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介護施設

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/3/12 📚 シリーズ: 帰ってきました~貴方へのラブレター~ 📝 3,249文字 ✅ 全年齢

あらすじ

異世界帰り色々な日常 一話完結・オムニバス

本文

朝の光が薄く差し込む廊下で、佐藤 純は箒を持ったまま固まっていた。

三秒前まで、魔王の城の瓦礫の中にいた。

十五年。剣を振るい、仲間を見送り、大陸を渡り、ついに魔王を討ち果たした。

断末魔の叫びがまだ耳に残っている。

全身傷だらけのはずが、気づけばここにいる。

グループホーム「ひととき」の一階廊下。朝の八時十五分。

厨房から妻が「純ちゃん、八号室の方が起きてるよ」と声をかけてくる。

純は自分の手を見た。四十一歳の手だ。

異世界では五十六歳になっていたはずなのに、皮膚も節も出発した朝のままだった。

——十五年返せ、と思ったが、まあ魔王は倒した。よしとしよう。

「はーい」と純は答えた。声が裏返った。

厨房から妻がひょいと顔を出した。

エプロンに野菜くずがついている。

何も知らない顔。

当然だ。純にとっては十五年だが、この世界では十秒も経っていない。

「どうしたの、そんな顔して」

「なんでもない。ちょっと遠くにいた」

「どこに?」

「……まあ、ちょっと遠く」

妻は首を傾けてから「変な人」と言って厨房に戻った。

十五年ぶりの「変な人」が、沁みた。

純は箒を壁に立てかけて廊下を歩いた。

体が自然に動く。ここの間取りを、体が覚えている。

八号室をノックして開けると、八十三歳の男性がベッドの端に腰を下ろして窓の外を見ていた。薄い白髪、皺だらけの首、どこか遠くを見る目。

「おはようございます」

「ああ」と彼は言った。「……あなた、誰でしたっけ」

純はゆっくり椅子を引いて隣に腰を下ろした。

「ここのスタッフです」

「そうか」頷く。

「……息子が来るはずなんだが」

「今日は面会の予定はないですよ」

「そうか」また頷く。

「……息子が来るはずなんだが」

同じ言葉。純は急かさなかった。

ただ隣にいた。

異世界にも、こういう老人がいた。

かつては大陸最強と言われた魔法使いで、純が出会った頃にはもう自分の名前しか言えなかった。

毎朝「今日は弟子が来るはずだ」と言い続けた。

弟子はとっくに死んでいたが、誰も教えられなかった。

純は半年間、その老人の隣に座り続けた。

魔王討伐より、そっちの方がよほど根気が要った。

二

グループホーム「ひととき」には九人の入居者がいた。

認知症の種類も進行度もそれぞれ違う。

でも共通しているのは、みんな何かを少しずつ失い続けているということだった。

純と妻がこのホームを開いたのは三年前だ。

大手介護施設に勤めていた妻の夢を、二人で形にした。

定員九名の小さなホーム。

古民家を改装した建物は、どこか懐かしい。

今日も朝食の時間になると、入居者たちが食堂に集まってきた。

七十九歳の女性は毎朝、自分の席がわからなくなる。

「こちらですよ」と純が椅子を引くと、「あら、すみませんねえ」と座る。

そして五分後にはまた立ち上がり、「あの、私の席はどこでしょう」と言う。

純はまた椅子を引く。

「こちらですよ」

「あら、すみませんねえ」

この会話を今日だけで六回やった。

七回目になると、純は思わず「こちらですよ、今日六回目です」と言いそうになったが、ぐっと堪えた。

言ったところで意味はないし、

だいたい純だって異世界で「この村はどこですか」を百回は聞いた。

お互い様だ。

朝食が終わると、純は庭に出て花壇と小さな畑の世話をする。

土に少しの「豊穣」をかけておいた。

入居者の何人かが後からついてくる。

七十歳の元農家の男性は、土を見ると落ち着く。

言葉はほとんど出なくなっているが、スコップを渡すと黙々と土を耕す。

収穫時期も見逃さない。

その背中に、かつての職人の姿がある。

純はホースを持ちながら思う。(水道には繋げなくとも水は出る)

異世界で、自分は何かを得たのだろうか。

力か、知恵か、それとも単に老けただけか。

おそらく三番目が一番多い。

三

午後になると、純は記録を書く。

一人ひとりの様子、食事量、言葉の断片。

八十一歳の女性は今日、娘の名前を呼んだ。

四十年会っていない娘らしい。でも彼女は毎日その名前を呼ぶ。

純が声をかけると、ぱっと顔を上げて子どものように笑う。その笑顔がいい。

認知症が進むと、新しい記憶から失われていく。

昨日のことを忘れ、先月を忘れ、やがて数年前を忘れる。

でも遠い昔の記憶はしばらく残る。だから彼女にとって、娘はまだそこにいる。

四十年前の、幼い娘が。

悲しいとも思うし、美しいとも思う。

純は書類に向かいながら、異世界のあの老魔法使いのことを考えた。

あの人は最後まで弟子の名前を呼んでいた。

純が名前を覚えてやれなかったことが、今も少し引っかかっている。

夕方、妻が「今日どうだった?」と聞いた。

「普通だよ」と純は答えた。

妻が笑う。

「またぼーっとしてたでしょ、どこかで」

「……まあ、ちょっと」

「どこに行くの、あなたは」

「遠いところ...」

妻は呆れた顔をしたが、それ以上聞かなかった。

聞かないでいてくれる人でよかった、と純はしみじみ思った。

十五年分の実感を込めて。

四

八十三歳の男性が急変したのは、ある夜のことだった。

夜中の二時に大声がした。駆けつけると、彼は布団の上に座って言った。

「俺はわかってるんだ。もう長くない」

その目は珍しくはっきりしていた。認知症の人に、こういう瞬間が訪れることがある。霧が一時的に晴れる、静かな明晰さ。

「息子さんに連絡しますね」

「いい」と彼は言った。

「夜中に起こすな。ただ……誰かそこにいてくれ」

純は椅子を引いて座った。

「俺、昔は大工だったんだ。棟梁もやった」彼はゆっくり話した。

「でも今は……何もわからんくなった。道具の名前も、木の種類も。この手が何をしてきたか、もう思い出せん」

純は黙って聞いた。

「情けないもんだな」

「そんなことないですよ」

「嘘つくな」と彼は小さく笑った。

「……まあ、いい。あんた、不思議な目をしてるな」

「そうですか」

「なんか……遠くを見てる目だ。若いのに」

純は少し笑った。

「遠くにいたことがあるので」

「どこに」

「ちょっと...とても 遠い場所に」

彼はしばらく純の顔を見てから、「ふん」と言って目を閉じた。

「まあ、いい。そこにいてくれ」

「います」

純はその夜、夜明けまでそこにいた。

(根本は直せないので「治癒」は痛みを取る以外には掛けない事にしている)

彼は翌週、静かに逝った。

息子が間に合った。最後まで息子の顔はわからなかったようだが、手を握られて穏やかな表情だったと息子は言った。

棟梁の手は、最後までゴツゴツして大きかった。

五

純は一人で庭に出た。

夜の空気が冷たかった。星が出ていた。

異世界の空も、月は二つだったが、星は同じように輝いていた。

魔王を倒した後、廃墟の中で一人空を見上げながら、純は思ったものだ。

俺はここで何をしたのか、と。

大陸を救った。何百万という命が続いた。

でも隣にいた人たちは次々と逝き、純だけが残った。

介護も、似ている。

純が何をしても、人は老いていく。

記憶を失い、言葉を失い、やがて体を失う。

止められない。純にできるのは、その傍にいることだけだ。

でも、それは何もしていないことじゃない。

「誰かそこにいてくれ」と言われた夜、純はいた。

それだけでいい。それだけで十分だと、純は今なら思える。

異世界の十五年が、そう教えてくれた。魔法でも剣でもなく、ただ隣に座り続けた日々が。

妻が後ろから来て、純の隣に立った。

「寒いよ」

「うん」

「星、きれいだね」

「うん」

しばらくして純は言った。

「なあ」

「なに」

「俺、実はちょっと遠くに行ってたことがある」

「うん、知ってる」

「……知ってるの?」

「なんとなく」

妻は空を見たまま言った。

「目が変わってたから。でも帰ってきたでしょ」

「帰ってきた」

「...それでいい」

純は空を見上げた。異世界の星と同じ星が、ここにもある。

妻が「明日、新しい方の見学があるよ。七十二歳の女性。アルツハイマーの初期」と言った。

「わかった」

純は家の中に向かって歩きだした。「ちゃんと準備しよう」

廊下の電気がやわらかく灯っている。どこかの部屋で、誰かが寝息を立てている。

純はここに帰ってきた。

魔王を倒したことより、ずっと大事な場所に。

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JJ

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