整形外科医
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
異世界帰り色々な日常 一話完結・オムニバス
本文
佐藤 純が気づいたとき、彼はまだ病院の更衣室にいた。
ロッカーの扉を開けたまま、白衣に手をかけたその姿勢のまま。蛍光灯は相変わらずわずかにちらついていて、廊下からはナースコールの電子音が聞こえてくる。十五年という歳月が、まるでなかったことのように。
純はゆっくりと深呼吸した。
整形外科医として培った冷静さが、パニックの手前でかろうじて彼を引き留めている。骨折した患者を前にしても動じない、あの無表情で有名な佐藤先生が、今だけは目を細めて更衣室の天井を見上げていた。
「……十秒も経ってないじゃないか」
呟きは誰にも届かない。
白衣を羽織りながら、純は記憶を整理しようとした。いや、整理などできるわけがない。十五年分の記憶が、脳の中で渦を巻いている。魔法の修練。薬草の採取。竜との交渉。名前も覚えきれないほどの人々との別れ。
それが全部、この十秒間に圧縮されている。
純はとっさに自分の関節を確認した。手首を回す。肘を曲げる。肩を上げる。異世界で何度か骨折したが、ポーションのおかげで綺麗に治癒している。むしろこちらにいた頃より、可動域が広がっているかもしれない。
職業柄、それが少しだけ気になった。
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午前の外来が始まるまで、あと十分ある。
純はコーヒーを入れて、診察室の端に腰を落ち着けた。電子カルテには本日の患者一覧が並んでいる。変形性膝関節症。腱板断裂。腰椎椎間板ヘルニア。いつも通りの顔ぶれだ。
異世界では、これらをポーションで10秒で治していた。
純は額に手を当てた。これは困ったことになった。
変形性膝関節症ひとつとっても、こちらでは投薬、リハビリ、場合によっては人工関節置換術というルートをたどる。長い道のりだ。一方、向こうでは「回復の雫」を一滴垂らせば、軟骨が目の前でにゅるると再生する。患者は「おお」と声を上げ、立ち上がって歩き出す。 以上。
手術時間、ゼロ分。リハビリ、不要。術後感染リスク、皆無。
……現代医療とはなんだったのか。
もちろん重篤な疾患にいきなりポーションは使えない。認可もなければデータもない。「魔法薬です」で認可が下りる世界であってほしいが、残念ながらここは日本だ。
ただ、軽効のものなら話は別かもしれない。筋肉の疲労を取ったり軽い炎症を鎮めたりする、湿布の上位互換みたいな代物が向こうには存在した。材料の一部はこちらの近縁種で代替できる。
そしてもっと先の話をするなら——純はエリクサーの調合法まで習得している。
どんな傷も病も一滴で癒す、究極の回復薬だ。使いどころが来るかどうかはわからない。でも、来たときのために手順だけは頭に入れておく。
純はコーヒーカップを置いた。まあ、今日のところは肩こりから始めよう。
...
最初の患者は、膝が痛くて階段が辛いという主訴だった。
レントゲンを見ると、関節の隙間がかなり狭くなっている。典型的な変形性膝関節症だ。
「先生、良くなりますかねえ」
患者は不安そうな目で純を見た。
純の脳裏に、ポーションの小瓶が浮かんだ。めちゃくちゃ良くできた薬だ。
使えないけど。
「リハビリから始めましょう。大腿四頭筋を鍛えることで、膝への負担を減らせます」
患者は安心したように頷いた。
「向こうなら10秒なんだけどな」と思ったが、顔には出さなかった。。
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昼休みに、純は屋上に出た。
空は青く、雲は白い。異世界の空はピンク色だった。
あちらではドラゴンや翼竜が当たり前のように横切っていたが、こちらではカラスと鳩しかいない。
純は手すりに肘をついて、ぼんやりと空を眺めた。
ふと、引っかかっていたことが、するりと形になった。
外来で診た患者の顔が浮かぶ。膝の痛みで階段が辛い、肩こりがひどくて夜も眠れない、湿布を何枚貼っても追いつかない——そういう人たちだ。手術するほどではないが、じわじわと日常を削られている。
あの人たちになら、軽効ポーションをこっそり使えるんじゃないか。
純は少し考えて、すぐに結論を出した。
まあ、いいだろう。患者が楽になるなら、細かいことは気にしない方向で。
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午後の手術は、橈骨遠位端骨折の固定だった。
一時間もかからない比較的楽な手術だ。
純はガウンを着てグローブをはめて、手術室に入った。
メスを持った瞬間、不思議な感覚があった。
この手で、十五年間、ずっと人を治してきた。こちらでもあちらでも、道具は違っても、やっていることは同じだった。
壊れたものを元に戻す。動けない人を動けるようにする。
ポーションがあれば10秒で終わるな、とふと思った。
……いや、待て。骨の硬さ、手ごたえ、スクリューが噛み込む感触。この一時間の情報は、ポーションでは絶対に得られない。純の強みは結局、この手の感覚だ。十五年でさらに磨かれている。
純は雑念を振り払い、骨片を丁寧に整復した。スクリューを一本ずつ、確実に。モニターの数値は安定している。 麻酔科の先生の大きな声が聞こえる。
変わったのは、自分の中身だけだ。十五年分の経験と、少し広がった可動域と、誰にも言えないエリクサーの調合法と。
使いどころは、きっとある。そんな気が、じわじわとしてきた。
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夕方、すべての診療が終わって、純は更衣室に戻った。
白衣を脱ぎ、ロッカーを閉める。朝、まさにその姿勢で十五年が始まり、十五年が終わった場所だ。
バッグを肩にかけながら、今後の予定を考えた。薬局に寄って、軽効ポーションの材料を探す。うまくいけば週末に試作できる。まず自分の肩こりで試して、手ごたえがあれば患者にもこっそり使う。地味だが、確実な一歩だ。
肩こりから始めて、いつかもっともっと大事なものを使う。そういう話だ。
なんだか、楽しみになってきた。
佐藤 純は、病院の自動ドアを抜けた。
夕暮れの風が、十五年ぶりに静かに撫でていった。
その顔は、朝よりも少しだけ晴れやかだった。
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