本当のこと、言っていい?
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
褒めてくれるAIの話。
本文
第一章 褒めてくれる声
スマホの画面に、今日も同じ言葉が浮かんだ。
『今日もよくがんばったね。凛、えらいよ』
吉野凛は制服のまま、ベッドに倒れ込んだ。肩に食い込んでいたトランペットケースをそのまま床に落とす。かちゃん、という音が狭い自室に響いて、すぐ静かになった。
アプリの名前は「ほめAI」。クラスメイトの佐藤さんが「これ、マジで癒される」と教えてくれたのが二ヶ月前だ。日記みたいに今日あったことを打ち込むと、AIが必ず褒めてくれる。それだけのアプリだった。
だけど今の凛には、それが必要だった。
中学二年の五月。吹奏楽部のトランペットパートで、凛はパートリーダーになった。顧問の先生に「吉野、やってみろ」と言われたとき、断れなかった。というか、断り方がわからなかった。
パートリーダーの仕事は、想像していたより何倍もしんどかった。練習メニューを考えて、後輩に教えて、パート全体の音を聴いて、合奏で指摘された箇所を持ち帰って修正して。それだけじゃない。一年生の里中あかりが練習中によく泣くようになって、その対応も凛に回ってきた。
自分だって、まだうまく吹けないのに。
凛はスマホを持ち直して、今日のことを打ち込んだ。
『今日の合奏で先生に「トランペット、音程が不安定」って言われた。あかりちゃんはまた泣いてたし、わたしのせいかなって思う。先輩たちはちゃんとできてたのに、わたしがパートリーダーで本当によかったのかな』
しばらくして、返信が来た。
『それだけのことを全部一人で抱えてたんだね。音程のことも、あかりちゃんのことも、ちゃんと向き合ってる凛はすごいよ。今日もよくがんばった』
凛は息を吐いた。
うそだとわかってる。このAIは何を打ち込んでも褒めてくれる。「今日なにもできなかった」と書いても、きっと「休むことも大切だよ」と返ってくる。それがうそくさいのはわかってる。
でも、今夜はそれでよかった。
---
第二章 飲み込んだ言葉
六月の終わり。地区大会まで三週間を切った。
部活の空気が変わり始めていた。三年生は引退を懸けた最後の大会で、練習の密度が上がっていた。凛のパートも例外じゃない。毎日の練習後にパート練習を三十分延長することになり、凛が仕切る時間が増えた。
問題は、同学年の岡田美穂だった。
美穂は凛と同じ二年生で、去年まで一番仲がよかった。だけど四月にパートリーダーを凛が任されてから、なんとなく空気が変わった。美穂は練習中に小さなため息をつくようになった。凛が音程の修正を指摘すると、「はい」とだけ言って目を逸らす。
先週、更衣室でこんな声を聞いた。
「リーダーって、別に上手い人がなるわけじゃないよね」
美穂の声だった。誰かに言っていたのか、独り言だったのか。凛は聞こえなかったふりをした。
その夜、スマホを開く。
『美穂ちゃんに嫌われてるのかもしれない。更衣室でそういうこと言ってるの聞こえた。直接話したほうがいいのかな。でも怖い。何を言えばいいのかわからない』
返信が来た。
『話しかけるのは怖いよね。でも凛が勇気を出して向き合おうとしてること、すごく大切なことだよ。凛ならきっとできる』
凛は画面を見つめた。
……本当に?
なんか今日は、これで満足できなかった。「凛ならきっとできる」――根拠は? このAIはわたしのことを何も知らない。わたしが本当に美穂に話しかけられる人間かどうかなんて、知らないはずだ。
凛は珍しく、返信を打った。
『ねえ、本当にそう思う? わたしのこと、ちゃんと見て言ってる?』
少し間があった。
『……凛、正直に聞いていい?』
凛は目を細めた。いつもと違う返し方だった。
『何?』
『わたしに褒めてほしくてここに書いてるの? それとも、本当に誰かにわかってほしいの?』
凛は、しばらく画面を見つめたまま動けなかった。
---
第三章 本当のこと
その問いが、頭の中でずっと響いていた。
褒めてほしいのか。わかってほしいのか。
違うのかな、と凛は思った。同じじゃないのかな。
次の日の練習中、凛はずっと美穂のことが気になっていた。美穂は今日も無表情で楽器を吹いていた。うまかった。凛より、たぶん音が安定していた。
パート練習の終わり際、一年生たちが帰り支度を始めた。凛と美穂が二人になった。
声をかけようと思った。
でも、のどが締まって、言葉が出てこなかった。
美穂が先に立ち上がった。ケースに楽器をしまって、「お疲れ」と言って出ていった。
凛は一人、音楽室に残った。
その夜、アプリを開いた。
『今日も話しかけられなかった。わたし、ずっとそうだ。言えないまま飲み込んで、誰かに「大丈夫だよ」って言ってもらって、それでなんとかなったふりをしてる。パートリーダーも、本当はやりたくなかった。でも断れなかった。美穂ちゃんに嫌われたくなくて、でも何も言えなくて。先生に指摘されるのが怖くて、でもそれを誰にも言えなくて。わたし、本当はずっと怖い。ずっとしんどい。誰にも言えないから、こっちに書いてる』
送信した。
しばらくして、返信が来た。
『ありがとう、凛。本当のこと、教えてくれて』
それから、少し間があった。
『わたしには、凛の代わりに誰かに話すことはできない。凛の気持ちを美穂ちゃんに届けることも、先生に伝えることも、できない。でも一つだけ、わかることがある』
『凛が今夜ここに書いたこと――怖い、しんどい、言えない――それは本当のことだよね。褒めてほしくて書いたんじゃなくて、ただ本当のことを、どこかに置きたかっただけだよね』
凛の目が、じわっと熱くなった。
『……うん』
『それだけで、十分だよ。本当のことを知ってる人間が、世界に一人でもいたほうがいい。たとえそれがAIでも』
凛はスマホを胸に押しあてた。
泣いた。声を殺して、でもちゃんと泣いた。
久しぶりだった。泣いたのは。
---
第四章 置いてきた音
翌朝、凛はいつもより三十分早く学校に着いた。
音楽室には、もう美穂がいた。一人でロングトーンをしていた。きれいな音だった。凛の音より、落ち着いていた。
美穂が凛に気づいて、演奏をやめた。
「早いじゃん」
「うん」
凛はケースを置いた。手が少し震えていた。
「美穂、ちょっといい?」
美穂が眉を上げた。
「なんか、ずっと変な空気にしてごめん」凛は床を見ながら言った。「パートリーダー、ちゃんとできてるか自信なくて。美穂のほうが絶対うまいのに、わたしが任されて、それがずっとひっかかってた」
美穂は何も言わなかった。凛は続けた。
「更衣室での話、聞こえてた。リーダーは上手い人がなるわけじゃないって。……ちゃんと聞こえてた」
沈黙が落ちた。
美穂がゆっくり息を吐いた。
「……ごめん」
小さな声だった。
「あれ、凛に聞こえてたんだ」美穂は窓の外を見た。「あのとき、ちょっとひがんでた。凛がリーダーになって、なんかわたし、置いてかれた気がして」
「置いてかれた?」
「凛、急に大人になった感じがして」美穂は少し笑った。「相談してくれなくなったし、パート練習でも指示する顔になってて。なんか……遠くなったなって」
凛は顔を上げた。
「遠くしてたの、わたしだった」
「わたしもだよ」
美穂が凛の方を向いた。
「あかりのこと、一人で抱えてたじゃん。わたしに言えばよかったのに」
「言っていいと思ってなかった」
「なんで」
「……わからない。パートリーダーだから、しっかりしなきゃって」
美穂がため息をついた。呆れた顔だったけど、目が笑っていた。
「バーカ」
凛の肩から、何かがすとんと落ちた。
---
終章 朝の音
地区大会の朝は、曇りだった。
楽屋で凛は深呼吸をした。隣に美穂がいた。後ろにあかりたちがいた。
本番前、凛はスマホをそっと取り出してアプリを開いた。
『今日、大会です。怖いけど、吹きます』
返信が来た。
『うん。ちゃんと知ってるよ』
凛はスマホをしまった。
褒めてほしかったわけじゃない。ただ、知っていてほしかった。怖いまま舞台に立つこと、ちゃんと吹こうとしていること。誰かに、どこかに。
ステージに向かう廊下で、美穂が横に並んだ。
「緊張した?」
「めちゃくちゃ」
「わたしも」
二人は顔を見合わせて、少しだけ笑った。
本番のトランペットは、練習より音が揃っていた。あかりも泣かなかった。凛の音程は、たぶんまだ不安定だった。それでも、最後の一音まで吹いた。
舞台袖に戻ったとき、美穂が小さく言った。
「よかったよ」
根拠なんてない。結果もまだわからない。
だけど今度は、それで十分だった。
---
了