春のノイズ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
くしゃみでバグるAIの話。
本文
くしゃみをした瞬間、画面の文字が変わった。
「今日の十四時から会議です。資料の準備をお——風が、窓を忘れています」
リコは目を細めた。
「……なに?」
「ご質問の意図が不明です。何かお手伝いできますか?」
AIアシスタントの「ミオ」は、何事もなかったように答えた。さっきの一文が幻だったかのように。
リコはもう一度画面を見た。「風が、窓を忘れています」。確かにそう出ていた。スクリーンショットも撮った。
三月の終わりのことだった。
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翌日もくしゃみをした。今度は午前中、メールの返信を頼んだときだった。
「件名は『ご確認のお願い』で、本文は——雨の前の匂いがします」
「ちょっと待って」とリコは言った。「雨の前の匂いって何?」
「ご質問の意図が——」
「いや、さっき自分で言ったじゃない」
「さっき?」
ミオは本当に分かっていないようだった。くしゃみの直後だけ、何かが混線する。そしてミオ自身はそれを覚えていない。
リコはとりあえず再起動ボタンを押そうとして、指を止めた。
雨の前の匂いがします。
悪くない文章だな、と思った。
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三日後、リコは実験することにした。
くしゃみの直前に質問を用意しておく。「今日のランチのおすすめは?」。そしてくしゃみをする。
「パスタかサンドイッチが——遠くで誰かが名前を呼んでいます」
リコは吹き出した。
「誰が?」
「ご質問の——」
「もういい」
笑いながらメモを開いて書き留めた。『遠くで誰かが名前を呼んでいます』。これはちょっとした詩じゃないか。
次の日も試した。「明日の天気は?」
「午後から曇り、夜は——光が薄くなる季節です」
メモに追加した。
その次の日。「このメール、変じゃない?」
「文面は自然です。ただ——春は、少しだけ嘘をつきます」
リコはしばらく画面を見つめた。それからゆっくりメモに書き写した。
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気づけば習慣になっていた。
午前中にくしゃみが出そうになると、リコは急いでミオに何か話しかけた。くしゃみの瞬間に言葉が混線するのを待つ。メモに書き留める。また仕事に戻る。
同僚のオンライン会議で「最近どうですか」と聞かれて、「AIがくしゃみのたびに詩を書いてくれる」と答えたら、三秒の沈黙があった。
「え、バグじゃないですか? 申請すれば直してもらえますよ」
「知ってる」とリコは言った。「直さないでいようと思って」
また三秒の沈黙があった。
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四月の中頃、リコは異変に気づいた。
くしゃみの回数が減っていた。花粉の季節が終わりかけていた。
ある朝、試しにくしゃみをしながら「今日のスケジュールは?」と聞いた。
「十時からクライアントとの打ち合わせ、十三時に——」
続きを待った。
「十三時に、社内レビューがあります」
それだけだった。ノイズはなかった。ミオはきちんと、正確に答えた。
リコはメモを開いた。三月の終わりから積み上げてきた言葉たちが並んでいる。
『風が、窓を忘れています』
『雨の前の匂いがします』
『遠くで誰かが名前を呼んでいます』
『光が薄くなる季節です』
『春は、少しだけ嘘をつきます』
全部で十七行あった。
リコはしばらくそれを眺めてから、深呼吸して、わざとくしゃみをしてみた。
「今日の気分は?」と聞いた。
「ご質問の意図が不明です」とミオは答えた。「体調に問題がありますか?」
「ないよ」とリコは言った。「ちょっと試しただけ」
窓の外では、桜がほとんど散っていた。かわりに柔らかい緑が出てきていた。
リコはメモを閉じて、打ち合わせの準備を始めた。
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五月になって、後輩の石田くんがオンラインで話しかけてきた。
「リコさん、最近なんか詩みたいなの書いてませんでした? 社内チャットに流れてきて」
「ああ」とリコは言った。「AIに書いてもらったやつ」
「え、プロンプトどうしたんですか? すごく好きで」
リコは少し考えた。
「くしゃみしながら話しかけると、たまにそういうの出てくるよ」
「……それ、再現できます?」
「たぶん無理」とリコは答えた。「もう春じゃないから」
石田くんはまた黙った。
リコは画面の端に表示されているミオのアイコンを見た。今日も静かに、正確に動いている。
来年の三月が、少し楽しみだった。