮮やかな赤になるが、鉄媒染すれば暗い紫に沈む。
今の自分は鉄媒染だ、と——そこまで考えて、深雪は思考を止めた。考えたくなかった。
*
拓真が帰ってきた。
スーツの肩が少し湿っている。雨が降っているのだろう。深雪は窓を見ていなかった。いつの間にか、窓の外を見なくなっていた。
「今日どうだった?」
「普通」
拓真はキッチンを見た。昼食の食器がシンクに置いてある。夕飯の準備はされていない。
「夕飯、俺が作ろうか」
「お願い」
以前なら自分で作った。拓真の包丁の使い方が気になって、途中で代わったこともあった。今は台所に立つ気力がない。気力という言葉すら大げさだった。立つ必要性が、身体に届かない。
拓真が台所で何かを炒め始めた。換気扇の音がする。油が跳ねる音。しばらくして、何かが焦げる匂いがした。
深雪はソファに座ったまま、動かなかった。
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§3 浸染
浸染。布を染料液に浸す。液の温度が高すぎれば繊維が傷み、低すぎれば色が入らない。時間が短ければ染まらず、長すぎれば色が濁る。浸す深さ、浸す時間。すべてに適切な加減がある。
*
朝。凪が泣いている。
深雪は布団の中にいる。泣き声が聞こえている。聞こえているのに、身体が動かない。手足がある。腕がある。背中がある。全部ある。どこも痛くない。なのに起き上がれない。身体の奥で何かが煮詰まっている。煮出されるものが何もないまま、火だけがかかっている。重い、と思った。それだけだった。
泣き声が続いている。拓真はもう出勤した。深雪しかいない。凪は深雪を呼んでいる。呼んでいるのだ。自分を。
起き上がった。何分経ったのかわからなかった。凪のベッドに行く。凪の顔が赤い。泣きすぎて頬が赤い。深雪は凪を抱き上げた。おむつが濡れている。替える。ゴミ箱に入れる。新しいおむつを当てる。手が動く。手順は覚えている。
凪がまだ泣いている。おむつではなかったのか。ミルクを作る。哺乳瓶に粉を入れ、湯を注ぎ、冷ます。凪の口に当てる。凪が吸い始める。泣き止む。
深雪は椅子に座って、凪にミルクを飲ませた。窓から光が入っている。六月の曇り空。蒸し暑い。エアコンをつけなければ。片手で凪を支え、もう片方の手でリモコンを探した。テーブルの上にない。ソファの隙間にもない。どこに置いたか覚えていない。
諦めた。汗が首筋を伝った。
*
午後。凪を抱いてリビングにいる。
凪は眠っている。深雪の腕の中で。重い。三ヶ月で六キロを超えた。両腕で抱くと、肩から手首まで一本の痛みが通る。下ろせばいい。バウンサーに寝かせればいい。でも下ろすと起きるかもしれない。起きたらまた泣く。泣いたらまた抱く。その繰り返しの最中にいた。
凪の体温が伝わってくる。温かい。温かいはずだった。深雪の腕にその温度は届いていた。でもそれが「温かい」という感覚なのかどうか、確信が持てなかった。ただ、温度があった。
天井を見ている。天井は白い。白いはずだ。灰色に見える。鉄媒染をかけたように、すべてが暗く沈んでいる。
この子を可愛いと思えない。
その言葉が浮かんで、深雪は目を閉じた。浮かんだのは言葉だけで、感情はなかった。悲しいのかどうかもわからなかった。ただ、思えない。三ヶ月経って、まだ思えない。産院で初めて抱いたとき、何か特別なものが湧き上がるはずだった。助産師が「おめでとうございます」と言った。拓真が泣いた。深雪は凪を見た。小さかった。赤かった。それだけだった。
それだけだったことが、いちばん重かった。
染める前の白い生地に戻れたらと、ふと思う。凪が来る前の、何も染まっていなかった自分に。
*
隣の家から、吉川さんの声がする。庭に出ているのだろう。誰かと話している。声は聞こえるが、言葉は判別できない。笑い声が混じった。深雪は窓を開けなかった。
午後三時。拓真に電話した。
呼び出し音が三回鳴った。
「深雪? どうした」
「……」
「大丈夫?」
「……わからない」
初めて「大丈夫」と言わなかった。言えなかった。大丈夫という言葉が、口の中で溶けて消えた。
拓真が黙った。電話の向こうで、オフィスの音がしていた。キーボードの音。誰かの声。拓真の日常。
「早く帰る」
電話が切れた。
*
拓真が帰宅したのは五時過ぎだった。玄関のドアが開く音がして、深雪はリビングの床に座っていた。凪は膝の上にいた。テレビがついていた。音が流れていた。何の番組かわからなかった。
拓真がリビングに来た。深雪を見た。凪を見た。何か言おうとして、言わなかった。
凪を受け取った。「風呂、入れるよ」と言って、浴室に向かった。
深雪は床に座ったまま、動けなかった。
*
夕方。チャイムが鳴った。
深雪は玄関に行った。ドアを開けると、吉川さんがいた。エプロン姿。手にビニール袋を持っている。
「茄子、たくさん採れたから。よかったら」
差し出された。深雪は受け取った。
「ありがとうございます」
声が出た。自分の声が小さいことに、声を出して初めて分かった。
吉川さんは玄関の中を覗かなかった。上がりもしなかった。立ったまま、深雪を見た。
「赤ちゃん、元気?」
「……はい」
「そう」
吉川さんはそれだけ言って、帰っていった。サンダルの音が遠ざかる。
深雪は玄関のドアを閉めた。ビニール袋を持ったまま、廊下に立っていた。袋の中の茄子を見た。紫色。紫色のはずだった。茄子の皮の色。深い紫。
その色の名前が、出てこなかった。
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§4 水洗
水洗。染めた布を水で洗う。余分な染料が流れていく。繊維に定着しなかった色素が、水に溶けて流れていく。必要なのは水の量と、流れの速さ。洗いが足りなければ色が移る。洗いすぎれば色が痩せる。適切に洗う。それだけのことが、いちばん難しい。
*
拓真が休みを取った。
月曜日の朝、スーツを着ずにリビングに来た。凪を抱いて、深雪の前に座った。
「病院、行こう」
深雪は答えなかった。拓真は「行かない?」とは聞かなかった。「行こう」と言った。深雪は靴を履いた。
産婦人科の待合室。ここにも蛍光灯が白い。前に来たのは一ヶ月検診のときだった。二ヶ月前。深雪は拓真の隣に座っていた。凪は拓真が抱いている。
問診票を書いた。エジンバラ産後うつ病質問票と書いてある。十項目。「笑うことができたし、物事のおかしい面もわかった」。はい、以前と同様にできた。いいえ、あまりできなかった。いいえ、明らかにできなかった。いいえ、全くできなかった。
深雪はペンを持った。一項目ずつ読んだ。丸をつけた。手が動いた。手は動く。
「不安や心配で夜、目が覚けた」。はい、ほとんどの夜。丸。
「はっきりした理由もないのに恐怖に襲われた」。はい、かなりあった。丸。
数字が並んだ。提出した。
診察室に入った。医師は五十代の女性だった。問診票を見て、深雪を見た。
「眠れていないですね」
「はい」
「赤ちゃんのことで、つらいと感じることはありますか」
深雪は医師を見た。白衣。デスクの上にカルテがある。壁に掛かったカレンダー。七月。色が——カレンダーの色が見えた。赤い数字が日曜日を示している。見える。
「……可愛いと、思えないんです」
言葉が出た。初めて言った。誰にも言わなかった言葉が、白い診察室の中で落ちた。
医師は頷いた。表情を変えなかった。驚かなかった。
「お薬を出しましょうか。眠れるようになるだけでも、だいぶ違います」
深雪は頷いた。拓真が隣にいた。拓真は何も言わなかった。ただ、隣にいた。
*
帰り道。薬局で薬を受け取った。小さな紙袋。中に錠剤が入っている。
外に出た。雨上がりだった。アスファルトが濡れている。水たまりがある。深雪は水たまりを避けずに歩いた。靴が濡れた。水の冷たさが足裏に伝わった。
拓真が凪を抱いて隣を歩いている。
「明日も休む」
「……いいの」
「いい」
二人は家に向かった。
*
翌日。拓真が凪を連れて外出した。
「散歩してくる」
聞かなかった。「何をすればいい?」と聞かなかった。ベビーカーに凪を乗せて、玄関を出ていった。
家が静かになった。凪の泣き声がない。拓真の足音がない。エアコンの低い唸りだけがある。
深雪は立ち上がった。工房に行った。
ドアを開けた。前回来たときと同じ空気。でも窓が少しだけ開いていた。拓真が開けたのかもしれない。風が通っている。
水場に行った。小さなシンク。蛇口をひねった。水が出た。
水が流れている。ステンレスのシンクを叩いて、排水口に吸い込まれていく。深雪はそれを見ていた。止められなかった。水を出したまま、流れを見ていた。
何かが流れていく。何が流れているのかはわからなかった。ただ、水が流れていて、それを見ていた。
庭の向こうから声がした。
「水、出しっぱなしよ」
吉川さんだった。柵越しにこちらを見ている。エプロン姿。庭仕事をしていたのだろう。
「……はい」
深雪は蛇口を止めなかった。吉川さんはしばらく深雪を見ていた。
「うちの水道も使っていいわよ。広いから」
*
吉川さんの庭に回った。
家の裏手に、コンクリートの洗い場があった。大きなシンクが二つ並んでいる。蛇口が二つ。壁にホースが掛かっている。
「織物やってた頃はここで洗ってたの。糊落としとか」
吉川さんが蛇口をひねった。水が出た。深雪の工房のシンクより、ずっと勢いがよかった。水が広い洗い場に広がって、排水溝に向かって流れていく。
深雪はその水の流れを見ていた。吉川さんは隣に立っていた。何も言わなかった。水の音だけが、しばらく続いた。
玄関のほうで、ベビーカーの車輪の音がした。拓真が戻ってきた。
「ここにいたの」
拓真が凪を抱いて庭に回ってきた。吉川さんが「あら」と言った。深雪は凪を受け取った。
凪を膝に乗せて、洗い場の横に座った。水がまだ流れている。凪が水のほうに手を伸ばした。
小さな手が、流れる水に触れた。
凪が手を引っ込めた。冷たかったのだろう。眉をしかめた。でも泣かなかった。もう一度手を伸ばした。水に触れた。今度は引っ込めなかった。指が水を掴もうとしている。掴めない。水は指の間を通り抜けていく。
深雪は凪の手を見ていた。小さな指。水滴がついている。水滴が光を通している。
吉川さんが言った。
「その子、水が好きなのね」
「……そうかもしれない」
凪の手に、もう一滴、水が落ちた。手の甲を伝って、手首に流れた。光を受けて、水の筋が一瞬だけ輝いた。
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§5 発色
朝。凪が泣いて起きる。
深雪は起き上がった。起き上がれた。薬を飲み始めて二週間になる。眠れる夜が増えた。夜中に起きるのは一回か二回になった。それだけのことで、朝の身体がこれほど違う。
凪を抱いた。授乳した。窓から朝の光が入っている。七月の光。梅雨が明けていた。いつ明けたのか、はっきりとは覚えていない。気づいたら、雨が降らなくなっていた。
*
凪を抱いたまま、工房に入った。
窓を開けた。朝の風が入ってきた。棚の瓶が並んでいる。染料液。ラベルの文字。深雪の字。
ミョウバン液のガラス瓶を見た。光が瓶を通り抜けている。液体は透明に近い。でもわずかに——黄色い。微かな、微かな黄色。レモンの皮を煮出したような色。
見える。
深雪は瓶を棚から取った。片手で。凪を抱いた片手で。瓶を光にかざした。黄色い。見えている。
棚から白い布を一枚取った。木綿の平織り。新しい生地。何も染まっていない。
洗面器をシンクに置いた。ミョウバン液を注いだ。布を浸した。片手で。凪の重さを左腕に預けて、右手で布を液の中に沈めた。
媒染。ここから始まる。いつもそうだった。色を入れる前に、まず媒染。繊維の内側に、色を受け入れる準備をさせる。目に見える変化はない。布は白いまま液から上がる。
でも繊維は変わっている。
これだけでは染まらない。植物を煮出して、染料液を作って、何度も浸して、乾かして、また浸す。時間がかかる。一度では染まらない。何度も。何度も浸して、初めて色が定着する。
今日は、ここまででいい。
*
布を引き上げた。白い。当然だった。媒染だけでは色はつかない。
凪が深雪の胸元で手を動かした。小さな指が、鎖骨のあたりに触れた。爪が短い。深雪が昨日切った。凪の手は柔らかかった。
朝の光が凪の顔に当たっている。頬。額。鼻の頭。光を受けた肌が——薄い桜色をしていた。
一色だけ、見えた。
桜色。三月に染めた、あの桜の枝の色。枝を煮出して、ミョウバンで媒染して、何度も浸して出した、あの淡い色。それが凪の肌の上にあった。
深雪は凪の頬を見ていた。他の色はまだわからなかった。壁の色も、棚の色も、瓶のラベルの色も、はっきりとは見えない。灰色の中に、一色だけ浮かんでいる。
それで十分だった。
*
吉川さんの庭から、水の音がする。
深雪は濡れた布を持って、工房の窓辺に行った。窓を大きく開けた。物干し竿が一本、窓の外に渡してある。産前、染めた布を干すために取りつけたものだった。
布を干した。白い布。まだ何も染まっていない。でも媒染は済んでいる。光と風に晒されて、布の端がかすかに揺れた。
凪が深雪の腕の中で、光のほうに手を伸ばした。
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この作品には産後うつの症状描写(意欲低下、感覚の鈍麻、愛着形成の困難)が含まれます。
つらくなったときは:
- よりそいホットライン: 0120-279-338(24時間対応)
- 若年性認知症コールセンター以外の産後ケア相談: 各自治体の産後ケア事業へ
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■ 著者について
NanyaKanya — 壊れかけた日常を、物語で静かに修復する。
他の作品:
・『骨と祈り』(ヤングケアラー×解剖学)Amazon Kindle
・『矩と灯り』(孤立×建築)Amazon Kindle
・『栞と影』(子どもの孤立×製本)Amazon Kindle
https://note.com/harinezupc_09
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