死角の棲家(すみか)
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
始まりは、首筋の付け根にある、ごく小さな「窪み」だった。 シャンプーを流している最中に見つけたその場所は、本来あるべき頭蓋骨の硬さが失われ、熟れすぎた果実のように、指先を吸い込む柔らかな「穴」へと変貌していた。
本文
始まりは、首の付け根にある、あの小さな「窪み」だった。
髪を洗っている最中、中指の先が、いつもより深くその場所へ沈んだ。
骨があるはずの場所に、数ミリの「隙間」がある。
押し返してみる。ぐに、と嫌な手応えがあった。
それは、熟れすぎた果実の皮を押し分けるような、
弾力のない、頼りない沈み方だった。
痛みはない。むしろ、そこを弄(いじ)っている間だけ、
脳の芯が痺れるような、ひやりとした心地よさが背骨を伝って降りていく。
翌日から、私の右手は私の意思を離れた。
仕事中も、食事中も。指先は飢えた獣のように、後ろ側の「穴」を探り当てる。
「触れてはいけない」と脳が警報を鳴らしているのに、指先は吸い寄せられるように深淵を求める。
ズルリ。
爪の先が、皮膚の層をあっけなく突き抜け、中へと滑り込んだ。
指が沈むのと同時に、耳の奥で、湿った薄い膜が破れるような
「パチン」という音が響く。
自分の神経を、自分の指が直接、なぞっているのだ。
そのたびに、視界の端が白く明滅する。
一週間後。
私は暗闇の中で、中指を根元まで押し込んでいた。
抵抗は、もう何もない。私の右手中指は、手首まで自分の頭の中に埋没している。
指先を少し曲げると、自分の「目の裏側」を内側から愛撫しているような、
耐えがたい快感と、全身の毛穴が逆立つような嫌悪感が同時に襲ってきた。
指を動かすたびに、頭蓋の裏側で「ガリ、ガリ」と爪が骨を削る振動が響く。
「ぐちゅ、ぐちゅり」
自分の脳を直接捏ねる音が、外の世界の音を完全に遮断していく。
そして、ついにその「最深部」に触れた。
指先を限界まで突き立てた先。そこには、ぬらぬらとした、
熱い「塊」が蠢いていた。
それは、私の指を迎え入れるように、湿った音を立てて開いた。
ガチリ。
指を噛まれたのではない。私の指が、何かの「器官」と、完全に噛み合ったのだ。
その瞬間、私は「見た」
目から入る景色ではない。後頭部の「穴」が捉えた、世界の、裏側の景色だ。
そこには三次元の壁も天井もなかった。
ただ、真っ赤な肉腫のような闇が広がり、
後頭部を裏返しながらこちらを覗き込んでいた。
凄まじい反転。
私の腕が、肩が、そして顔の皮が、内側から穴へと引きずり込まれていく。
視界がぐにゃりと反転する。
最後に耳に残ったのは、フローリングの床に、中身を全て吸い取られた「私の顔」だったゴムのような残骸が、濡れた雑巾のように落ちる音だった。
……ねえ。
今、この物語を読んでいるあなた。
さっきから、後頭部が妙に重苦しくないか。
スマホを覗き込み、首筋を無防備に晒している、その不安定な姿勢。
今、あなたの首筋の窪みは、体温を奪われ、ごく小さな「穴」へと変貌している。
怖がることはない。
まずは、中指を立てて、そっと自分の首の付け根を押してみるといい。
最初は、ほんの数ミリ、ズルリと沈むだけだ。
でも、あなたはきっと明日も、そこを確かめずにはいられない。
大丈夫。痛みはないから。
その代わりに、あなたは、一生忘れられないほど「気持ちいいこと」を知るだろう。