袋はいかがなさいますか
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
おじさんのイケボが気になるコンビニでバイトしている端役の劇団員のお話
本文
四月の朝は残酷だ。
眠い目をこすりながら午前五時に起きなければならないという事実が、まず残酷。まだ暗い道を自転車で十五分漕がなければならないという事実が、さらに残酷。そしてなにより、劇団の稽古で全身が筋肉痛だというのに、七時間レジに立ち続けなければならないという事実が、とどめの一撃だった。
柊木結衣(ひいらぎ・ゆい)は、コンビニの自動ドアをくぐりながら小さくため息をついた。
「おはようございまーす」
バックヤードに入ると、夜勤明けの野口さんがカウンターの内側で眠そうな目をこちらに向けた。五十代半ばの痩せた男性で、この「ファミリーショップたかはし」の古株だ。正確にはコンビニというより、コンビニチェーンに加盟している個人商店で、オーナーの高橋さんは普段あまり店に出ない。だから野口さんが事実上の店長みたいなものだった。
「おう、柊木ちゃん。おはよ。悪いけど今日、納品ちょっと多いから、暇なとき検品よろしくな」
「わかりましたー」
制服に着替えて髪をひとつに結ぶ。鏡に映った自分の顔を見て、もう一度ため息が出た。目の下にうっすら隈がある。昨日の稽古は殺陣の練習で、木刀を振り回していたら腕がぱんぱんになった。端役なのに殺陣がある。いや、端役だからこそ殺陣があるのだ。主役に斬られる役だから。
結衣が所属しているのは「劇団・風よ薫れ」という、県内ではそこそこ知られたローカル劇団だった。そこそこ知られた、というのはかなり贔屓目な表現で、実際には「地元のケーブルテレビで年に一回くらい特集される」程度の知名度だ。団員は十五人。旗揚げから三十年以上の歴史があるが、専業で食べていけているのは座長の磯村さんと、看板女優の朱音さんくらいのもので、あとは全員なにかしらの副業を持っている。結衣の場合、それがこのコンビニの週一バイトだった。
毎週木曜日、午前六時から午後一時まで。時給は八百八十円。週一のシフトなんて普通は嫌がられるものだが、この店は慢性的に人手不足なので、猫の手でも結衣の手でも借りたいという状況らしい。ありがたいことだ。
六時になると、野口さんが「じゃ、頼んだ」と言い残して帰っていく。ここからしばらくは結衣のワンオペだ。平日の早朝、この町の外れにあるコンビニに来る客はそう多くない。たまに夜勤明けの工場作業員が缶コーヒーを買いに来るくらいで、基本的には暇だ。結衣は検品をしながら、頭の中で台詞の練習をする。
「——お待ちください、殿! ここから先は通しませぬ!」
次の公演は時代劇だ。結衣の役は「門番その二」。台詞は全部で三つしかない。三つしかないが、三つあるだけましだと思わなければならない。前回の公演では「通行人A」で、台詞はゼロだった。ただ舞台の端を歩いて横切るだけ。それでも結衣はその三秒間の歩行に全身全霊を注いだ。江戸の町を歩く市井の人間はどんな歩き方をするのか。足袋の感触、下駄の重さ、着物の裾さばき。考えに考え抜いて、稽古に稽古を重ねて、本番に臨んだ。
客席の誰も気づかなかっただろう。三秒間の歩行に込めた一ヶ月分の研鑽に、誰ひとり。
でも、いい。
それでいいのだ、と結衣は思う。気づかれないのが自然ということは、その演技が自然だったということだ。不自然であれば目に留まる。目に留まらないということは、結衣の「通行人A」は、ちゃんと江戸の空気の中に溶けていたのだ。
——と、自分に言い聞かせている。
午前六時四十二分。
自動ドアが開く音がした。結衣はレジに戻り、「いらっしゃいませー」と声をかけた。
入ってきたのは、五十代くらいの男性だった。
身長は百七十センチあるかないか。中肉というより、少しだけ肉がついている体型。グレーの地味なウィンドブレーカーに、色褪せたベージュのチノパン。靴は白いスニーカーだが、白というにはくたびれすぎている。髪は短く刈り込んでいるが、特に整えている様子はなく、なんとなくぼさっとしている。顔立ちは——まあ、失礼を承知で言えば、特徴がない。目が大きいわけでも小さいわけでもなく、鼻が高いわけでも低いわけでもなく、口元がきりっとしているわけでもだらしないわけでもない。強いて言えば、頬がすこし下がっていて、それが全体的にくたびれた印象を醸し出していた。
世の中に溢れるおじさんの中の、まさに最も平均的なおじさん。道ですれ違っても、電車で隣に座っても、一秒後には忘れているタイプの外見だった。
結衣は特に気にも留めず、検品の続きに戻った。
男性は店内をゆっくりと歩き、おにぎりを二つと、紙パックのお茶と、ゆで卵を一つ、買い物かごに入れた。そしてレジに来た。
「お願いします」
結衣はバーコードを読み取りながら、いつもの口調で尋ねた。
「袋はどうなさいますか?」
「お願いします」
その声を聞いた瞬間、結衣の指が止まった。
バーコードリーダーを持つ手が、一瞬だけ空中で固まった。
——なに、今の。
声だった。声が、おかしかった。おかしいというのは変な声という意味ではない。むしろ逆だ。あまりにも——あまりにも良い声だった。
低く、深く、それでいて澄んでいる。腹の底から出しているのに力みがまったくない。ひとつひとつの音が丸く、やわらかく、しかし輪郭がくっきりとしている。たった六文字の「お願いします」が、まるで意味以上のなにかを含んでいるかのような響きだった。
劇団で五年間耳を鍛えてきた結衣の全感覚が、いま、警報を鳴らしていた。
この声は、ただものじゃない。
結衣は思わず顔を上げた。そこにいたのは、さっき見たのと同じ、くたびれたウィンドブレーカーのおじさんだった。顔にはうっすらと無精ひげが生えていて、目はなんとなく眠そうだ。ぱっとしない。まったくもってぱっとしない。
でも声だけが、その外見からありえないほどの存在感を放っていた。
「——あ、はい。かしこまりました」
結衣は慌ててレジ袋のボタンを押し、会計を済ませた。男性は小さく会釈して、袋を受け取り、店を出ていった。
自動ドアが閉まった後も、結衣はしばらくレジの前に立ち尽くしていた。
——なんだったんだ、今の。
耳の奥に、「お願いします」がまだ残響のように残っていた。
二
翌週の木曜日。
結衣はいつもより十分早く家を出た。別に深い理由はない。ないのだが、なんとなく、六時四十二分までに検品を終わらせてレジ周りを片付けておきたかった。
六時三十八分。自動ドアが開いた。
来た、と結衣は思った。思ってから、なんで自分がこんなにそわそわしているのか不思議だった。
先週と同じウィンドブレーカー。同じベージュのチノパン。同じくたびれた白いスニーカー。髪型も変わらない。何もかもが「いつもの」という感じだった。しかし結衣は今度こそ注意深く観察した。
男性は入店してから、まっすぐおにぎりの棚に向かった。歩き方を、結衣は見た。
——あれ?
違和感があった。前に出した足の着地が、妙に静かなのだ。体重移動に無駄がない。腰の位置がぶれない。ウィンドブレーカーの裾が、ほとんど揺れていない。
結衣は舞台の稽古で嫌というほど歩行訓練をやらされてきた。座長の磯村さんは歩き方にうるさい人で、「歩きは演技の基本だ。歩きが駄目な役者に芝居はできん」が口癖だった。だから結衣は人の歩き方を見る目だけは肥えていた。
あのおじさんの歩き方は、普通じゃない。意識してやっているわけではなさそうだ。長年かけて身体に染み込んだ動きだ。武道経験者かもしれない。あるいは——
男性はおにぎりを二つ(今日は鮭と昆布だ)と、紙パックのお茶と、ゆで卵を一つ、かごに入れた。先週とほぼ同じ組み合わせだった。
レジに来る。かごをカウンターに置く動作。これも結衣は見逃さなかった。かごの底がカウンターに触れるとき、音がほとんどしなかった。持ち上げて、ふわりと置く。力を抜いて重力に任せているのに、最後の最後で指先がブレーキをかけている。茶道の所作に似ていた。器を置くときの、あの静かな着地。
「袋はどうなさいますか?」
結衣は訊いた。先週、このおじさんが袋を買ったことは覚えている。聞かなくてもいい。リピーターの好みを覚えておくのは接客の基本だし、何なら勝手に袋をつけてしまってもいい。でも結衣は訊いた。
「お願いします」
来た。
腹腔に直接響くような低音。声帯がきれいに鳴っている。息の量が安定していて、音の立ち上がりから消え際まで揺らぎがない。プロの声だ。少なくとも、声を使う訓練を積んだ人間の声だ。結衣が劇団で何年もかけて目指しているものの、遥か先にある完成形がそこにあった。
「かしこまりました」
結衣の声が、自分の耳にやけに薄っぺらく聞こえた。
会計を済ませ、男性は小さく会釈して店を出ていった。先週と同じだ。何も変わらない。変わらないのに、結衣の心臓はどきどきしていた。
恋、ではない。少なくとも結衣はそう思った。
これは——なんだろう。憧れに近い感覚かもしれない。あるいは、純粋な好奇心。あの見た目と、あの声と所作のギャップが、結衣の中の「観察者」としてのスイッチを押してしまったのだ。
役者は観察者でなければならない。これも座長の磯村さんの教えだった。道行く人を観察しろ。歩き方、仕草、話し方、癖。すべてが役作りの糧になる。人間を見ろ。人間を知れ。人間を演じるのだから。
だから、これは稽古だ。そう結衣は自分を納得させた。
あのおじさんを観察することは、役者としての訓練なのだ。
三
三週目。結衣は、おじさんの来店時刻がほぼ六時四十分前後であることを把握していた。
その日も六時三十九分。ほとんど秒単位の正確さで、おじさんは現れた。服装はいつも通り。灰色のウィンドブレーカーは二着あるのか、それとも一着を着回しているのか。チノパンも毎回ベージュだが、微妙に色味が違う気がするので、おそらく複数本を持っているのだろう。
今日、結衣が注目したのは手だった。
おにぎりを棚から取る手。結衣はレジの向こうからそっと観察した。指が長い。爪はきれいに切り揃えてある。手そのものはごつごつしていて、労働者の手という印象だが、物に触れるときの指先の角度がやさしかった。おにぎりを掴むのではなく、すくい上げるように手に取る。そしてかごに入れるときも、放り込むのではなく、添えるように入れる。
なにこのおじさん。おにぎりの扱い方がやさしすぎる。
「袋はどうなさいますか?」
「お願いします」
三回目だ。三回聞いても慣れない。むしろ回を重ねるごとに、結衣の耳はより精密にその声の構造を解析するようになっていた。
今日気づいたのは、「お」の立ち上がり方だった。声帯が閉じてから息が通る瞬間、極めて滑らかに音が始まる。声楽でいうところの「軟起声」だ。硬くぶつけるのでもなく、息が漏れるのでもなく、ちょうど理想的な声の出だし。素人にはまず出せない。
結衣は自分の声を思い浮かべた。稽古場で磯村さんに何度注意されたことか。「柊木、声がぶつかってる」「喉で出すな、腹から出せ」「ここの台詞は柔らかく入れ。力むな」。何年やってもうまくいかないことを、このおじさんは「お願いします」のたった一言で軽々とやってのけている。
悔しいのと、感動しているのと、知りたいのと、いろんな感情が混ざって、結衣は会計の後おじさんの背中を見送りながら唇を噛んだ。
——あの人、何者なんだろう。
その日の午後、稽古場で結衣は朱音さんに話しかけた。朱音さんは劇団の看板女優で、四十二歳。かつては東京の劇団にいたが、家庭の事情で地元に戻り、この劇団に入った。結衣にとっては姉であり師であり、唯一なんでも話せる先輩だった。
「朱音さん、声がすごくきれいな人って、なにをやってる人なんですかね」
「突然ね。どうしたの?」
「バイト先に来るお客さんで、見た目はほんとに普通のおじさんなんですけど、声がすごいんです。もう、ぜんっぜん見た目と釣り合わないくらい良い声で」
朱音さんは柔軟体操をしながら首をかしげた。
「声がきれいな人ね。役者とか声優とかアナウンサーとか、声を使う仕事は色々あるけど。あとは歌をやってる人とか。それから、お坊さんなんかも声がいい人多いわよ。読経で鍛えられるから」
「お坊さん!」
思わず声が出た。確かにあの所作の丁寧さは、仏門の人と言われれば納得できる。でもウィンドブレーカーのお坊さんというのはちょっと想像しづらい。
「まあ、気になるなら話しかけてみたら?」と朱音さんは言った。
「いや、話しかけるって、接客中ですよ?」
「レジで一言二言の雑談くらいするでしょ、コンビニだって」
それはそうだが。問題はなにを話しかけるかだ。「あなた何者ですか」とは聞けない。「声がきれいですね」もいきなりは怖い。「おにぎりお好きなんですか」は意味不明だ。
結衣は考え込んだ。考え込みすぎて、稽古で自分の出番を逃した。
「柊木! ぼさっとするな!」
座長に怒鳴られた。門番その二、完全に門番の仕事を放棄していた。
四
四週目。
結衣は一つの実験を試みた。
六時四十分。おじさんが来店する。いつものルート、いつもの商品。おにぎり二つ、紙パックのお茶、ゆで卵。レジに来る。
「袋はどうなさいますか?」
今日はこの台詞を、少しだけ変えた。正確には台詞ではなく、声の出し方を変えた。昨日の稽古で練習した軟起声を意識して、腹から声を出し、最初の「ふ」の音をふわりと立ち上げた。自分なりの精一杯の「いい声」だった。
おじさんは一瞬——本当に一瞬だけ、目をわずかに見開いたように見えた。
「お願いします」
声が返ってくる。いつもと同じ、深く澄んだ声。でも今日は、最後の「す」の余韻がわずかに長かった気がした。気のせいかもしれない。結衣の自意識過剰かもしれない。でも結衣の耳は確かにそれを捉えた。
おじさんが店を出た後、結衣は小さくガッツポーズをした。
通じた。通じたかもしれない。なにが通じたのかはよくわからないが、とにかくなにかが通じた。声で。音で。言葉の意味ではなく、音の質で。
その翌週から、結衣の木曜日の朝は変わった。
毎週、少しずつ発声を変えた。「袋はどうなさいますか」という決まりきった台詞を、毎回微妙にチューニングした。声のトーン。息の量。響かせる場所。台詞というのは同じ言葉でも言い方ひとつで別物になる。それは劇団で学んだことだ。
「袋はどうなさいますか」が結衣の稽古場になった。
週に一度の、たった一回きりの本番。観客はおじさん一人。
そしておじさんは、毎回律儀に「お願いします」と返してくれた。
六週目には結衣は確信した。おじさんの声には、微妙な変化がある。一定のようでいて、実は毎回少しずつ違う。結衣の声のトーンに、無意識に呼応しているかのように。結衣が柔らかく出せば、おじさんの声もわずかに丸くなる。結衣がはっきり出せば、おじさんの声の輪郭もすこし明瞭になる。
まるで合奏だった。
楽器の調律を合わせるように、ふたりの短い台詞がカウンター越しに響き合う。おじさんがそれを意識しているかどうかはわからない。でも結衣は意識していた。毎週木曜の六時四十分が、結衣にとっていちばん真剣な演技の時間になっていた。
七週目の木曜日。五月の末だった。
おじさんがレジに来たとき、結衣はふと気づいた。おじさんのウィンドブレーカーのポケットから、折りたたまれた紙が少しだけ覗いている。紙の端に印刷された文字が、ちらりと見えた。
——「台本」。
その二文字が目に入った瞬間、結衣の心臓がひときわ大きく跳ねた。
台本。台本を持っている。このおじさんは、台本を持ち歩いている。
「袋はどうなさいますか?」
声が震えそうになるのをこらえた。いつも通りに。いつも通りに出すんだ。
「お願いします」
いつも通りの完璧な声。結衣は商品を袋に入れながら、頭の中がぐるぐると回転していた。
台本。あの人は台本を持っている。役者なのか、声優なのか、あるいはなにか別のなにかなのか。わからない。でも「声を使う人」であることは間違いなさそうだ。
話しかけたい。ものすごく話しかけたい。でもなんて?
おじさんは会釈をして店を出ていく。結衣はその背中を見送りながら、唇の内側を噛んだ。
——来週こそ。来週こそ、なにか言おう。
五
八週目の木曜日は、雨だった。
六月に入り、梅雨の走りが始まっていた。結衣は傘をさして自転車を押しながら店に向かった。最悪のコンディションだ。髪はうねるし、制服のスカートの裾は濡れるし、気分は沈むし。
しかし六時四十分が近づくにつれ、結衣の気持ちは不思議と凪いでいった。
今日こそ話しかける。なにを言うかは決めてある。昨夜、布団の中で何十パターンもシミュレーションした。あまりに不自然なことを言えば引かれる。かといって当たり障りのないことでは会話が広がらない。結衣が選んだのは——
六時四十一分。自動ドアが開いた。
おじさんだ。今日はウィンドブレーカーの上にビニールの雨合羽を羽織っていた。百円ショップで売っているような安物で、ますます見た目のぱっとしなさに拍車がかかっている。透明なフードの下に、いつもの冴えない顔。
でも歩き方は変わらない。雨で濡れた床を歩いているのに、足音が静かだ。体幹がしっかりしている人の歩き方。
おにぎり二つ。紙パックのお茶。ゆで卵。かごに入れて、レジに来る。
結衣は商品のバーコードを読み取りながら、心臓を落ち着かせた。深呼吸。丹田に意識を落とす。舞台に出る前のルーティンと同じだ。
「袋はどうなさいますか?」
「お願いします」
来た。今日の「お願いします」は、雨の日の空気のせいかいつもよりすこしだけ湿度を含んだ響きがあって、それがかえってやわらかさを増していた。結衣は商品を袋に入れながら、声を発した。
「あの——」
おじさんが顔を上げた。目が合った。近くで見ると、あまりぱっとしないと思っていた目が、思いのほか穏やかな色をしていた。黒目がちの、静かな目だった。
「お客様、いつもありがとうございます。毎週来てくださいますよね」
我ながら無難すぎる入りだと思った。でもおじさんは、少しだけ目を丸くしてから、小さく笑った。
「ああ——覚えてもらってたんですね。こちらこそ、いつもお世話になってます」
笑顔を見たのは初めてだった。ぱっとしない顔が、笑うとすこしだけ印象が変わる。目尻に皺が寄って、穏やかさが増す。でもやっぱり、声と見た目のギャップがすごい。笑顔は五十点くらいなのに、声が百二十点だ。
「あの、変なこと訊いてもいいですか」
おじさんは小さく首をかしげた。
「お客様って——お声、すごくきれいですよね。なにかされてるんですか、声を使うお仕事とか」
言ってしまった。直球すぎたかもしれない。おじさんは一瞬きょとんとして、それからばつが悪そうに頭をかいた。
「いやあ……仕事ってほどのものでは。昔ちょっとやってただけで」
「昔?」
「声の仕事というか——まあ、芝居を少々」
芝居。やっぱりだ。結衣の直感は正しかった。このおじさんは芝居をやっていた人だ。
「すごい。やっぱりそうなんですね。あの、わたしも実は——」
そこまで言いかけたとき、自動ドアが開いて別の客が入ってきた。結衣は慌てて「ありがとうございました」と言い、おじさんは軽く会釈して店を出ていった。
結衣は次の客の対応をしながら、頭の中で「やってしまった」と「やった」を交互に叫んでいた。
会話した。声を褒めた。芝居をやっていたという情報を得た。でも自分のことは言いそびれた。来週だ。来週に持ち越しだ。
一週間が途方もなく長く感じられた。
六
九週目。
結衣はレジに立ちながら、妙な緊張感と戦っていた。先週、話しかけてしまったことで、おじさんとの関係に明らかに新しい局面が訪れている。今までは結衣が一方的に観察し、声を聞き、勝手に感動していただけだった。それが先週、言葉を交わしたことで、「観察者と被観察者」から「会話する二人」になってしまった。
六時四十分。来た。
今日のおじさんは、いつものウィンドブレーカーではなく、紺色のポロシャツだった。六月の半ば、気温が上がったせいだろう。ポロシャツ姿でも印象は特に変わらない。やっぱりぱっとしない。しかし結衣はもう、このぱっとしなさの中に隠れているものを知っている。
いつもの買い物を済ませ、レジに来たおじさんは、先週のことを覚えていたのか、かすかに照れたような顔をしていた。
「袋はどうなさいますか?」
「お願いします」
結衣はバーコードを読み取りながら、意を決して言った。
「先週の続きなんですけど——わたし、実はお芝居やってるんです。こっちが副業で」
おじさんの目がすこし見開かれた。
「芝居を?」
「はい。劇団・風よ薫れっていう——ご存じないですよね、地元の小さい劇団なんですけど」
「知ってます」
今度は結衣が目を見開く番だった。
「え?」
「風よ薫れ。磯村さんのところでしょう。知ってますよ」
おじさんの声は、いつもの「お願いします」と同じトーンだった。落ち着いていて、深くて、穏やかで。でもその中に、懐かしさのような色が一瞬だけ混じった気がした。
「磯村さんをご存じなんですか?」
「まあ……昔の知り合いです」
それだけ言って、おじさんは口をつぐんだ。まだ他に客はいなかったが、レジでする会話としてはすでに長い。おじさんは袋を受け取り、いつもの会釈をして店を出ようとした。
「あの」
結衣は呼び止めた。
「来月——七月の第二週末に公演があるんです。よかったら、観に来ていただけませんか」
おじさんは振り返った。少し驚いた顔をしていたが、やがてまた、あの小さな笑顔を見せた。
「門番その二、ですか?」
結衣は固まった。
「——なんで、知って」
「チラシ、先月から店の掲示板に貼ってあるでしょう。配役表つきの」
結衣は天を仰ぎたくなった。そうだった。オーナーの高橋さんに頼んで、店内の掲示板に公演のチラシを貼らせてもらっていたのだ。配役表つきで。そこには確かに「門番その二……柊木結衣」と書いてあった。
「見てくださってたんですね」
「ええ。きれいな名前だなと思って」
それは声と同じトーンでさらりと言われたので、褒められたのだと気づくまでに三秒かかった。気づいた瞬間、耳が熱くなった。
「観に行きますよ。楽しみにしてます」
おじさんはそう言って、今度こそ店を出ていった。
結衣はレジの後ろで、熱くなった耳を両手で押さえた。
——やばい。あのイケボで名前を褒められるの、心臓に悪すぎる。
七
公演の日が来た。
七月の第二土曜日。市民文化会館の小ホール。客席数二百。当日の入りは百四十人ほどで、ローカル劇団としては上々だった。
結衣は楽屋で門番の衣装を着けながら、客席にあのおじさんがいるのかどうかを考えていた。来ると言ってくれた。でも社交辞令かもしれない。コンビニのレジで客に「観に来てください」と言われて「行きません」と返す人もそういないだろう。
でも、もし来ていたら。
あの耳に、自分の声が届くのだ。
毎週木曜日、「袋はどうなさいますか」の一言に全神経を注いできた結衣だ。あのおじさんの耳は、声の良し悪しがわかる耳だ。素人相手にごまかしは利かない。
——上等じゃないか。
結衣は鏡の中の自分を見据えた。門番その二の衣装。質素な着物に簡素な笠。台詞は三つ。出番は全体の五分にも満たない。
でも、今日この舞台に、あのおじさんが座っているなら。たった三つの台詞に、これまでのすべてを込めよう。
幕が開いた。
結衣の出番は第二幕の中盤だった。主人公の侍が城門を通ろうとするのを、門番二人が止める場面。門番その一は先輩の倉田さんが演じる。結衣は倉田さんの隣に立ち、槍を構える。
「——お待ちください、殿! ここから先は通しませぬ!」
最初の台詞。腹から声を出す。丹田に意識を落とす。軟起声。息を通してから声帯を閉じる。「お」の立ち上がりを滑らかに。
声が客席に飛んだ。小ホールの空気を震わせて、二百席の空間に染み渡った。今までで一番いい声が出た、と結衣は思った。
「問答無用! 退かれよ!」
主人公役の倉田さんの相手方が切りかかってくる。殺陣。木刀を受け、流し、一歩退く。
「ぐっ……お強い……! しかし、この門は——この門だけは、開けるわけには参りませぬ!」
二つ目の台詞。歯を食いしばりながらの台詞だが、声は潰さない。苦しみの中にも門番としての矜持を込める。名もなき門番がなぜここに立っているのか。命じられたから。ではなぜ命令に従うのか。それが務めだから。務めとは何か。自分がここにいる意味だから。
結衣はこの門番の人生を考え抜いていた。端役だからこそ、演じる自分が背景を知っていなければ、そこに立つ人間としてのリアリティが出ない。この門番には妻がいて、子がいて、毎朝味噌汁を飲んで家を出る。そういう人間が、命を賭けて門を守っている。
主人公の一太刀が結衣の胴を捉える。結衣はゆっくりと膝をつく。
「……見事にて、ございます」
三つ目の台詞。最後の台詞。崩れ落ちながら、しかし声だけは最後まで透明に。死にゆく門番の、最後の一声。
客席は静まり返っていた。
結衣は舞台の上に倒れ伏した。ここから先は動けない。死体なのだから。呼吸を最小限に抑え、目を閉じる。舞台は続く。主人公は門を開き、城内へと進んでいく。結衣の門番はもう動かない。
暗転。場面転換。結衣は静かに舞台袖にはけた。
楽屋に戻ると、朱音さんが目を丸くして結衣を見ていた。
「結衣ちゃん。今日、すごく良かった」
「……ほんとですか」
「最後の台詞。鳥肌立ったわよ」
結衣は衣装の袖で目元をぬぐった。汗だ。汗に決まっている。
八
公演が終わり、客席ロビーで観客を見送る時間。団員は衣装から着替えてロビーに出る。結衣もTシャツにジーンズという普段着姿でロビーに立った。
知り合いの顔をいくつか見つけて挨拶を交わす。地元のおばちゃんたちが「良かったよー」と声をかけてくれる。結衣は笑顔でお辞儀をしながら、視線はずっと人混みの中を探していた。
いた。
ロビーの端、壁際に立っていた。紺色のポロシャツにベージュのチノパン。いつもの服装だが、今日はスニーカーではなく革靴を履いていた。その一点だけが「よそ行き」で、なんだかおかしくて、結衣はすこし笑ってしまった。
おじさんは結衣に気づくと、まっすぐにこちらへ歩いてきた。
「お疲れさまでした」
その声がロビーの雑踏の中でもくっきりと聞こえた。不思議な声だ。大きいわけではないのに、通る。空気を切り裂くのではなく、空気に溶けながら、それでも確実に届く。
「来てくださったんですね」
「ええ。来て良かった」
おじさんは少し間を置いてから、静かに言った。
「最後の台詞。"見事にて、ございます"。あれ、良かった」
結衣は息を呑んだ。朱音さんと同じところだ。あの台詞が良かったと言ってくれた。
「柊木さんは——声がいいですね」
「え」
「自分の声に誠実な人だと思ってました。毎週、"袋はどうなさいますか"の言い方が少しずつ変わるんで」
結衣は赤面した。バレていた。完全にバレていた。毎週チューニングを変えていたこと、全部気づかれていた。
「恥ずかしいです……」
「いや、嬉しかったですよ。あの一言に毎回工夫を込めてくるんだから、ああ、この人は本気で声をやってる人なんだなと」
おじさんは——いや、この人を「おじさん」と呼ぶのはもう適切ではない気がした。コンビニのレジ越しに見ていた冴えない中年男性ではなく、今ここにいるのは、声と所作の向こうに確かな来歴を持つ人間だった。
「あの……お名前、聞いてもいいですか」
「水島です。水島浩一」
「水島さん。わたし——」
「柊木結衣さん。知ってますよ。名札に書いてある」
ああ、そうだった。結衣はまた赤くなった。
「水島さんは、昔お芝居をされてたって——」
「ええ。東京で、二十年くらい」
二十年。結衣は息を呑んだ。
「それで、こちらに?」
「色々あって引退しました。今はこっちで倉庫の仕事をしてます」
倉庫の仕事。あの声と所作の持ち主が、今は倉庫で働いている。早朝にコンビニでおにぎりを買い、倉庫に行く。その生活の中で、二十年間培った声と身体は、持ち主の意思とは関係なく残り続けている。
結衣はなにか言おうとして、うまく言葉が出てこなかった。聞きたいことが山ほどあった。なぜ辞めたのか。どんな舞台に立っていたのか。磯村さんとはどういう関係なのか。でもそのどれもが、ロビーの立ち話で聞くには重すぎる気がした。
「あの——」
「柊木さん」
水島さんが先に口を開いた。
「一つだけ、偉そうなことを言ってもいいですか」
結衣はこくりと頷いた。
「門番その二。台詞は三つ。出番は五分もない。でも、あなたは最初にそこに立った瞬間から——門番だった。歩き方。立ち方。槍の構え方。全部、その人間の人生が見えた。台詞のない時間の演技が、今日の舞台で一番良かった」
結衣の目が熱くなった。
台詞のない時間の演技。通行人Aの三秒間。門番が黙って立っている時間。結衣がずっとずっと、誰にも気づかれないだろうと思いながら、それでも磨き続けてきたもの。
この人は、見ていた。
「……ありがとう、ございます」
結衣の声は震えていた。稽古では出したことのない声だった。演技ではない、生の声だった。
水島さんは穏やかにうなずいた。
「また来週、おにぎり買いに行きますから」
「はい。袋、用意しておきます」
水島さんは小さく笑って、ロビーの出口に向かった。革靴の足音が、やっぱり静かだった。
九
翌週の木曜日。
午前六時四十分。自動ドアが開く。
グレーのウィンドブレーカー。ベージュのチノパン。くたびれた白いスニーカー。何もかもがいつも通りだ。ぱっとしない見た目。冴えない佇まい。道ですれ違っても一秒で忘れるタイプの外見。
でも結衣はもう知っている。あの歩き方の静かさの理由を。あの所作の丁寧さの来歴を。そしてあの声が、二十年分の舞台の記憶を宿していることを。
水島さんはいつも通り買い物をして、レジに来た。
結衣は商品のバーコードを読み取った。おにぎり二つ。紙パックのお茶。ゆで卵。そして今日は——プリンが一つ、追加されていた。
「プリン、今日は追加ですね」
「ええ。ちょっとしたお祝いで」
「お祝い?」
「先週の舞台を観て、なんだか気分がよくてね。自分にご褒美です」
結衣は吹き出しそうになるのをこらえた。ご褒美がコンビニのプリン。百八十円の贅沢。このおじさん——水島さんは、やっぱりどこまでもぱっとしない。
「袋はどうなさいますか?」
わかっている。答えはわかっている。十回目だ。十回連続で同じ答えが返ってきている。聞く必要はない。でも結衣は訊く。訊かずにはいられない。この問いかけと返答の往復は、もはや結衣にとって一週間のリズムそのものだった。
水島さんは、いつもの穏やかな目で結衣を見た。
「お願いします」
低く、深く、澄んだ声が、レジカウンターの上の空気を震わせた。
十回聞いた「お願いします」。十回とも同じ言葉。十回ともすこしずつ違う響き。今日の「お願いします」には、先週までにはなかったなにかが混じっている気がした。それがなんなのか、結衣にはまだ言語化できない。でも耳は確かに捉えている。
結衣は商品を袋に入れながら言った。
「水島さん。わたし、もっとうまくなりたいです」
「うん」
「いつかもっと大きな役をもらえるように。台詞が三つじゃなくて、三十も五十もある役を。でもそのときも——台詞のない時間を、ちゃんと演じられる役者でいたいです」
水島さんは袋を受け取りながら、静かにうなずいた。
「柊木さんなら、なれますよ」
その声はいつもの「お願いします」と同じトーンだった。特別な抑揚も、大げさな感情も込められていなかった。なのに、その言葉はまっすぐに胸の真ん中に届いた。
声の力だ、と結衣は思った。正しい身体と正しい呼吸から生まれた声には、修飾がいらない。言葉がそのまま、意味の重さだけで届く。
結衣が目指すべきものが、そこにあった。
「ありがとうございます。——また来週」
「ええ。また来週」
水島さんは会釈をして店を出ていった。透明な自動ドアの向こうで、七月の朝の光がウィンドブレーカーの背中を照らしていた。
結衣はレジの中で一人、小さく息を吐いた。それから、まだ耳の奥に残っている「お願いします」の残響に浸りながら、次の台詞を口の中で転がした。
「袋はどうなさいますか」
カウンターに誰もいないレジで、結衣は声に出して言ってみた。まだ全然だめだ。水島さんの声には遠く及ばない。でも先月よりは良くなっている。先週よりも、ほんの少しだけ。
来週の木曜日まで、あと七日。
結衣にはその七日間でやるべきことがたくさんあった。稽古がある。発声練習がある。身体を鍛えなければならない。台本を読み込まなければならない。そして来週の木曜日にはまた、あのカウンターに立つ。
たった一言の台詞を、世界で一番美しく響かせるために。
店内のスピーカーから、聞き慣れたBGMが流れている。冷蔵庫のコンプレッサーが低く唸っている。朝の光が少しずつ強くなり、駐車場のアスファルトを白く照らしている。田舎町のコンビニの、なんの変哲もない朝だった。
でも結衣は知っている。
なんの変哲もない朝の中に、なんの変哲もない人の中に、思いもよらない美しさが隠れていることを。それを見つけるのが観察者の目であり、それを表現するのが役者の仕事だ。
次の出番を待とう。舞台の上でも、レジの向こうでも。
袋はどうなさいますか——と、来週もまた訊くのだ。答えはもうわかっている。わかっていても訊くのだ。
だってあの「お願いします」を聞かない木曜日なんて、もう考えられないのだから。
(了)