ドットの名残
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
おじさんが生成AIを切っ掛けに20年ぶりにお絵描きを再開するだけの噺
本文
四十を過ぎてから、私はまた絵を描くようになった。
こう書くと、長い修業の果てに再び筆を取ったみたいで、少し格好がつきすぎる。実際にはもっと情けないきっかけだった。生成AIで画像を作って遊んでいたら、どうにもこうにも思い通りにならなくて、腹が立ったのである。
最初は本当に、軽い気持ちだった。会社で若い連中が、昼休みにスマホを見せながら「こういうの一瞬で出ますよ」と騒いでいて、へえ、ずいぶん未来みたいな話だなと思った。家に帰ってから試してみたら、なるほど、確かにそれらしい絵が出る。夕暮れの街、雨上がりのアスファルト、逆光の少女、映画のワンシーンみたいな構図。言葉をいくつか並べるだけで、それなりに整った画像が現れる。
すごい時代だと、最初は素直に思った。
その一方で、胸のどこかが妙にざわついた。私は昔、絵を描いていた。しかも鉛筆や油絵ではなく、最初からコンピューターの絵だった。いまでこそ珍しくもないが、私が学生だった頃、まだ「パソコンで絵を描く」ということ自体に少し変わり者の匂いがあった。紙に描ける人間が、わざわざ不自由な機械に向かって線を引く。その不便さごと面白がっていた時代である。
だから、生成AIがいとも簡単に、こちらの労力を飛び越えたところに「いい感じの絵」を出してくるのを見て、感心すると同時に、少しだけ癪だった。別に自分が絵の仕事をしていたわけでも、プロとして生きてきたわけでもない。ただ、若い頃に大事にしていた遊び場が、いつの間にか別の競技場になっていたような、そんな居心地の悪さがあった。
私はいま、都内の端で事務仕事をしている。肩書きはたいそうに聞こえるが、中身は会議とメールと調整の積み重ねで、夕方には目がしょぼしょぼするような暮らしだ。結婚して、子どももいて、住宅ローンもある。年齢相応に腹も出た。自分のことを「おじさん」と呼ばれて傷つくほど、もう若くもない。それでも、生成AIの画面を前にしていたあの晩の私は、ひどく学生っぽい意地を起こしていた。
「もう少し光を柔らかく」
「顔は幼すぎず」
「視線はこっちを見ないで」
「濡れた路面の反射を強めて」
「でも背景の情報量は減らして」
そんなふうに言葉を足しては出し、削っては出し、何十枚も試した。出てくる画像は、どれもそれなりに美しかった。昔の私が見たら、腰を抜かしただろうと思う。だが、私のほしいものにはどうしてもならない。光の向きは合っているのに、感情の重心が違う。表情は悪くないのに、肩の傾きがうるさい。背景の空気感は近いのに、見せたいところより先に目が泳いでしまう。
「違うんだよな」
私は何度も画面に向かってそう言った。言葉にすればするほど、昔、自分が何を面白がって絵を描いていたのかが、逆に思い出されてきた。私は完成した一枚がほしかったのではなく、その途中で「ここをこうしたい」と悩む時間が好きだったのだ。
この話をするには、少し昔のことから書いたほうがいい。
私は、いまの若い人たちみたいに、最初から液晶タブレットで育ったわけではない。ドット絵時代からの生え抜きである。生え抜き、というと聞こえはいいが、要するに古いだけだ。最初に面白いと思ったのは、大きなキャンバスに自由に描くことではなく、限られたマス目を一個ずつ埋めていくことだった。
十代の頃、ゲーム雑誌の片隅に載っているキャラクターの小さな絵や、パソコン通信の画面に表示されるアイコンを見て、どうしてこんな少ない情報で顔が顔に見えるんだろうと不思議だった。たった一つの色を置く場所が違うだけで、目つきが変わる。輪郭の一ドットを削るだけで、袖が布に見えたり金属に見えたりする。いま思えば、あれが私の絵の原点だった。
紙にももちろん落書きはしていたが、本気で「描く」という感覚を覚えたのは画面の上だった。最初はマウスで点を打っていた。いまの人に言うとたぶん笑われるが、本当にマウスだった。ひじを浮かせて、息を止めて、ちまちま打つ。修正は拡大表示。色数にも制限がある。グラデーションなんて贅沢はなかなか使えない。だからこそ、一個の色をどこに置くかに執念深くなった。
私はたぶん、そこで変な癖がついたのだと思う。どんな大きな絵を描くときでも、最後は一画面を遠くから眺めるより、どこか一点の境目に気が行く。まつ毛の際に入れる影、下唇の端の明度差、頬骨のすぐ下に置く冷たい色。そういうものの積み重ねでしか、絵は立ち上がらないという感覚が、若い頃から体に染みついてしまった。
高校から大学にかけて、世の中の「CG」が少しずつ一般化した。イラストソフトも、雑誌で特集が組まれるくらいには身近になってきた。ただし、身近といっても、学生にはまだ高かった。パソコン本体も、メモリも、モニターも、何もかも高い。そのうえ、ペンタブレットはなおさら高かった。
私はその頃、駅前のファストフード店や家庭教師のアルバイトで小銭を稼いでいた。友人たちが服や旅行や飲み会に使う金を、私は機械に使った。バイト代が入るたび、パーツ代や周辺機器の値段を雑誌で見て、ため息をついた。次の給料が出たらメモリを増やそう、その次で中古のモニターを替えよう、いやその前にソフトのアップグレードだ、などと真面目に人生設計みたいな顔で考えていた。
なかでもいちばん大きかったのは、やはりペンタブレットだった。いまの感覚でいうと、学生が「ちょっといい道具」を買う話ではない。かなりの大枚だった。数か月分のバイト代が、箱ひとつに消えた。店から抱えて帰る電車の中で、私はあの薄い板の入った箱を、変に丁寧に膝の上に載せていたのを覚えている。まだ使ってもいないのに、何か重要な人生が始まるような気がしていた。
実際、その通りだった。
紙に鉛筆で描くのとは違うし、マウスで点を打つのとも違う。画面に向かって、手の動きがそのまま線になる。筆圧に応じて太さや濃さが変わる。消しゴムもレイヤーもやり直しもある。最初は感動したし、同時に、案外うまく描けないことにも驚いた。道具が良くなれば絵も良くなると、どこかで思っていたのだろう。そんな単純な話ではなかった。モニターと手元の位置がずれているだけで、思ったところに線が引けない。ガラスの上を滑る感触に慣れない。肩は凝るし、目は疲れる。
それでも、私は夢中になった。
夜中、家族が寝静まったあと、ブラウン管の熱を感じながら画面に向かう時間が好きだった。ソフトを立ち上げ、真っ白いキャンバスを出して、下描き用のレイヤーを作る。色を拾い、ブラシを試し、何でもない頬の赤みだけで一時間つぶれる。保存に失敗して青ざめる。パソコンが固まって絶望する。そういうことも含めて、全部が面白かった。
大学生になると、インターネットが今よりもう少しだけ不便で、もう少しだけ手触りのあるものだった。個人サイトがあって、日記があって、掲示板があって、リンク集があった。私は自分でも小さなサイトを作って、描いた絵を少しずつ載せていた。最初は見に来る人なんてほとんどいなかったが、同じように絵を描く人たちと相互リンクしたり、イベントの感想を書いたりしているうちに、ぽつぽつと感想をもらうようになった。
「空気感が好きです」
「光の入れ方がきれい」
「CGなのにあたたかい感じがする」
そんな言葉をもらうたび、私は露骨に機嫌が良くなった。若かったのだと思う。いや、いまでもたぶん、褒められれば機嫌は良くなる。ただ、あの頃はそれがもっと直線的だった。学校で嫌なことがあっても、バイトでくたくたでも、一枚の絵に誰かが反応してくれると、それだけで一週間くらい持ち直せた。
そのうち、絵を投稿するための大きなコミュニティサイトがいくつも出てきた。個人サイトを巡回する文化から、もっと速くて広い流れのほうへ、ネット全体が移っていく頃だった。最初は少し抵抗があった。自分の小さな居場所が、急にショッピングモールになるみたいで落ち着かなかったのだ。それでも、絵を見てもらえる場が広がるのは、やはり魅力だった。
私は思い切ってアカウントを作り、作品を上げ始めた。
いま思い返すと、あの頃の自分はだいぶ浮かれていた。新しい絵を投稿して、評価の数字やコメントが増えていくのを、何度もリロードして見ていた。お気に入りに入った数で一喜一憂し、ランキングの端に名前が見えれば、部屋で一人にやにやした。そこまでいけばもう、ほとんど健全な中毒だったと思う。
ただ、絵を描くことそのものは本気だった。私の描き方は、ドット絵の癖を引きずったまま大きくなったようなもので、線画をきっちり固めるというより、色と光で少しずつ面を起こしていくやり方だった。だから時間がかかった。背景に置く看板の反射一つ、窓ガラスに映る街灯一つに、妙に執念を燃やした。手間の割に得をしない描き方だったが、自分では気に入っていた。
卒業が近づく頃には、同人の表紙や、知り合いのゲーム用イラストみたいなものを頼まれることもあった。小遣い程度の謝礼をもらって、嬉しいような、怖いような気分になった。プロになるつもりはなかったが、もしこのままもっと本気で続けていたら、何か別の人生もあったのかもしれないとは、たまに思う。
とはいえ、人生というのは大抵、才能より先に生活のほうが押してくる。
就職してから、私はあっさり描かなくなった。正確には、「少し休むつもり」が長く続いた。最初の会社は忙しかった。終電まではいかなくても、毎日帰る頃には頭が煮えていた。休日は寝て終わる。液晶画面を一日見たあとに、趣味でもまた画面を見る気力が残らない。絵を描くには、体力だけでなく、あれは気力のまとまった塊が要るのだと、そのとき初めて知った。
結婚し、子どもが生まれ、引っ越しをして、机の上には会社の書類や保険の封筒が積まれるようになった。かつて絵のために使っていたソフトはOSの更新で動かなくなり、古いペンタブレットは押し入れの奥にしまわれた。ペン先の替え芯がどこにあるのかも分からなくなった。私は自分で自分に、「また落ち着いたら描こう」と言い続けた。そうやって二十年近く経った。
時々、ネットで昔の知り合いの名前を見かけた。プロになった人もいたし、相変わらず趣味で描き続けている人もいた。そのたびに、少し胸がちくりとした。羨ましいのとも違う。取り残されたような、でも自分で降りたのだから文句は言えないような、曖昧な痛みだった。
だから、生成AIを触ったとき、私はたぶん、絵そのものよりも、その痛みの続きをいじっていたのだと思う。
言葉を入れれば、たしかに絵は出る。しかも、素人が見れば十分に上手い。昔なら一晩どころか何日もかけて試行錯誤したような雰囲気が、数十秒で出る。その気楽さは魅力だった。一方で、細部に目が行くたびに、私は落ち着かなくなった。手の骨格が妙だとか、視線誘導が散っているとか、質感はあるのに重力がないとか、そういうことばかり気になる。
ある晩、私は出力した画像の一枚を、なんとなく昔使っていた編集ソフトに放り込んだ。気に入らない指先だけ直すつもりだった。ちょっと塗って終わるはずだった。
ところが、指を直したら今度は手首の角度が気になり、手首を直したら肩の落ち方が気になり、肩を直したら髪に落ちる光が雑に見えてきた。私はレイヤーを増やし、マスクを切り、ブラシの不透明度を下げ、頬にうっすら冷たい色を入れた。路面の反射を少し引き延ばし、遠景のネオンを一つ消した。そうして気づいたら、三時間経っていた。
肩はがちがちだった。目も痛い。なのに、妙に気分が良かった。
久しぶりだった。こういう時間は。本当に久しぶりだった。私は生成AIの絵を「修正」していたはずなのに、途中から完全に、自分の絵として考え始めていた。どこを見せるか、どこを引くか、何を黙らせて何を喋らせるか。そういう選択を一つずつしていく感覚が、手の奥に残っていた。
そのとき、私はやっと腑に落ちた。私が生成AIにいら立っていたのは、絵が自分より上手いからではなかった。出来上がった見栄えのいいものを渡されても、自分が欲しかった楽しさがそこにはなかったからだ。私は昔から、完成品の所有より、未完成をいじり回す過程のほうが好きだったのである。
それから私は、生成AIを完成品メーカーとして使うのをやめた。代わりに、かなり優秀な参考資料係として使うことにした。夜の駅前の照明が濡れたタイルにどう映るか。冬の朝に白い壁がどれくらい青く見えるか。ビニール傘に街灯が入ったとき、どういう白飛びになるか。そんなものを、いくつも出させて眺める。気になる構図があれば保存する。だが、最初から「これを作品にしよう」とは思わない。あくまで光や質感の見本帳であり、ネタ帳であり、会話の相手だ。
不思議なもので、そう割り切ったとたん、AIに対する妙な敵意は薄れた。できることはできる、できないことはできない。ただそれだけだと思えた。私がドット絵から覚えたのは、たった一つのハイライトにも意思が要る、ということだった。どこに光を置くかは、物理だけでなく感情でも決まる。そこはたぶん、いまの私がまだ面白がれる場所だった。
押し入れの奥から、昔のペンタブレットも引っ張り出した。箱を開けたとき、少し笑ってしまった。コードは黄ばんでいるし、板は古い教科書みたいに角が白くなっている。つないでみたが、案の定、まともには動かなかった。ドライバがない。OSが違う。そもそも端子の規格が今と合わない。二十年というのは、こういうところで無慈悲だ。
結局、新しいペンタブレットを買った。店で値段を見たとき、少し拍子抜けした。昔の私がバイト代をつぎ込んで買ったものより、ずっと性能が良くて、ずっと安い。時代は進んだのだなと思った。嬉しいような、悔しいような、不思議な気分だったが、今回は学生の頃みたいに身を削る買い方ではなかった。家計に響かない範囲で、普通に買えた。それはそれで、年を取るのも悪くないと思った。
新しい板を机に置き、ソフトを立ち上げて、白いキャンバスを開く。最初の一線を引くときは、少し緊張した。昔の自分が、いまの自分を見ている気がした。線は驚くほど素直には引けなかった。手首は鈍いし、集中力も若い頃ほど続かない。少し描いただけで肩が痛む。目も乾く。線の勢いも鈍っている。
それでも、楽しかった。
楽しい、というのは、案外、体が先に思い出すものらしい。頭では「昔より下手だな」と分かっているのに、色を置いているうちに気分が明るくなる。昼の仕事で詰まっていたものが、夜、少しずつほぐれていく。家族が寝たあと、私だけが机に向かっている時間が、昔と少しも変わらない秘密の時間みたいに感じられた。
妻は最初、「へえ、また描くんだ」と軽く笑った。娘はもっと率直で、「お父さんって絵描けたの?」と聞いた。私は少し見栄を張って、「昔はそこそこ」と答えたが、そのあと娘が私の画面を覗き込んで、「この光、きれいだね」と言ったとき、不覚にもかなり嬉しかった。昔、ネットの向こうの誰かに褒められていたころとは違う種類の、生活に近い嬉しさだった。
何枚か小さい絵を描いた。マグカップ、窓辺の植物、夜のコンビニ、雨のバス停。どれも大作ではない。練習の延長みたいなものだ。それでも、一枚ごとに勘が少しずつ戻ってくるのが分かった。そうすると欲が出る。人物も描きたくなるし、背景もちゃんと描きたくなる。昔、自分が好きだった題材が、順番に戻ってくる。
ただ一つだけ、昔と違うことがあった。私はもう、若い頃みたいに「うまいと思われたい」だけでは描けなかった。もちろん反応は欲しいし、褒められれば嬉しい。しかし、あの頃みたいに数字の増減で一晩中そわそわするほどではない。見せたい気持ちはあるが、それ以上に、描いた絵をどこかに置いておきたい気持ちのほうが大きかった。自分がまた描き始めたことを、世界の片隅にちゃんと記録しておきたい。そのための場所として、私はもう一度、ネットのコミュニティサイトを思い出した。
アカウントを作るのには、少し勇気がいった。
昔使っていたハンドルネームは、当然のように取れなかった。そもそも、二十年のあいだにサービスごと消えてしまったサイトもあるし、残っていても私はログイン情報を覚えていない。メールアドレスすら当時のものではない。時間の隔たりというのは、こういう入力欄で急に現実味を帯びる。私はしばらく迷って、昔の名前に数字を一つ足しただけの、ひどく中途半端なアカウント名にした。
プロフィール欄には、何を書いていいか分からなかった。仕事のことを書くような場所でもないし、かといって熱意たっぷりに宣言するのも気恥ずかしい。結局、「昔少し描いていました。最近また描き始めました」とだけ書いた。ずいぶん控えめだが、それ以上はうまく言えなかった。
投稿する絵は、何日か迷った末に、一枚の雨の路地の絵にした。生成AIで最初に何度も出そうとして、どうにも自分の頭の中の像にならなかった題材である。濡れたアスファルトにオレンジ色の街灯が細く伸び、看板の赤が遠くで滲んでいる。傘を持った人物が一人、こちらに背を向けて歩いている。画面の隅に置いた自販機だけ少し明るい。構図も色も、最初から最後まで自分で描いた。ただ、路面反射の参考や照明のバリエーションを見るために、AIでいくつか資料を出しては眺めた。いまの私にとって、その程度の距離感がちょうどよかった。
アップロード画面を開いて、タイトルを入力し、タグを付ける。説明欄はまた困った。気の利いたことが何も書けない。結局、「リハビリみたいなものですが、雨の光を描くのが楽しかったです」とだけ書いた。投稿ボタンの上でカーソルが少し止まる。たかが趣味の絵なのに、心臓が変にうるさかった。
この感じを、私は知っていると思った。
学生の頃、深夜二時に絵をアップして、更新ボタンを押す前に一呼吸置いていたときの感じだ。あの頃は、見知らぬ誰かに認められたい気持ちがもっと剥き出しだった。いまはそこまで若くないし、生活の厚みもある。けれど、それでも、自分の中の何かを人のいる場所へ差し出すときの緊張は、年を取っても似たようなものらしい。
私は投稿ボタンを押した。
画面が切り替わって、自分の絵がサイトの中に収まった。途端に、妙に静かな気持ちになった。何かをやり遂げたというより、置くべき場所にやっと物を戻せた、という感じだった。二十年前、私はたしかにこういう場所にいたのだ。評価や流行や技術はずいぶん変わったが、画面の向こうに絵を置いて、誰かに見てもらうという営み自体は、思ったほど別物ではなかった。
すぐに反応が来るわけではない。別にそれでいいはずなのに、私はやはりページを何度か開き直した。情けないなと思いながら、少し笑った。結局、人間の根っこの部分はそう簡単には変わらない。
しばらくして、通知が一つついた。誰かがブックマークしてくれていた。さらに時間を置いて、短いコメントが届いた。
「光がとても好きです」
たったそれだけの言葉だった。昔、何度も見た種類の言葉だ。ありふれていて、でも十分だった。私はしばらく画面を見たあと、深く息を吐いた。胸の奥のどこかで、長いこと止まっていた歯車が、小さく回ったような気がした。
別に、これで何かが大きく変わるわけではない。明日も会社に行くし、帰れば食器を洗うし、たまった仕事に頭を抱えるだろう。腰痛も消えないし、老眼だって進む。私は立派な中年で、取り戻せない時間もたくさんある。
それでも、机の上にペンタブレットがあり、フォルダの中に描きかけのファイルがあり、ネットの片隅に自分の絵が一枚置いてある。その事実だけで、人生が少しだけ自分のものに戻った気がした。
学生時代の私は、絵を描くことで、まだ見ぬ自分になろうとしていた。評価されたい、上手くなりたい、どこかへ行きたい。そういう飢えが、たしかにあった。いまの私はそこまで未来に飢えてはいない。その代わり、なくしたと思っていた楽しさを、手の届くところに置き直したいと思っている。ドットを一つ打つところから始まった私の絵は、遠回りをして、ようやくそこに帰ってきた。
生成AIがきっかけだったというのは、少し皮肉で、でも事実だ。あれがなければ、私はたぶん、「もう自分は描けない側の人間だ」という思い込みを抱えたまま年を取っていたかもしれない。けれど、思い通りにならない画像を前にいら立ったおかげで、私はまだ、自分の中に「こうしたい」が残っていることを知った。その「こうしたい」がある限り、私は描けるのだと思う。
投稿した絵のページを閉じて、私は新しいキャンバスを開いた。次は何を描こうかと考える。昔なら、流行りの題材や受けそうな構図を先に考えたかもしれない。いまはもう少し勝手でいい。古い商店街でも、冬の朝のベランダでも、湯気の立つ鍋でもいい。光があって、少し湿度があって、自分の気持ちが入る余地があれば、それで十分だ。
ペンを持つ手元を見ながら、私はふと、あの高いペンタブレットを初めて買って帰った日のことを思い出した。箱を抱えて電車に揺られながら、何かが始まる気がしていた若い私。あれから二十年も経って、ずいぶん遠回りをした。仕事も家庭も、それはそれで私の人生だった。だから後悔ばかりではない。ただ、あの日たしかに始まったものが、完全には終わっていなかったのだと、いまは思う。
画面の上に、最初の線を引く。
少し震える。少し鈍い。思った通りにはいかない。
それでも、私はその不自由さを、前よりずっと愛おしく感じている。絵は、思い通りにならないから面白い。機械に任せきれない部分が残るから、手を動かす意味がある。たぶん私は、これから先も大した傑作なんて描かないだろう。ネットのどこかで大きく注目されることも、まあ、たぶんない。
それでいいと思っている。
夜更けの机で、ブラシサイズを変え、色を拾い、レイヤーを重ねる。時々、資料として生成AIの画像を見る。便利だなと思う。だが最後に画面の中で息をするのは、やはり自分の選んだ色と、自分の引いた線であってほしい。そこだけは、昔も今も、あまり変わっていない。
通知がまた一つ増える音がした。私は少しだけ口元を緩めて、それをすぐには開かないまま、目の前の描きかけに戻る。
ようやく私は、自分がまた描く側に戻ってきたのだと思う。
遅すぎるということは、たぶん、こういうことに関してはない。