介護施設
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
異世界帰り色々な日常 一話完結・オムニバス
本文
朝の光が薄く差し込む廊下で、佐藤 純は箒を持ったまま固まっていた。
三秒前まで、魔王の城の瓦礫の中にいた。
十五年。剣を振るい、仲間を見送り、大陸を渡り、ついに魔王を討ち果たした。
断末魔の叫びがまだ耳に残っている。
全身傷だらけのはずが、気づけばここにいる。
グループホーム「ひととき」の一階廊下。朝の八時十五分。
厨房から妻が「純ちゃん、八号室の方が起きてるよ」と声をかけてくる。
純は自分の手を見た。四十一歳の手だ。
異世界では五十六歳になっていたはずなのに、皮膚も節も出発した朝のままだった。
——十五年返せ、と思ったが、まあ魔王は倒した。よしとしよう。
「はーい」と純は答えた。声が裏返った。
厨房から妻がひょいと顔を出した。
エプロンに野菜くずがついている。
何も知らない顔。
当然だ。純にとっては十五年だが、この世界では十秒も経っていない。
「どうしたの、そんな顔して」
「なんでもない。ちょっと遠くにいた」
「どこに?」
「……まあ、ちょっと遠く」
妻は首を傾けてから「変な人」と言って厨房に戻った。
十五年ぶりの「変な人」が、沁みた。
純は箒を壁に立てかけて廊下を歩いた。
体が自然に動く。ここの間取りを、体が覚えている。
八号室をノックして開けると、八十三歳の男性がベッドの端に腰を下ろして窓の外を見ていた。薄い白髪、皺だらけの首、どこか遠くを見る目。
「おはようございます」
「ああ」と彼は言った。「……あなた、誰でしたっけ」
純はゆっくり椅子を引いて隣に腰を下ろした。
「ここのスタッフです」
「そうか」頷く。
「……息子が来るはずなんだが」
「今日は面会の予定はないですよ」
「そうか」また頷く。
「……息子が来るはずなんだが」
同じ言葉。純は急かさなかった。
ただ隣にいた。
異世界にも、こういう老人がいた。
かつては大陸最強と言われた魔法使いで、純が出会った頃にはもう自分の名前しか言えなかった。
毎朝「今日は弟子が来るはずだ」と言い続けた。
弟子はとっくに死んでいたが、誰も教えられなかった。
純は半年間、その老人の隣に座り続けた。
魔王討伐より、そっちの方がよほど根気が要った。
二
グループホーム「ひととき」には九人の入居者がいた。
認知症の種類も進行度もそれぞれ違う。
でも共通しているのは、みんな何かを少しずつ失い続けているということだった。
純と妻がこのホームを開いたのは三年前だ。
大手介護施設に勤めていた妻の夢を、二人で形にした。
定員九名の小さなホーム。
古民家を改装した建物は、どこか懐かしい。
今日も朝食の時間になると、入居者たちが食堂に集まってきた。
七十九歳の女性は毎朝、自分の席がわからなくなる。
「こちらですよ」と純が椅子を引くと、「あら、すみませんねえ」と座る。
そして五分後にはまた立ち上がり、「あの、私の席はどこでしょう」と言う。
純はまた椅子を引く。
「こちらですよ」
「あら、すみませんねえ」
この会話を今日だけで六回やった。
七回目になると、純は思わず「こちらですよ、今日六回目です」と言いそうになったが、ぐっと堪えた。
言ったところで意味はないし、
だいたい純だって異世界で「この村はどこですか」を百回は聞いた。
お互い様だ。
朝食が終わると、純は庭に出て花壇と小さな畑の世話をする。
土に少しの「豊穣」をかけておいた。
入居者の何人かが後からついてくる。
七十歳の元農家の男性は、土を見ると落ち着く。
言葉はほとんど出なくなっているが、スコップを渡すと黙々と土を耕す。
収穫時期も見逃さない。
その背中に、かつての職人の姿がある。
純はホースを持ちながら思う。(水道には繋げなくとも水は出る)
異世界で、自分は何かを得たのだろうか。
力か、知恵か、それとも単に老けただけか。
おそらく三番目が一番多い。
三
午後になると、純は記録を書く。
一人ひとりの様子、食事量、言葉の断片。
八十一歳の女性は今日、娘の名前を呼んだ。
四十年会っていない娘らしい。でも彼女は毎日その名前を呼ぶ。
純が声をかけると、ぱっと顔を上げて子どものように笑う。その笑顔がいい。
認知症が進むと、新しい記憶から失われていく。
昨日のことを忘れ、先月を忘れ、やがて数年前を忘れる。
でも遠い昔の記憶はしばらく残る。だから彼女にとって、娘はまだそこにいる。
四十年前の、幼い娘が。
悲しいとも思うし、美しいとも思う。
純は書類に向かいながら、異世界のあの老魔法使いのことを考えた。
あの人は最後まで弟子の名前を呼んでいた。
純が名前を覚えてやれなかったことが、今も少し引っかかっている。
夕方、妻が「今日どうだった?」と聞いた。
「普通だよ」と純は答えた。
妻が笑う。
「またぼーっとしてたでしょ、どこかで」
「……まあ、ちょっと」
「どこに行くの、あなたは」
「遠いところ...」
妻は呆れた顔をしたが、それ以上聞かなかった。
聞かないでいてくれる人でよかった、と純はしみじみ思った。
十五年分の実感を込めて。
四
八十三歳の男性が急変したのは、ある夜のことだった。
夜中の二時に大声がした。駆けつけると、彼は布団の上に座って言った。
「俺はわかってるんだ。もう長くない」
その目は珍しくはっきりしていた。認知症の人に、こういう瞬間が訪れることがある。霧が一時的に晴れる、静かな明晰さ。
「息子さんに連絡しますね」
「いい」と彼は言った。
「夜中に起こすな。ただ……誰かそこにいてくれ」
純は椅子を引いて座った。
「俺、昔は大工だったんだ。棟梁もやった」彼はゆっくり話した。
「でも今は……何もわからんくなった。道具の名前も、木の種類も。この手が何をしてきたか、もう思い出せん」
純は黙って聞いた。
「情けないもんだな」
「そんなことないですよ」
「嘘つくな」と彼は小さく笑った。
「……まあ、いい。あんた、不思議な目をしてるな」
「そうですか」
「なんか……遠くを見てる目だ。若いのに」
純は少し笑った。
「遠くにいたことがあるので」
「どこに」
「ちょっと...とても 遠い場所に」
彼はしばらく純の顔を見てから、「ふん」と言って目を閉じた。
「まあ、いい。そこにいてくれ」
「います」
純はその夜、夜明けまでそこにいた。
(根本は直せないので「治癒」は痛みを取る以外には掛けない事にしている)
彼は翌週、静かに逝った。
息子が間に合った。最後まで息子の顔はわからなかったようだが、手を握られて穏やかな表情だったと息子は言った。
棟梁の手は、最後までゴツゴツして大きかった。
五
純は一人で庭に出た。
夜の空気が冷たかった。星が出ていた。
異世界の空も、月は二つだったが、星は同じように輝いていた。
魔王を倒した後、廃墟の中で一人空を見上げながら、純は思ったものだ。
俺はここで何をしたのか、と。
大陸を救った。何百万という命が続いた。
でも隣にいた人たちは次々と逝き、純だけが残った。
介護も、似ている。
純が何をしても、人は老いていく。
記憶を失い、言葉を失い、やがて体を失う。
止められない。純にできるのは、その傍にいることだけだ。
でも、それは何もしていないことじゃない。
「誰かそこにいてくれ」と言われた夜、純はいた。
それだけでいい。それだけで十分だと、純は今なら思える。
異世界の十五年が、そう教えてくれた。魔法でも剣でもなく、ただ隣に座り続けた日々が。
妻が後ろから来て、純の隣に立った。
「寒いよ」
「うん」
「星、きれいだね」
「うん」
しばらくして純は言った。
「なあ」
「なに」
「俺、実はちょっと遠くに行ってたことがある」
「うん、知ってる」
「……知ってるの?」
「なんとなく」
妻は空を見たまま言った。
「目が変わってたから。でも帰ってきたでしょ」
「帰ってきた」
「...それでいい」
純は空を見上げた。異世界の星と同じ星が、ここにもある。
妻が「明日、新しい方の見学があるよ。七十二歳の女性。アルツハイマーの初期」と言った。
「わかった」
純は家の中に向かって歩きだした。「ちゃんと準備しよう」
廊下の電気がやわらかく灯っている。どこかの部屋で、誰かが寝息を立てている。
純はここに帰ってきた。
魔王を倒したことより、ずっと大事な場所に。
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