よく晴れた日の転落事情
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あらすじ
高度な魔法と科学が融合した世界から科学が発達していない魔法だけの世界に転移した双剣使いの物語
本文
風の匂いが変わった、と思った。
それは言語化するならそうとしか言えない類の感覚だった。ほんの一呼吸前まで肺を満たしていたのは、イクシードの第四層特有の——魔導炉の排熱と情報端末群が放つ微弱なオゾンが混ざった、金属めいた清潔さを持つ空気だ。それが突然、湿り気を帯びた土の匂いに入れ替わる。頬に当たる光も変わっている。統合都市の人工陽光は均質で白いが、今まぶたの裏を赤く透かしているのは、もっとむらがあって、もっと温かい光。
ナギ・カゼサキは目を開け、そして笑った。
「……いや、参ったな」
理由は単純で、足の下に地面がなかったからだ。
空中にいた。それもかなりの高度で、眼下には石造りの街並みが広がり、赤茶けた屋根が午後の陽を浴びてちぐはぐな橙に光っている。普通なら悲鳴の一つも上げるところだが、体が落下に入るまでのわずかな浮遊時間に、ナギが最初にやったことは周囲の確認だった。落ちる先に何があるかで対処が変わる。人の多い通りか、水場か、それとも——。
街の外縁部に、木々の茂った緑地が見えた。あそこなら枝を使って減速できる。腰の双剣——左が長く右が短い不揃いの二振り——に意識を向け、鞘の留め金を外す。
自由落下は思ったより穏やかだった。体の周囲を渦巻く空気が奇妙に柔らかく、本来あるべき速度よりいくらか遅い気がする。気のせいだろう。ナギは深く考えず、眼下の木の枝に狙いを定め、長剣を振り抜いて太枝に突き立てた。衝撃が腕に走り、体が振り子のように弧を描く。その勢いのまま剣を引き抜いて隣の枝に飛び移り、三度跳んで地面に降りた。
着地の衝撃を膝で殺し、立ち上がる。土の感触が足裏に新鮮だ。靴底を通してさえ、この地面がイクシードの合成舗装とはまるで違うことが伝わってくる。
周囲は雑木林で、鳥の声が高い。木漏れ日が地面にまだらな光の模様を落とし、遠くから水の流れる音が聞こえる。空は突き抜けるような青で、雲一つない。
「いい天気だ」
状況を考えれば呑気にもほどがある感想だったが、ナギは実際にそう思ったのだから仕方がない。ここがどこかは分からない。自分の世界から何千リーグ離れているのかも見当がつかない。だが空は青く、風は心地よく、両腕に剣がある。当面の生存に問題はなさそうだった。
方角は——街の中心にひときわ高い石塔が見える。蒼い結晶を頂く塔は目印としても一級品だ。あちらへ向かえば、少なくとも人には会えるだろう。
雑木林を抜けて街に入ると、ナギは内心で一つ感嘆した。
石畳の道は狭く曲がりくねり、建物は継ぎ足しに継ぎ足しを重ねた不揃いな石壁で構成されている。窓は油紙張り。通りを行く人々の衣服は手織りの厚布を何重にも巻いたもので、色は藍と茶の草木染めが主流。魔導繊維も粒子灯もなく、情報端末の影も形もない。辻には松明台が立ち、水は井戸から汲んでいる。それでいて、石塔の結晶だけは確かに魔術の産物だった。
科学なき魔術文明。ナギの世界とは、進化の道筋が根本から異なっている。
面白い——と、その思考を遮るように、地面が揺れた。
足元から腹の底に響く振動。同時に、街の外縁部——先ほどナギが降り立った緑地の方角から、何かが軋む轟音が届く。通りにいた人々が一斉に足を止め、それから弾かれたように走り出した。子供の手を引く母親、荷物を投げ出す行商人、老人を背負う若い男。逃げている。全員が、同じ方向から離れようとしている。
人の流れに逆らって歩くのは、ナギにとって慣れた行為だった。イクシードでもそうだ。みんなが逃げる方角にこそ、処理すべき問題がある。
通りを抜け、街外れの広場に出た瞬間、視界が黒く塗りつぶされた。
四足歩行の巨獣が、広場の石畳を砕きながら這い出てきたところだった。黒い甲殻が鈍く光り、隙間から紫の脈動が明滅している。体高は建物二階分に迫り、扁平な頭部の六つの複眼が忙しなく動いていた。口腔から紫色の蒸気が漏れ、それが触れた石畳の表面がじわりと黒ずんでいく。
その巨獣の前に——一人、立っている人間がいた。
灰色の制服に身を包んだ背の高い女性だった。長い黒髪を一つに束ね、両手で柄の長い戦槌を構えている。袖口と襟元に白い線が二本ずつ入っている——何かの階級を示す印だろうか。右の頬に擦り傷、膝から下は泥にまみれ、戦槌の石頭には既にひびが入っている。それでも退かない。その背後に、逃げ遅れた子供を庇うように。
彼女の足元が震えていた。戦槌を握る手の甲に浮いた腱の一本一本が、恐怖と、それを上回る意志の拮抗を物語っている。唇が薄く開き、何かを叫ぼうとして——声になる前に、巨獣が前脚を振り上げた。
「おっと」
ナギの体は考えるより先に動いていた。双剣を抜き、地面を蹴り、巨獣の前脚と女性の間に滑り込む。短剣で爪の先端を弾き、長剣の峰で前脚の軌道を外側にずらす。完全には受け止められない。受け止める必要もない。逸らせばいい。
前脚が彼女の横を通過し、石畳を叩き割る。破片が舞う中、ナギは女性と子供の前に立った。
「よう。景気悪そうな顔してるね、お嬢さん」
女性は一瞬呆気に取られたように目を見開き、それからすぐに表情を引き締めた。
「——何者だ。ここは危険だ、市民は避難を」
「市民じゃない。通りがかりの旅人。で、あれは何? でかいね」
「ふざけてる場合か!」
「ふざけてない。戦うつもりだから聞いてるんだ」
巨獣が体勢を立て直し、再びこちらに向き直る。六つの複眼がナギと女性を交互に捉え、低い唸り声が腹を震わせた。会話の猶予はあまりない。
女性はそれを理解していた。一つ息を吸い、吐き、報告するように簡潔に言う。
「穢蝕獣。地中の魔素が濁って凝固した災害獣だ。外殻の下、胸部に核がある。核を壊せば止まる。ただし正面の甲殻が最も厚い」
「なるほど、正面は無理。じゃあ横か下か」
「下方からなら甲殻の継ぎ目に入れる可能性がある。だがあの脚の間に潜り込むのは——」
「楽しそうだ」
女性が何か言いかけたが、ナギは聞いていなかった。既に走り出している。
穢蝕獣の動きは鈍い。巨体に見合った膂力はあるが、方向転換が遅い。ナギは右へ左へと不規則な軌道で接近し、長剣で前脚の甲殻を叩いて注意を引く。手応えは硬いが、この硬さには慣れがある。イクシードの魔獣の甲殻とは組成が違うものの、力の逃がし方は似ている。
背後で女性が動いた。子供を安全な路地に送り出し、戦槌を構え直して反対側から接近している。打ち合わせなしでの挟撃。判断が速い。
「左脚を叩く。動きを止めるから、下に入ってくれ!」
女性の声は戦場で通る、よく響く低めの声だった。戦槌を大きく振りかぶり、穢蝕獣の左前脚の関節に渾身の一撃を叩き込む。ひびの入った石頭がさらに砕けかけるほどの衝撃に、巨獣がよろめいた。
その瞬間にナギは地面に身を投げ、穢蝕獣の腹の下を滑った。仰向けに滑走しながら見上げる腹部の甲殻は、背面や側面に比べて明らかに薄い。継ぎ目もはっきり見える。短剣を逆手に持ち替え、継ぎ目に突き立てた。
甲殻の一枚が浮き、紫の光が噴き出す。だがまだ核には届かない。もう一手——長剣を甲殻の隙間に差し込み、梃子の要領で押し広げる。そのとき、ナギの腕の周囲で空気が渦を巻いた。刃に乗せた力以上の何かが甲殻を引き剥がし、紫に脈打つ肉が露出する。
面白い現象だが、今は考えている場合じゃない。
「——核が見えた! でも手が足りない。あと一撃、ここに打ち込める!?」
「退け!」
叫びと同時にナギが転がり出ると、入れ替わるようにして女性が腹の下に突進してきた。戦槌を両手で振り上げ、ナギが開いた穴に石頭を叩き込む。砕ける音が二重に響いた。戦槌の石頭と、穢蝕獣の核と。
巨獣が絶叫し、六つの複眼が同時に明滅して消えた。黒い甲殻から紫の光が急速に引いていき、体を支えていた力が失われたかのように、巨体が崩れ落ちる。ナギは最後の転がりで衝撃圏を離脱し、女性は叩き込んだ姿勢のまま前方に跳んで巨体の下敷きを免れた。
地鳴りのような倒壊音が広場に響き——そして、静かになった。
ナギは仰向けのまま空を見上げた。青い。雲がない。穢蝕獣が巻き上げた土埃が薄いヴェールのように陽光の中を漂い、粒子の一つ一つが金色に光っている。
「いい天気だなあ」
「……は?」
女性の声が呆れ果てた響きで降ってきた。同じく地面に転がった姿勢のまま、砂埃にまみれた顔でこちらを見ている。束ねた黒髪がほどけかけ、額に張りついていた。
「いい天気だと言ったんだが」
「聞こえてる。状況に対する感想がおかしいと言っている」
「死にかけた後の空って、やけに綺麗に見えないか?」
女性は数秒間、何か言いたげに口を開閉させてから、諦めたように深い息を吐いた。
「……変な人だ」
「よく言われる」
ナギは軽く跳ね起き、埃を払って手を差し出した。女性はその手を一瞬見つめ、戦槌の柄で自力で立ち上がった。ナギは空振った手をひらひらと振って、気にした様子もなく笑う。
改めて見ると、彼女の制服はあちこちが裂け、泥と獣の体液にまみれている。戦槌の石頭は完全に砕け、残ったのは柄だけだ。右手の指は腫れ上がり、握力はほとんど残っていないだろう。それだけ消耗しながら、最後の一撃をあの精度で打ち込める胆力。あの袖口の白線が見習いを示す印だとしたら、正規の兵士はどれほどのものなのか。
「——リーネ。第三守備隊、候補生」
名乗りは硬く、ほとんど報告の口調だった。
「感謝する。貴殿の介入がなければ、被害はさらに拡大していた」
「堅いね。ナギでいいよ。ナギ・カゼサキ。見ての通り——」
「この国の人間ではないな。装備も、身のこなしも、見たことがない体系だ」
リーネの観察眼は鋭かった。ナギの双剣、外套に織り込まれた術式紋様、靴底の合成素材。この世界の技術水準からすれば異物だらけのはずだ。それを警戒としてではなく情報として処理する冷静さに、ナギは内心で感心した。
「ま、長い話になるから後で——」
言いかけて、足元に目を落とす。広場の石畳の亀裂から、紫の光が滲み始めていた。穢蝕獣の亡骸の周囲だけでなく、広場のあちこちで。地面そのものが蝕まれたように。
「……おっと。こっちの方がまずそうだ」
「地脈汚染——」
リーネの声から感情が消えた。事態の深刻さを正確に理解した者の、凍りついた冷静さだ。
「穢蝕獣は症状であって病そのものではない。地脈が汚染されれば、次から次へと湧く。このままでは——」
「街が保たない?」
「ああ」
短い沈黙。ナギは頭の後ろで手を組み、石塔の方角に目をやった。蒼い結晶が鈍い光を放っている。鈍い。本来の出力ではないのだろう。
「あの塔の結晶、浄化装置みたいなものだろう。光が弱ってる」
リーネの眉が跳ね上がった。
「よく分かるな。鎮めの塔は地脈の魔素を濾過して浄化する。あの結晶が正常なら、汚染はここまで進まないはずだ」
「じゃ、直しに行こう」
「——簡単に言うな。塔の保守は浄化術師の管轄で、候補生の権限で塔に入ることは——」
「権限の話は終わった後でいいだろう。先に街がなくなったら権限も何もない」
リーネの眉が寄った。規律に従うべきだという訓練された判断と、今この瞬間に行動しなければ手遅れになるという現実認識が、彼女の中で激しくぶつかっている。その葛藤が、噛みしめた唇と、拳の中で軋む戦槌の柄に表れていた。
「……着いてこい。道を案内する」
走り出したリーネの横に並ぶと、彼女の呼吸が荒いことに気づいた。穢蝕獣との戦闘で体力を相当消耗しているはずだ。それでも速度を落とさない。落とせない、と彼女自身が自分に言い聞かせているのが分かる。
「無理するなよ。辿り着く前に倒れたら元も子もない」
「無理はしていない」
「嘘が下手だね」
リーネが横目で睨んできたが、言い返さなかった。代わりに速度をわずかに落とし、呼吸を整え直す。意地は張るが、助言は聞く。その折り合いのつけ方に、ナギは妙な好感を覚えた。
石塔の扉は分厚い石造りで、表面の蒼い紋様が弱々しく脈動している。リーネが制服の袖をかざすと認証が反応し、扉が軋みながら開いた。
塔の内部は螺旋通路が頂上まで続く構造で、壁面を蒼い導管が血管のように走っている。その導管の何本かが黒く変色し、紫の侵食が広がっていた。汚染された導管の表面は脂汗のような黒い液体を滲ませ、触れた空気すら紫に染まっている。
「これが原因か。導管が汚染されて、結晶に汚れた魔素が送り込まれてる」
リーネが導管の状態を検分しながら、声を低くした。
「本来なら浄化術師が防護術をかけて一本ずつ浄化する作業だ。術師なしでは——」
「浄化できなくても、切り離せばいい」
ナギは導管の分岐構造を指でなぞりながら言った。汚染は全体に均等ではなく、特定の支線に集中している。幹線は比較的健全だ。
「汚染された枝を切って、きれいな幹線だけで結晶に魔素を送る。出力は下がるだろうけど、浄化機能そのものは回復する」
「……なぜそんな発想が出る。術師でもないのに」
「俺の世界だと、魔導配管の障害復旧って新入りが最初に習う基礎なんだよ。壊れたところを迂回して機能を維持する。どこの世界でも配管トラブルの対処法は一緒さ」
リーネの表情が複雑に揺れた。納得と困惑と、それからかすかな——感心のようなもの。
「汚染導管は直接触れれば術者でなくとも蝕まれる。切断するなら——」
「刃物で一息にやれば接触は最小限だ。任せてくれ」
「……私は外で穢蝕獣を抑える。地脈汚染が進めば、さっきの個体より早く次が出る」
リーネは砕けた戦槌の柄を見下ろし、唇を引き結んだ。武器がない。それでも外に出ると言い切る、その覚悟に滲む不安と決意を、ナギは茶化さなかった。代わりに、腰の短剣を鞘ごと外して差し出す。
「これ使いな。俺は長剣一本で足りる」
「借りは返す」
「期待してる」
リーネが階段を降りていく足音が遠ざかるのを聞きながら、ナギは長剣を抜いた。
一本目の汚染導管に刃を当てる。切断の瞬間、紫の瘴気が噴出して手袋の上から肌を灼いた。熱い。だが深くはない。一息で斬り落とし、切断面から黒い液体が飛沫を上げる。
「痛いね、これは」
誰に言うでもなく呟きながら、二本目に取りかかる。斬る。三本目。斬る。腕を伝う痺れが強くなる。四本目に刃を入れた瞬間、切断面から吹き出した瘴気が渦を巻いた。ナギの体を中心に螺旋を描く紫の靄——だがそれは、まるで見えない手で掻き消されるように急速に薄まっていく。ナギの周囲だけ、空気が異様に清い。
「……また変なことが起きてるな」
穢蝕獣との戦闘でもそうだった。ナギの体の近くで、空気が不自然に動く。追い風が吹き、瘴気が散り、力が少しだけ上乗せされる。まるで風がナギの味方をしているかのように。
まあ、考えるのは後だ。今は目の前のことに集中する。
五本目を切った瞬間、塔が振動した。壁面の健全な導管が一斉に輝きを増し、蒼い光の奔流が螺旋通路を駆け上がっていく。頭上で結晶が呼応するように脈動し、その光が爆発的に膨れ上がった。
窓から差し込む光が蒼に染まった。塔の外で、光の柱が天を突き上げるのが見える。街全体を蒼い浄化の光が洗い、石畳の亀裂から滲んでいた紫が潮のように引いていく。
ナギは長剣を鞘に収め、窓枠に寄りかかって外を見た。
広場でリーネが片膝をついていた。借り物の短剣を握ったまま、肩で大きく息をしている。その前方で、新たに現れたらしい穢蝕獣が蒼い粒子に分解され、風に乗って消えていくところだった。
間に合った。
塔を降りて外に出ると、リーネは立ち上がってこちらを向いた。泥と埃と穢蝕獣の体液にまみれた顔は凄惨だったが、その奥にある表情は——安堵と、疲労の極みに達した者が見せる独特の穏やかさ。
「やったな」
「……ああ」
リーネは短剣をナギに返し、それからしばらく何も言わなかった。言葉を探しているのだ。生真面目な人間が、定型の感謝では足りない場面に立たされた時の沈黙。ナギはそれを急かさず、空を見上げて待った。
「礼を言う」
「どういたしまして」
「——最後まで聞け。礼を言う。そして、詫びる。貴殿を巻き込んだ」
「巻き込まれたんじゃなくて、自分で飛び込んだんだけどね。勝手に詫びられても困るよ」
リーネの眉がぴくりと動いた。反論しかけて、やめて、代わりに小さく息をついた。
「……報告書を書かねばならない。候補生が独断で鎮めの塔に部外者を——」
「ああ、怒られるやつだ」
「確実に始末書だ。下手をすれば候補生資格の一時停止もある」
その言葉に苦みはあったが、後悔はなかった。同じ状況になれば同じ選択をする——そういう人間なのだろう、この女性は。正しいと思うことのために面倒を引き受け、それが報われなくても文句を言わない。言わないことに慣れてしまっている。
「なあ、リーネ。始末書の書き方で困ったら手伝うよ。俺、報告書の類は得意なんだ」
「……報告書が得意な剣士というのは初めて聞いた」
「色々やらされるとね、何でも上手くなるもんだよ」
リーネは怪訝な顔をしていたが、ナギの軽さに毒気を抜かれたのか、張り詰めていた肩の力がようやく緩んだ。
「行くあてはあるのか」
「ないね。ここがどこかも分かってない」
「……駐屯地に、事情聴取用の客間がある。手続きは私が——いや、候補生の裁量では無理だ。隊長に掛け合う必要がある」
「掛け合ってくれるの?」
「この街を救った人間を路頭に迷わせて、その報告書を書く方が面倒だ」
それは理屈であって、理屈だけではなかった。リーネなりの——不器用で回りくどい、善意の表明。ナギにはそれが分かったから、素直に笑った。
「助かる。よろしく頼むよ、リーネ」
名前を呼ばれて、リーネが一瞬だけ拍子を外されたように瞬いた。それからすぐに視線を逸らし、歩き出す。
「着いてこい。日が暮れる前に着かないと門が閉まる」
「了解」
並んで歩き出すと、風が吹いた。二人の間を通り抜け、リーネのほどけかけた髪を揺らし、ナギの外套を膨らませる。石塔の蒼い結晶が夕陽と重なり、街全体が青と橙の二色に染まっている。
「今日は風が強いな。この辺りはいつもこうなのか」
リーネが訝しげに首を振った。
「いや。この地域は盆地で、普段は風が弱い。今日は——異常だ」
「異常か。でも気持ちいいだろ、この風」
「……まあ、悪くはない」
ナギは笑って、両手を頭の後ろで組んだ。どこから吹くとも知れない風が、彼の一歩一歩に合わせるように穏やかに流れ続けている。まるで見えない何かが、この地に降り立った彼を祝福しているかのように。
その風の正体に、ナギが気づく日は来ない。少なくとも、今日ではない。だが風は確かにそこにあり、彼が笑っている限り、吹き止むことはないだろう。
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