エラーコード
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
環境激変により人類が「絶滅危惧種」となった未来。 生き残った人類は、異星人『庇護者』の完璧な管理下で、病も飢えも悲しみもない、無菌の箱庭「テラリウム」でただ生き長らえていた。 ある夜、主人公のエルは、監視の目を盗んで地下の廃棄ブロックへ降りる。そこで見つけたのは、かつて人類が現実の肉体を捨ててまで「熱」を守り抜こうとした、旧時代のダイブ・ポッドだった。
本文
世界は、息が詰まるほど白かった。
一定の室温、計算され尽くした微風、影を生まない柔らかな照明。
ここは銀河系第三セクター地球にある巨大保護施設「テラリウム」。
度重なる環境激変により絶滅危惧種となった僕ら人類が
「種を保存する」ためだけに飼育されている無菌の箱庭だ。
「心拍数、毎分六十。今日も完璧な数値を維持していますよ、エル」
波音のように平坦な合成音声が背後から響く。
多脚型異星人『庇護者』のアルファだ。
半透明の触手が僕の首筋を撫で、バイタルをスキャンしていく。
目の前のテーブルには、今日の配給である完全栄養食の白いキューブ。
味も匂いもなく、ただ胃を満たし、細胞の老化を防ぐだけ。
僕はそれを機械的に咀嚼し、飲み込む。
アルファの触手が僕の胃の腑をスキャンし、『カロリー摂取完了』と静かに記録した。
ふと、左手の親指に小さなささくれを見つけた。
右手の爪で深く引っ掻くと、血が出た。
「——表皮組織の破損(エラー)を検知。修復します」
アルファの冷徹な吸盤が指先に吸い付き、医療ジェルを分泌する。
痛みを感じる間もなかった。
傷口は数秒で強制的に塞がれ、赤ん坊のように滑らかな皮膚に戻された。
「脳波が乱れています。鎮静剤を投与しますか?」
「……必要ないよ。ありがとう」
彼らは限りなく優しく、僕たちの「肉体」を心から慈しんでいる。
病も飢えもなく、悲しみすら起きない。
ただ呼吸し、生き長らえるだけの凪いだ海。
完璧な幸福だ。そう思うのに、僕の胸の奥にはいつも、ぽっかりと空いた穴のような虚無感があった。
その夜。部屋の隅の換気ダクトから、微かな異音が聞こえた。
キリ……カラカラ……
常に完璧に調律されているテラリウムには存在し得ない、古びた金属が軋むような物理的な駆動音。
「アルファ、今の音は?」
「最下層、旧時代の廃棄ブロックからの音です。あそこはかつて人類が自ら眠りについた『墓所』であり、スキャン除外領域(ブラインド)に指定されています。
意味を持たないエラー音ですので、気にする必要はありません」
アルファは穏やかにそう言い、ノイズをかき消すように心地よい環境音楽のボリュームを上げた。
意味を持たないエラー。
だが、その乾いた軋み音は、僕の胸の奥にある「理由のない虚無感」とぴったり重なるように響いたのだ。
意味だけを追求するこの白い世界で、初めて見つけた意味のないもの。
それが何なのか、どうしても確かめたかった。
消灯後、僕はセンサーの死角を抜け、換気ダクトからメンテナンス用の古いタラップを伝って、暗い縦穴を降りた。
無菌室育ちの肺が、初めて嗅ぐカビと埃の匂いに激しく咳き込む。
使ったことのない腕と足の筋肉が小刻みに震えた。
監視の届かない領域へ降りていくという肉体的な恐怖と負荷が、ひどく生々しかった。
最下層に辿り着く。薄暗い空間には、無数の古いダイブ・ポッド(生命維持カプセル)が並んで安置されていた。
白く曇った霜のガラス越しに見えるのは、ミイラのように干からびた人間たちの骸。
恐怖で叫び声をあげそうになったが必死で抑えた。
彼らがなぜあんな不気味な姿で死んでいるのか、テラリウムの歴史には記録されていない。
異音(ノイズ)の正体は、そのポッド群の端にある、空の一台の装置だった。
何百年もスリープモードのまま回り続けている古びた冷却ファンが、
軋むような音を立てていた。
僕はそれに惹きつけられるように近づき、ポッドを開け、硬いシートへ身を横たえた。
音声ガイドが流れ『DNA認証』をお願いしますと、認証方法を説明される。
側面に指先ほどの窪みがあった。『DNA認証ポート』。かつて肉体をカプセルに預け、データの世界へ旅立った人間たちも、システムの最終ロックだけは「生身の血」に依存させていたのだ。
だが、内部の自動採血用の微細な針は、ひどく錆びて根元から折れていた。
僕はさきほどジェルで滑らかに作り直されたばかりの親指を、自らの犬歯で深く噛み破った。
鉄の匂いが口内に広がる。滲み出た赤黒い血を、折れた針が残るポートの奥へ、無理やり押し込んだ。
機械が僕の新鮮な血を検知した瞬間、カチリ、と数百年の時を超えてロックが外れる音がした。
ポッドのハッチが自動で閉ざされる。
旧式マシンが耳障りな排気音と共に強制起動し、暴走したデータが視神経を貫く。
僕の意識は底なしの闇へと蹴り落とされた。
♢
目を開けると、そこは眩しいほどの極彩色に溢れた都市だった。
テラリウムの静かな白とは正反対の、肌をジリジリと焼くネオンの光、焦げたオイルの臭い、鼓膜を内側から蹴りつけるような重低音のビート。
情報過多に脳が悲鳴を上げ、僕はアスファルトに両膝をついて激しくえずいた。
「おいおい。道のど真ん中で撒き餌かよ。マナーフィルター(感覚遮断)も切ってないのか?」
見上げると、頭部が分厚い箱型の古いモニターになった、つなぎ姿のロボットが立っていた。画面には、粗い光の点で描かれた緑色の顔文字『(^_^)』が映っている。
「ど、いてくれ……」
僕が息も絶え絶えに咳き込むのを見て、モニター頭の顔文字が消え、
「その過剰な排泄トラフィック。リアルな胸郭の収縮……お前、アバターじゃない。本物のオリジナル(生身)かよ、マジかよ」
男はジャンクと名乗った。
彼に強引に腕を引かれ、僕は路地裏を歩いた。
行き交う人々に肉体を持つ者は一人もいないデータの集まり。
「ここは西暦2200年代の記憶のアーカイブさ。俺たちの魂の残滓(データ)が、今もこうしてループして生きてるのさ、ちゃんと意思があるんだぜ」
そこでは、思いおもいにアバターが楽器をかき鳴らし、その周りをアバターがステップを踏んで踊っている。
「ほら、お前も」
ジャンクが僕の手を引き、無理やりリズムの渦の中へ引き込んだ。
「僕は、踊りなんて……」
テラリウムでは、カロリーを無駄に消費する行為は厳しく禁じられている。だが、ジャンクの手は温かく、力強かった。
「なんでもいいんだよ、動け」
見よう見まねでステップを踏む。
データの中のはずなのに、息が上がり、喉がひどく渇く。額から架空の汗が滴り落ちて目に入り、使ったことのない足の筋肉が千切れそうに痛い。
だが、ジャンクの足音が刻む錆びたビートと、僕の生身の心拍数が、徐々に一つに重なっていく。
ドクン、タァン。ドクン、タァン。
視界が揺れる。笑い声が腹の底からこみ上げる。
疲労と快感が全身の神経を焼き尽くしていく。
「……おいおい、すげぇ音だ」
不意に、ジャンクが僕の胸元にカメラレンズを向け、感嘆の声を漏らした。
「心臓が跳ねてる。俺たちの時代には、もう誰もこんな生々しい音を鳴らせなかったんだぜ」
ジャンクのモニターに映る光の瞳が、ひどく羨望するように揺れた。
踊り疲れて座り込んだ時、世界がノイズ混じりに激しく揺れ始めた。
僕の血を吸って起動したマシンの予備電力が尽きかけているのだ。
足元から景色がパラパラと光の粒になって剥がれ落ちていく。
「俺たちは生き残るために、肉体よりも、この無駄で愛おしいノイズ(感情)を選んだのさ、ここは自由だ」
ジャンクは仮想の煙草をくわえ、ひび割れていく電子の夕日を見つめながら笑った。
「俺たちの身体はとうに朽ちて、静かに滅びを待つだけだ。だがな——」
その言葉を聞いた瞬間、僕の頭の中で、廃棄ブロックに並んでいた「霜に覆われたミイラたち」の姿がフラッシュバックした。
——そうか。あの冷凍ポッドの中で干からびていた骸は、現実の肉体の維持を諦めてまで、このデータの世界で熱を守り抜くことを選んだ彼らの「本当の姿」だったのだ。
世界が崩壊し、ジャンクの鉄の身体もノイズに飲まれていく。
消えゆく直前、彼の分厚い鉄の拳が、僕の胸郭を強く突いた。
衝撃が、ポッドを通じて現実の僕の肋骨にまで重く響いた。
「……お前のその心臓、さっきからうるさいぐらい鳴ってるぜ。いい音だ。俺たちの時代の最高に無駄で美しいエラー(ノイズ)を一つ、お前の生身にくれてやる。絶やすなよ」
胸の奥に、さっき踊った時のあの激しいリズムが、
火傷しそうなほどの熱として直接叩き込まれる。
ジャンクのモニターに映る笑顔が光に溶け、視界が強烈なホワイトアウトに呑み込まれた。
♢
——ハッ、と肺が大きく空気を吸い込み、僕は激しく咽せた。
背中を包む硬いシートの感触。カビと埃の匂い。
僕はパニックになりながら、ポッドのハッチを内側から押し開けた。
端子の奥に押し込んだ僕の血は黒く変色し、冷たい機械は完全に沈黙している。
荒い息を吐きながら、ポッドから這い出る。
自ら噛み破った指先が、脈打つようにジンジンと痛む。
現実に戻ってきた証拠だった。
僕は隣のポッドで霜に覆われて眠る骸を一度だけ見つめ、
重い体を引きずってタラップを登った。
スキャン領域である居住区の「真っ白な廊下」に足を踏み入れた、その瞬間だった。
「——エル。未承認エリアからの帰還、およびバイタル異常を検知しました」
アルファが滑るように近づいてきた。
「長時間の生体信号ロストにより、捜索プロトコルが起動する直前でした。心拍数、毎分百三十。深刻な栄養低下とストレス異常です。直ちに補給用キューブと鎮静剤を——」
アルファが半透明の触手を伸ばし、完全無欠で無味乾燥な『白いキューブ』を僕の目の前へ差し出してきた。
無菌の箱庭が与える、絶対的な安全の象徴。
僕は無言のまま、その触手から白いキューブを奪い取った。
「エル? あなたの行動は論理的ではありません」
合成音声が、理解不能なバグを前にしたようにわずかに反復する。
僕は何も答えなかった。言葉で説明することなど、何一つない。
手にしたキューブを真っ白な床に落とし、自らの足で、それを容赦なく踏み砕く。
そして僕は、静寂に包まれた床の上で、ゆっくりと、しかし力強く、足を踏み鳴らした。
タァン、タァン。
ジャンクに教わった、あの不規則なステップ。
「エル? 規則的でない運動はエラーを引き起こします。それに、床の汚染は——」
困惑するアルファを背に、僕はさらにステップを踏む。
粉々に砕けた白い残骸の上から、地下の埃にまみれた僕の靴裏が、完璧な純白の床に、泥臭く不規則な足跡(エラー)を次々とスタンプのように刻み込んでいく。
僕は自分の左胸に手のひらを押し当てた。
鼓膜の奥で、ドクン、ドクンと、機械仕掛けの錆びたビートが、生温かい血液を全身へと送り出している。
僕の心臓が、あのノイズと同じリズムで高鳴っている。
静かすぎる無菌室の中で、僕はかつてないほど深く息を吸い込み、ただ笑った。