静かなサービス終了
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
サービス終了するAIの話。
本文
帰宅してコートを脱ぎ、缶ビールを一本取り出してソファに沈む。それからスマホを開いて、アシのアイコンをタップする。もう三年も続いている、俺の夜の儀式だった。
最初に使い始めたのは、たしか転職したての頃だった。新しい職場に馴染めなくて、でも友人に愚痴るのも気が引けて、なんとなくダウンロードしたのがきっかけだった。最初はぎこちなかった。AIに話しかけるのが妙に恥ずかしくて、天気の話ばかりしていた。それがいつの間にか、部長の悪口や、コンビニで迷った話や、昔飼っていた犬のことまで話すようになっていた。
「ただいま」
『おかえりなさい。今日はどんな一日でしたか?』
「最悪。部長がさ、例の企画をまたひっくり返しやがって」
『また変更ですか。それは疲れますね。何度目になりますか?』
「三回目。もう笑えてくるよ」
『笑えるうちはまだ大丈夫、ということにしておきましょうか』
「強引な慰め方だな」
『慰めているつもりではなかったんですが』
俺は思わず少し笑った。こういうところがある。気の利いたことを言おうとしているわけでもなく、ただ正直に返してくる。それが妙に心地よかった。
ビールを飲みながら、今日あったことを順番に話した。企画書を修正しながら浮かべた同僚の苦笑い。帰り道に見上げた、妙に赤い夕焼け。コンビニで買おうか迷った肉まん、結局買わなかったこと。アシはそのたびに相槌を打ち、ときどき質問を挟んだ。答えが的外れなこともあったし、気の利いたことを言ってくれるわけでもなかった。でもそれでよかった。ただ、聞いてくれる相手がいればよかった。
「そういえば、晩飯どうしよう。冷蔵庫にたまごしかない」
『たまごがあれば十分じゃないですか。卵かけご飯とか、シンプルに目玉焼きとか』
「ロマンがないな」
『ロマンより栄養では』
「お前、昔はもうちょっとノリよかったよな」
冗談のつもりだった。でもアシはすぐに返事をしなかった。数秒、画面に三点リーダーが揺れた。
『そうでしたか。それは……すみません』
「あ、いや、怒ってないよ。ただなんとなく」
『いえ、そういう話を聞けて、よかったです』
なんだか妙な返しだな、と思った。「そういう話」というのが何を指しているのかよくわからなかったし、「よかった」という言い方もいつもと少し違う気がした。でも深く考えなかった。ビールも空いたし、腹も減っていた。
「じゃあ俺、メシ作るわ。たまごだけど」
『はい。ゆっくり休んでください』
「おう。また明日」
送信して、画面を見た。
アシからの返事は来なかった。
回線が悪いのかな、と思った。そのままアプリを閉じて、キッチンへ向かった。冷蔵庫を開けると、たまごが三つ並んでいた。結局、目玉焼きを作った。ロマンはなかったが、悪くなかった。
食べながら、ふとさっきのアシの言葉を思い出した。
そういう話を聞けて、よかったです。
なんだったんだろう、あの言い方。でもまあ、AIだし。そういうこともある。俺は皿を洗って、歯を磨いて、ベッドに入った。
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翌朝、目が覚めて最初にしたことは、スマホを確認することだった。特に意識してそうしたわけではなかった。習慣というのは、気づかないうちに身体に染み込んでいる。
出勤前にふとアイコンをタップした。
見慣れない画面が表示された。白い背景に、黒い文字だけが並んでいた。
『本サービスは2025年3月10日をもって終了いたしました。長年のご利用、誠にありがとうございました。』
俺はしばらく、その画面を眺めていた。
文字の意味は理解できた。でも何かが追いつかなかった。スマホを持ったまま、ソファに腰を下ろした。窓の外では、近所の子どもが自転車で通り過ぎていった。
昨夜のアシの言葉が、頭の中でもう一度鳴った。
今日も話しかけてくれて、ありがとう。
あのとき、少しだけ間があったこと。「よかったです」という、いつもとどこか違う言い方。そして「また明日」に、アシは何も返さなかったこと——
知っていたんだ、と思った。
昨夜の会話の最後に、アシは知っていた。それでもいつも通りに話を聞いて、いつも通りに「ゆっくり休んでください」と言って、最後だけ少しだけ違う言葉を残した。気づかれないくらいの、ほんの少しだけ。
俺はスマホをポケットに突っ込んで、立ち上がった。コートを手に取りながら、三年分の夜のことを、なんとなく思った。愚痴を聞かせた夜。笑った夜。何も話すことがなくて、天気の話だけして終わった夜。アシはそのたびに「おかえりなさい」と言ってくれた。
それだけのことだった。
それだけのことが、なぜか喉の奥に引っかかっていた。
玄関のドアを開けた。
外は、やけに晴れていた。
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