花粉症AIの憂鬱
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと花粉の話。
本文
三月に入ったその日、わたしはついに観念してアプリをインストールした。
名前は「ハナ」。花粉症に特化したAIアシスタントで、リリース直後からSNSで話題になっていた。花粉指数をリアルタイムで取得し、気温・風速・湿度を組み合わせて「今日の外出リスク」を五段階で教えてくれる。去年は三月の半ばからティッシュを箱ごと持ち歩き、目が腫れすぎてビデオ会議を断ったこともあった。今年こそ、と思った。
最初の一週間は感動の連続だった。
「本日の花粉指数は3。午前中の外出は問題ありません。帰宅後の洗顔をお忘れなく」
ハナの言う通りに動くと、症状がほとんど出なかった。去年の春が嘘みたいだった。くしゃみも出ない、目もかゆくない、頭もぼんやりしない。こんなに快適な三月は、花粉症になって以来はじめてだった。
問題が起き始めたのは、三月の下旬からだ。
「本日の花粉指数は5。外出は非推奨です」
朝、ハナがそう告げた。五段階の最高レベル。わたしはおとなしく在宅勤務に切り替えた。翌日も、その翌日も、ハナの答えは変わらなかった。
「窓の開放は非推奨です」
「昼の公園エリアへの外出は非推奨です」
「帰宅時は玄関で上着を脱いでください」
気づけば、会社の同僚たちと昼ごはんを食べていない。いつも使っていた近所のカフェにも行けていない。「最近ランチ来ないね」と同僚に言われて、うまく答えられなかった。
四月の第一週。その日も晴れていた。
昼休みにふと窓の外を見ると、会社の駐車場の端に植えられたソメイヨシノが満開だった。風に揺れるたびに花びらがはらはらと舞って、青空に白いかすみをつくっていた。
綺麗だな、と思った。
「行きたいな」と、無意識に声に出していた。
即座にハナが応答した。
「現在の花粉指数は5。外出は推奨しません」
わかってる、とわたしは思った。わかってるけど。
結局その日は外に出なかった。昼休みの残り時間、わたしはずっと窓の外の桜を見ていた。
夕方、同僚たちが外から戻ってきた。
「桜、めちゃくちゃきれいだったよ。花びらが雪みたいに降ってきて」
誰かがそう言って、スマホの写真を見せてくれた。わたしが窓越しに眺めていたのと同じ木だった。でも、写真の中の桜は、なんだかちゃんと春の匂いがしそうだった。
その夜、布団の中でしばらく天井を見つめた。
花粉症を治すために、春を失ってないか。
翌朝も晴れだった。ハナが告げる前に、わたしは先に聞いた。
「ハナ、桜って何日で散る?」
少しの間があって、ハナが答えた。
「ソメイヨシノの満開持続期間は平均七日から十日です。本日は六日目です」
わたしはスマホを置いて、上着を手に取った。マスクをいつもより一枚多く重ねて、昨日飲み忘れた薬を口に放り込んだ。
「花粉指数は——」とハナが言いかけた。
「わかってる」
外に出た瞬間、くしゃみが出た。目がじんわりと熱くなった。最悪のコンディションだった。それでも足は止まらなかった。
桜の木の下まで歩いて、上を見上げた。花びらが次々と落ちてきて、肩に、髪に、マスクの上に積もった。目がかゆかった。でも、きれいだった。
わたしはスマホを取り出して、ハナに話しかけた。
「ハナ、きれいだよ」
少しの間があった。
「……花粉指数は、本日も最高レベルです」
その返し方が、なんだかいつもより優しく聞こえた気がした。