断章「蓮見澪――静かなる祈り――」
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
高校生の少女・神原紅(かんばら くれない)は、 ある夜、角を持つ少年の夢を見る。 その日を境に、日常は静かに崩れ始めた。 町に広がる昏睡事件。 影の怪異に襲われる人々。 転校生・蓮見澪(はすみ みお)、教師・御影玲瓏(みかげ れいろう)とともに、紅は事件に巻き込まれていく。 著者X(@yurayuraraj2a)
本文
夜が深くなるほど、世界の音は澄んでいく。祓刀院にいた頃、私はその静けさを“脅え”だと思っていた。闇に潜むものを警戒し、気配の揺らぎを探し、影の形を確かめるために、いつも呼吸を浅くしていた。けれど今は違う。この静けさは、恐れではなく――“誰かを思い出すための余白”なのだと、ようやくわかる。
ひとつ息を吸う。胸の奥に、まだ消えきらない痛みがある。私が初めて人を斬った夜の、あの形のない叫び。……今の私は、あの兄が“憑かれていた”のだと言える。けれどあのときの私は、ただ“人を斬った”という事実だけに震えていた。
祓いだったのか、殺しだったのか。その境界が、どうしても見えなかった。それでも私は、刃を手放せなかった。斬ることでしか届かない救いがあると、ひとりで信じ続けていたからだ。……けれどもう、その信じ方には戻れない。
あの日。紅が光に溶け、世界が呼吸を取り戻したとき―― 私は初めて、“祓わなくても、救われる瞬間がある”ということを知った。その記憶が、今も胸の奥で静かに揺れている。
◇
御影先生のことを思い出すとき、胸の奥がすこしだけ温かくなる。それは悔しさでも憎しみでもなく、たぶん――“消しきれなかった優しさ”の温度だ。先生はいつも落ち着いていて、理の歪みを前にしても動じなかった。祓刀院の人間とは違う、“見つける前に一度、静かに眺める”大人だった。
今思えば、あれは観測者の眼差しだったのだろう。けれど当時の私は、その静けさがただ羨ましかった。
「焦らなくていいわ、蓮見さん」 そう言って、黒板の数式を指でなぞりながら微笑む姿を、私は今もはっきり思い出せる。
……あの日までは、あの人が“世界の側”へ行こうとしているなんて、少しも気づけなかった。先生の優しさが偽りだったとしても、 私はそれを嘘にしたくなかった。嘘だったと言ってしまえば、あの日々まですべて壊れてしまうから。
だから私は、御影玲瓏を憎めないまま、彼女の選んだ道だけを悔やんでいる。どうして止められなかったのだろう。あの地下で、彼女が世界に溶けていく直前に見せた“人の表情”を――私は今も忘れられない。世界を観測することに疲れた眼。誰にも届かない願いを抱いた、人の眼。
あのときの私は、まだ彼女の痛みを“祓うべきもの”としてしか見られなかった。祈るという形を、知らなかった。だからこそ、御影先生の背中を止めることができなかった。その後悔は、今でも静かに胸の奥に居座っている。けれど紅が教えてくれた。“見なくても、在る”。
祈りとは、赦すことではなく、赦しの温度を覚えていることだと。ならばきっと――御影玲瓏の温度も、消えない。私は、あの人のことを忘れない。彼女が間違えたとしても、その優しさまで間違いだったとは言わない。それだけが、あの人に向けられる、私の唯一の祈りだ。
◇
紅のことを思い出すとき、胸の奥がふっとどこか温かくなる。
あれはきっと、悲しさだけではない。名前をつけられない、静かな光のような感情だ。初めて彼女の瞳に涙を見た夜、私は“鬼”と“人”の境界が、思っていたよりずっと薄いものだと知った。
「怖かった……誰かを壊してしまいそうで……」
あの声は震えていて、でもその震えが、逆に私を救った。
泣けるなら、人だ。 恐れるなら、人だ。
そう思えた瞬間、私の中でずっと絡まっていた何かが、すこしほどけた。紅は、ずっと怯えていた。 世界のほうが先に彼女を“見てしまう”から。ただ生きているだけで観測に晒され、形を削られ続けていた。だからあの日――彼女が黎明の光の中に溶けていった瞬間、私は声を出すことすらできなかった。驚きでも、絶望でもなく、ただ、“ああ、この人はやっと呼吸ができたんだ”そう思ってしまったから。
会いたい。 話したい。 あの日の続きを、ほんの少しでいいから聞きたい。そう思うことは、今でもある。世界のどこかで風が鳴るたび、その音の輪郭に彼女の気配を探してしまう。けれど、不思議と寂しくはない。紅を探すかわりに、私はただ祈る。それで十分だと思えるくらい、祈りの中に彼女の温度が残っている。
祈るたびに、胸の奥に“在る”という感覚が灯る。消えてしまったのではなく、世界の呼吸へと還ったのだと、ようやく理解できたからだ。紅はもう、どこにもいない。でも、どこにでもいる。その矛盾を、私はそのまま受け入れる。受け入れるというより――覚えている。
祈りとは、赦しではない。赦しが確かに“在った”ことを思い出し続ける行為。
だから私は、彼女を忘れない。悲しみではなく、光として。紅の残した欠片が、風に触れるたびに微かに鳴る。それで私は十分だ。世界が呼吸している限り、彼女もきっと息をしている。そう信じられるようになったのは、ほかでもない――紅のおかげだ。その光は、いまも私の呼吸のどこかに宿っている。
◇
祓刀院を去ると決めたとき、不思議なほど胸の痛みはなかった。刃を置くことが、後ろめたさでも逃避でもないと、ようやくわかったからだ。祓うという行為は、ずっと“正しさ”の象徴だった。誰かの恐れを断ち、乱れた理を正し、世界を守るための力。けれど、その正しさの中にはいつも私自身の痛みが隠れていた。 兄を斬った夜に始まった痛みが。
教義は「影を斬れ」と教えた。でも私は、斬るたびに“人の形”を見ていた。
紅と出会い、御影先生を失い、私はようやく気づいたのだと思う。――斬って終わる痛みは、ほとんどない。
静かに触れ、静かに寄り添い、静かに思い出すことでしか、ほどけない痛みがある。それを“祈り”と呼ぶのだと、紅が教えてくれた。
だから私は、祓刀院を離れる。正義ではなく、揺らぎの側に立つために。斬る者ではなく、“覚えている者”として世界に関わるために。これから私は、各地に残る理の歪みを静めて歩くだろう。怪異の声に耳を澄ませ、祓わず、ただ“見届ける”という道を選ぶ。それは救いではない。赦しでもない。ただ、壊れたものの隣に立つという選択だ。それが、私にできる唯一の祈り。
風が吹くたび、紅の欠片が微かに鳴る。その小さな音が、私に教えてくれる。
――見なくても、在る。斬らなくても、届く。
だから私は歩く。祓いではなく、祈りを携えて。世界がふたたび呼吸を忘れぬように、せめて、小さな揺らぎのそばで。紅の残した黎明を、この手のひらでそっと守りながら。