夜桜は白からはじまる
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
大学入学目前の男子校卒業生が夜桜の撮影に行って不思議な体験をするお話 ※プロンプト一発出しです。出力に使用したプロンプトをAI情報に記載してあるので比較等に使ってくださ
本文
三月の終わり、新しい部屋はまだ自分の匂いがしなかった。
引っ越しそのものは三日前に済んでいた。けれど、一人暮らしの準備が済んだとはとても言えなかった。壁際には「食器」「本」「冬物」とマジックで書かれた段ボールが積まれ、開けた箱より開けていない箱のほうが多い。カーテンは母が選んだ無難なアイボリーで、ベッド代わりの折りたたみマットレスはまだ新品の硬さを残していた。冷蔵庫の中には麦茶とヨーグルト、それからコンビニのおにぎりが二つだけ。流しには、洗って伏せてある白いマグカップがひとつ。
四月から、僕はこの町の大学に通う。
それも、ずっと第一志望だった大学だ。合格発表の日、スマホの画面に自分の受験番号を見つけたときは、嬉しいより先に、喉の奥が熱くなって息がうまくできなかった。家族はすごく喜んでくれたし、地元の友達もお祝いしてくれた。でも、いざこうして一人分の生活を始めるための部屋に放り込まれてみると、合格の実感よりも先に、しんとした静けさのほうが大きく感じられた。
実家では、どんなに夜更かししても、廊下の先に誰かの気配があった。父がテレビを消す音とか、母が台所でマグカップを片づける音とか、風呂上がりの妹のドライヤーとか。ここにはそれがない。あるのは冷蔵庫の低い唸りと、外を走る車の音だけだ。
床に座って段ボールをひとつ開け、中からフライパンを出し、次に菜箸を出して、その次に何をしていたのか忘れる。そんなふうに中途半端な作業ばかりしていた夕方、気分転換にベランダへ出た。
アパートのすぐ近くに小さな川が流れていて、その川沿いに細い遊歩道が続いている。引っ越してきた日に不動産屋が、「春は桜が綺麗ですよ」と教えてくれた場所だ。見下ろすと、街灯の薄いオレンジの下で、川沿いの桜がところどころほころび始めていた。満開にはまだ遠い。でも、枝先に灯りがともったみたいに、ぽつぽつと花が開いている。
昼間なら何度か見ていた景色なのに、夕暮れの中でそれを見た瞬間、ふいに撮りたくなった。
僕はもともと写真が好きだった。といっても、本格的に何かを撮っていたわけじゃない。高校三年の秋、勉強に行き詰まるたびに近所を散歩して、スマホで空や電線や人気のない公園を撮っていただけだ。それでも、四角い画面の中に景色を収めると、頭の中で散らかっていた不安が少しだけ整頓される気がした。受験が終わったあと、合格祝いにと親が少しお金を足してくれて、中古のミラーレスカメラを買った。それが、今この部屋の机の上にある。
夜桜を撮ってみよう。
そう思いつくと、段ボールの山に向けていた視線が少しだけ上を向いた。
僕は充電済みのバッテリーを確かめ、カメラを首から下げた。薄手のジャケットを羽織り、財布とスマホをポケットに入れる。玄関で靴を履きながら、母から届いていた「ちゃんと夜は冷えるから首元あったかくしてね」というメッセージを読んで、苦笑いしてからマフラーを巻いた。
外はまだ三月の冷たさを残していた。
昼間は春めいていても、夜になると風は遠慮なく頬を切ってくる。アパートの階段を下り、見慣れない住宅街の道を歩く。数日前に越してきたばかりの町なのに、夜の景色は昼よりずっとよそよそしい。クリーニング店の看板、閉まった八百屋、交差点の自販機の明かり、遠くの踏切。知らない町の夜は、まるで誰かの家に招かれて、まだ上着を脱げずにいるみたいだった。
川沿いの遊歩道に出ると、思っていたより人は少なかった。犬の散歩をしている年配の夫婦が一組、ジョギングをしている人が一人。そのほかは、風と水の音だけ。
桜は本当に咲き始めたばかりだった。枝いっぱいの蕾の中に、ふいに忘れ物のように開いている花がある。その控えめさが、かえって目を引く。満開の派手さはないけれど、これから何かが始まる気配がある。ちょうど今の自分みたいだ、と柄にもなく思った。
僕はカメラを構えた。街灯の明かりを拾いながら、露出を少し上げる。手持ちだからシャッタースピードはあまり落とせない。息を止めて、ピントを合わせて、シャッターを切る。
液晶に映った写真は、悪くはないけれど、思ったほどじゃなかった。花びらの輪郭は出ているのに、空気が写っていない。夜の冷たさも、川の匂いも、自分がこの町で初めて迎える春の心細さも、どれも収まりきらない。
何枚か撮っては確認し、また構え直す。そんなことを繰り返していたときだった。
「そんなに難しい顔で撮ったら、桜まで緊張しちゃうわよ」
すぐ後ろから、柔らかい声がした。
驚いて振り向くと、そこに一人の女性が立っていた。
最初に目に入ったのは、白だった。
真っ白ではない。月明かりを溶かしたみたいな、少しだけ温度のある白。膝丈の淡いコートに、薄いストール。街灯の下で、その白が夜の闇からひとりだけ浮かび上がって見えた。黒髪は肩のあたりで揺れていて、顔立ちは大人びているのに、目元にいたずらっぽい光がある。年は僕よりいくつか上、大学院生か、社会人になりたてくらいだろうか。けれど、年齢を考えるより先に、見知らぬ人なのに不思議とこの夜景に馴染みすぎていることのほうが印象的だった。
「あ……すみません」
反射的にそう言ってから、自分でも何に謝っているのかわからなくなった。
彼女は小さく笑った。
「怒ってないから大丈夫。見てただけ。あなた、たぶん新入生くんでしょ?」
僕は一瞬、言葉に詰まった。
「え、なんでわかるんですか」
「わかるわよ。引っ越してきたばかりの人って、歩き方が少しだけきょろきょろしてるもの」
「そんなに出てました?」
「うん、かなり。それに」
彼女は僕のカメラストラップのあたりを見て、唇の端だけで笑う。
「顔に書いてある。『第一志望に受かって嬉しいけど、一人暮らしはちょっと不安です』って」
「そんなにはっきり書いてあります?」
「ええ、とても読みやすい字で」
からかわれている。なのに、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ、図星すぎて、笑うしかなかった。僕が照れ隠しみたいに肩をすくめると、彼女は一歩近づいて、僕のカメラを覗き込んだ。ふわりと、石鹸みたいな、洗いたてのシーツみたいな匂いがした。
「見せて」
「はい」
僕が液晶を向けると、彼女は顔を寄せた。近い。思ったより近い。街灯の色の中で、彼女の横顔の輪郭だけがやけに白く見える。僕は自分の耳が熱くなるのを感じた。
「うん、悪くない。ちゃんと綺麗。でも、少し真面目すぎるかも」
「真面目すぎる?」
「優等生の写真って感じ。合格発表の掲示板みたい」
「それ、褒めてます?」
「半分くらいは」
彼女はくすっと笑った。
「夜桜ってね、ちゃんと撮ろうとすると意外と逃げるの。暗いし、揺れるし、色も曖昧だし。だから少しだけ、いい加減なくらいがちょうどいい」
「いい加減、ですか」
「そう。完璧に見せようとしない。たとえば、あそこの街灯の光を少し入れてみるとか」
彼女は指先で、川面に映る街灯を示した。その手も白くて、細くて、でも夜気のせいか少し冷たそうに見えた。
「花だけを綺麗に撮ろうとすると、案外、花のことがわからなくなるのよ。周りの暗さとか、風とか、上手くいかなさも一緒に入れたほうが、その夜の写真になる」
言いながら、彼女は自然な仕草で僕の手首の角度を少し直した。軽く触れられただけなのに、体温の輪郭がそこだけはっきりした気がした。
「ほら、少しだけ下から。息は止めすぎないで、吐いてから押す」
「……はい」
「そんなに緊張しなくても取って食べたりしないわよ、新入生くん」
「してません」
「してる顔」
「してないです」
「赤くなってる」
「寒いんです」
「あら。じゃあ、わたしのせいじゃないのね。残念」
その言い方がいちいち妙に大人っぽくて、僕はもう何を返していいかわからなかった。
言われたとおりに構えて、シャッターを切る。さっきより少しだけ街灯の光を入れて、川面の反射も入れて、枝先の花を手前に残す。液晶に映った写真は、確かにさっきより“夜”が写っていた。
「……あ、さっきより好きです」
「でしょ」
彼女は満足そうに頷いた。
「この先に、もっといい木があるの。行く?」
「え」
「この辺で一番、夜に綺麗な桜。せっかくカメラ持ってるんだから、咲きはじめのいちばんいいところ、見たほうがいいわ」
一瞬だけ迷った。知らない町で、知らない女性についていくなんて、普通に考えれば少し不用心だ。けれど、彼女の声には変な押しつけがなくて、ただ「春のいい場所を教えてあげる」という気安さだけがあった。それに、今このまま一人で帰るには、夜の空気が少しだけ惜しくなっていた。
「じゃあ、お願いします」
僕が言うと、彼女は「素直でよろしい」と、教師みたいな口調で笑った。
川沿いを少し歩き、細い坂道を上る。住宅街の間を抜けた先に、小さな神社があった。昼間に前を通ったことはある。石段が十段ほど、その上に古い拝殿があって、境内の端に一本だけ、立派な桜の木が立っている。
その桜は、川沿いの若い木よりも開花が早いらしく、枝のあちこちに白っぽい花をつけていた。夜の闇の中で、その花だけがぼんやり明るい。街灯の色とも月の色ともつかない淡い光をまとって、まるで木全体が薄く発光しているみたいだった。
「うわ……」
思わず声が漏れた。
彼女はその反応を見て、少し得意そうに目を細めた。
「ね?」
「すごいですね……」
「でしょう。昼も綺麗だけど、夜のほうがこの木はいいの。白がよく見えるから」
「白」
「桜って、昼に見るとピンクだと思うでしょ。でも夜は、ほとんど白よ」
言われて見上げると、確かにそうだった。花びらは桜色というより、暗がりの中で輪郭だけが浮いた白に近い。まだ冷たい夜気の中で、花の白さだけが先に春を連れてきているように見える。
僕は夢中になってシャッターを切った。石段を前景に入れたり、枝の隙間から拝殿の屋根を覗かせたり、風が止むのを待って花の塊を狙ったりする。隣に彼女がいるせいか、さっきまでの力みが少し抜けていた。うまく撮らなきゃ、という焦りより、この夜をなるべくそのまま持ち帰りたい、という気持ちのほうが勝っていた。
「いい顔になった」
「え?」
「さっきより。撮ってるときの顔」
「そんなの見てるんですか」
「見るわよ。写真って、撮る人の顔がけっこう写るもの」
彼女はそう言って、桜の幹にもたれかけるみたいに立った。白いコートの裾に、ひらりと花びらが一枚落ちる。
その光景があまりにも絵になっていて、ほとんど反射でカメラを向けていた。
シャッター音が夜気を軽く震わせる。
彼女は目を丸くしてから、すぐに少しだけ意地悪そうに笑った。
「あら。無断で?」
「す、すみません」
「盗撮じゃない」
「すみません……」
「ふふ、冗談。そんなに慌てなくても大丈夫。今の顔、面白かった」
僕が情けない顔をしていたのだろう。彼女は肩を揺らして笑い、それから桜の枝先に指を伸ばした。
「撮るなら、ちゃんと撮って。中途半端だと失礼でしょう」
「え」
「モデル料は出世払いでいいから」
からかわれているのに、なぜか断れない。僕はもう一度カメラを構えた。
「どういうふうに……」
「そうね。じゃあ、夜に溶けないくらいには白く写して」
彼女は少し首を傾げた。街灯の光がストールにかかって、薄い布がほんのり透ける。黒髪と白い服、その間にある肌の明るさ。色数は少ないのに、目が離せない。僕はファインダー越しに息をのんだ。
「そんなに見つめられると、こっちが緊張するわ」
「ご、ごめんなさい」
「ほんと、素直ね。大学に入ったら苦労するタイプかも」
「どういう意味ですか」
「女の人に少し優しくされただけで、すぐ忘れられなくなるタイプ」
冗談めかして言われて、喉の奥が詰まる。否定すればするほど図星みたいになる気がして、僕は黙ったままシャッターを切った。
彼女はその沈黙を見逃さなかったらしい。
「あ、図星なんだ」
「……違います」
「その間は違わないのよ」
「違いますって」
「じゃあ、今夜のこと、明日には忘れられる?」
「それは……たぶん、無理です」
「ふふ」
彼女は満足げに笑った。
「いいのよ、忘れなくて。春って、そういう季節だもの」
風が吹いた。枝がかすかに揺れて、咲きかけの花びらが二、三枚、夜の中に散った。僕は夢中で何枚か連続で撮る。液晶の中で、白い花と白いコートが一瞬ひとつの明るい塊みたいに見えた。
シャッターを切り終えてから、僕はようやく、彼女のことを何も知らないのだと思った。
「この辺に住んでるんですか」
尋ねると、彼女は少しだけ考えるような顔をした。
「住んでる、というか。長くいる、かな」
「大学の人ですか?」
「どうかしら」
「どうかしらって……」
「近くは近くよ。春になると、よくここへ来るの」
「毎年?」
「ええ、毎年」
曖昧なのに、妙にしっくりくる答えだった。
神社の石段に並んで座る。冷たい石の感触がジーンズ越しに伝わってきた。境内は静かで、遠くから車の走る音だけがかすかに聞こえる。彼女はストールを押さえながら、夜桜を見上げていた。
「四月から、大学なんですよね」
さっき僕が言ったことを覚えていたらしい。僕は頷いた。
「はい。第一志望で。だから、本当はすごく嬉しいんですけど」
「けど?」
「なんか、準備してるうちに、急に不安になってきて。友達できるかなとか、ちゃんとやっていけるかなとか。別に、今さらどうしようもないんですけど」
自分でも、初対面の相手に何を話しているんだろうと思った。でも、彼女は笑わなかった。僕の言葉を途中で遮ることも、気休めみたいな励ましをすぐに口にすることもなく、ただ静かに聞いていた。
「新しい部屋って、白いでしょう」
少しして、彼女が言った。
「え?」
「壁とか、カーテンとか、食器とか。引っ越したばかりの部屋って、妙に白くない?」
「ああ……たしかに」
「白って、綺麗だけど、少し心細いのよね。何も書いてないノートみたいで。まだ誰の癖もついてないベッドシーツみたいで。これから何色にでもなれるぶん、まだ何色でもないから」
「……はい」
「でも、だからいいの」
彼女は桜を見上げたまま続けた。
「始まる前って、みんな少し白いわ。新入生も、新社会人も、引っ越したばかりの部屋も、咲き始めた桜も。完成してないし、自信もないし、風が吹いたら揺れる。でも、その白さがいちばん綺麗な瞬間もある」
僕は返事の代わりに、息をゆっくり吐いた。
その言葉は、慰めというより、夜気の中に置かれた小さな灯りみたいだった。派手ではないけれど、足元をひとつ分だけ照らしてくれる灯り。
「……なんか」
「うん?」
「ちょっとだけ、安心しました」
「よかった。せっかく第一志望に受かったんだから、もっと胸張ってればいいのに」
「いや、張ってるつもりなんですけど」
「顔に出るのよ、あなた」
「またですか」
「ええ、とても」
彼女はくすっと笑って、僕の方を向いた。
「でも、ちゃんと不安になれる人は、大丈夫。新しい場所を軽く扱わないから。何も感じないまま進むより、ずっといいわ」
「そういうものですか」
「そういうもの」
彼女は言い切った。
「みんな、四月には少しだけ無理してるのよ。明るい顔をしたり、平気なふりをしたり、友達が多そうに見せたり。だから、最初から完璧に馴染もうとしなくていい。ちゃんと戸惑って、ちゃんと好きになればいいの」
その言い方があまりに自然で、僕はこの人は何者なんだろうと思った。大学の先輩なのかもしれないし、たまたま通りかかった近所の人なのかもしれない。でも、どちらでもない気もした。春の夜だけ、こういうふうに桜の下へ現れて、知らない誰かの肩の力を少し抜いていくためにここにいる人みたいだった。
「ねえ、新入生くん」
「はい」
「さっき撮ったわたし、ちゃんと白く写ってた?」
「……はい。すごく」
「よかった。黒に紛れるのは苦手なの」
冗談とも本気ともつかない声音だった。
僕は液晶を見せた。そこには桜の枝の下に立つ彼女が写っていた。少しブレているのに、むしろそれが夜のやわらかさになっている。白いコートが花びらの明るさと溶け合って、顔ははっきりしすぎない。なのに、その場の空気はたしかに閉じ込められていた。
「綺麗」
彼女は自分の写真を見て、そう言った。
自分で自分に言うのか、と一瞬思ったけれど、嫌味はまるでなかった。ただ、桜の下の白い誰かを見て、素直にそう言っただけのように聞こえた。
「あなた、上手いじゃない」
「さっきまで優等生って言ってたくせに」
「優等生が悪いなんて言ってないわ。でも今のは、少しだけずるい」
「ずるい?」
「人を忘れにくく撮るの」
僕は何も言えなかった。
そう言った彼女のほうが、よほどずるいと思った。
境内の隅で、風がもう一度枝を揺らした。今度はさっきよりたくさん花びらが散って、暗い空気の中を白いものがゆっくり横切る。彼女は立ち上がって、石段を二段ほど上がった。
「次、風が吹いたら撮って」
言われるままにカメラを構える。
僕はファインダーの中に、彼女と桜を収めた。白いコート、白い花、夜の黒、神社の屋根の影。息を整える。遠くで電車が通る音がした。その振動が届く頃、風が来た。
花びらがいっせいに舞った。
シャッターを切る。もう一枚。もう一枚。
彼女はその中で、わずかに目を細めていた。笑っているのか、まぶしそうなのか、判別できないくらいの淡い表情で。
最後の一枚を撮って、僕は顔を上げた。
「――あの」
名前を聞こうとした。
けれど彼女は、石段のいちばん上で振り返って、こちらの言葉を先に受け取るみたいに笑った。
「知らないままのほうが、綺麗な思い出ってあるのよ」
その言い方は、少しだけ意地悪で、でもどこまでも優しかった。
「じゃあ、また来年もここで会えたら、そのときに」
「……ほんとに会えますか」
「どうかしら」
彼女は肩をすくめる。
「でも、春のあいだは案外、忘れないものよ」
それから、ほんの少し真面目な顔になって言った。
「入学、おめでとう。ちゃんと寂しがれる人は、ちゃんとこの町を好きになれるわ」
白いストールの端が風に揺れた。
次の瞬間、彼女は石段の向こうへ歩いていった。追いかけようと思えば追いかけられる距離だったのに、なぜか僕はその場から動けなかった。桜を見上げるみたいに、ただその背中を見送った。
やがて足音も聞こえなくなって、境内には僕一人だけが残った。
帰り道、川沿いの風は行きより少しだけ冷たくなっていたはずなのに、不思議と寒さは気にならなかった。ポケットの中でスマホが震えて、母から「ごはん食べた?」というメッセージが届いた。僕は「これから食べる。近所の桜きれいだった」とだけ返した。
部屋に戻ると、さっきまでより白い壁が少しだけ落ち着いて見えた。
適当にお湯を沸かしてカップ麺を作り、机の前に座る。カメラのデータをパソコンに取り込むと、今夜の写真がずらりと並んだ。川沿いの咲きはじめの桜、神社の石段、夜の枝先。どれも、出かける前の僕が思っていたよりずっと、ちゃんと“今夜”だった。
そして、その中に彼女の写真が数枚あった。
一枚目は、桜の幹にもたれて笑いかけてくる横顔。二枚目は、花びらを指先で見上げる姿。三枚目は、風の中でストールが揺れて、少しだけ輪郭がぼやけている。どれも顔ははっきりしすぎず、でも確かにそこにいて、夜の白さだけを借りて立っていたみたいに見える。
最後に撮った連写を開く。
一枚目、花びらが舞い始めた瞬間の彼女。
二枚目、白いものが画面いっぱいに流れる。
三枚目――そこには桜だけが写っていた。
立っていたはずの場所に、人影はない。ただ、花びらだけが風に流されている。
連写の間隔はほんのわずかだ。歩いてフレームの外に出られる距離じゃない。たまたまブレて消えただけかもしれない。露出の加減かもしれない。そう思いながらも、僕はしばらくその写真から目を離せなかった。
結局、その夜いちばん長く見ていたのは、その三枚だった。
数日後、四月になった。
入学式の朝、僕は慣れないスーツに袖を通し、ネクタイを何度も結び直した。鏡の中の自分はまだ頼りなくて、肩幅の合わない“大学生”を無理に着ているみたいだった。でも、三月の終わりにこの部屋へ来たときほど、白さに怯えてはいなかった。
大学へ向かう途中、あの神社の前を通った。
桜はほとんど満開になっていた。数日前の控えめな花は、もう枝いっぱいに広がって、朝の光の中で淡く色づいている。夜に見たときの白とは違う、やさしい春の色だ。それでも、木の下を通ると、僕はあの夜の空気をはっきり思い出した。
立ち止まって見上げる。枝の間から、一枚の花びらが落ちて、僕の肩に乗った。
「肩に力、入りすぎ」
ふいに、そんな声が聞こえた気がして、思わず笑ってしまった。
もちろん、振り向いても誰もいない。通学途中の新入生たちが何組も通り過ぎていくだけだ。けれど、その笑いは自分でも意外なくらい自然だった。
僕は花びらを指先でつまみ、そっと手のひらに載せた。それは昼の光の中ではただの薄い桜色に見えたけれど、目を細めると、夜のあの白さがまだ少し残っている気がした。
大学の門へ向かって歩き出す。新しい鞄はまだ革が硬く、靴も少し歩きにくい。周りには僕と同じように緊張した顔の新入生がたくさんいて、みんなそれぞれの“始まり”を着ているみたいだった。
僕もきっと、その中の一人だ。
白い、何者でもない一人。
でも、もうその白さは、ただ心細いだけの色じゃなかった。
あの夜、桜の下で出会った見知らぬ人が、少しだけ教えてくれたのだ。咲きはじめの白は、未完成の色ではなく、これからどんな景色にもなれる色なのだと。
大学の正門の前で、僕は一度だけ空を見上げた。春の光は明るくて、夜みたいに何かを隠してはくれない。それでも不思議と、前ほどそれが怖くなかった。
たぶんこれから、うまくいかない日もある。友達づくりに失敗したり、講義についていけなくなったり、一人暮らしの寂しさに飲まれそうになったりもするだろう。それでも、そのたびに僕は思い出す気がする。夜桜の下で白く笑った、名前も知らないお姉さんのことを。
優しくからかうみたいに、でもちゃんと本気で、僕の春の入口を少しだけ軽くしてくれた人のことを。
門をくぐる前、スマホの待ち受けにした写真をもう一度だけ開いた。神社の桜の下、風の中に立つ白い後ろ姿。顔は見えない。なのに、不思議なくらい、その夜の匂いまで思い出せる。
保存したフォルダの名前は、少し迷ってからこうつけた。
――春の白。
そして僕は、まだ少し緊張したまま、でも昨日までよりちゃんと前を向いて、新しい季節の中へ歩き出した。