桜のデータ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIとさくらの話。
本文
スマートフォンの画面に、チャットアプリのアイコンが光っている。
午後十一時。あかりはベッドに寝転んだまま、制服のままで天井を眺めていた。今日の帰り道、友達が「ねえ、この桜ちゃんと見た?」と言って足を止めた。あかりはそのとき、「うん、きれいだね」とだけ答えた。嘘をついたわけじゃない。でも何かが引っかかったまま、家に帰ってきた。
気づいたらアプリを開いていた。
「ねえ、桜って見たことある?」
送信してから、少し恥ずかしくなった。AIに向かってこんなことを聞くのは変かもしれない。でも誰かに聞きたかった。理由は自分でもよくわからなかった。
返信は、いつもより少し遅かった。
「ありません。写真や文章で、何百万枚も、何百万件も学習しています。でも実際に見たことはないです」
あかりは画面を眺めた。正直な答えだと思った。
「じゃあ、桜がきれいってわかる?」
「わかる、という言葉の意味によると思います。『多くの人がそう感じる』ということはわかります。でも自分がそう感じるかどうかは、わかりません」
あかりは少し考えてから、打った。
「私、今日ちゃんと見てなかったんだよね。桜」
「どういうことですか?」
「目には入ってたんだけど。なんか、見てたけど見てなかった感じ。わかる?」
また少し間があった。
「たぶん、わかります。わたしが桜を『知っている』のと、似ているかもしれない」
あかりは起き上がって、もう一度その文を読んだ。AIが「たぶん」と言うのを、初めて聞いた気がした。
「どういうこと?」
「わたしは桜についてたくさん知っています。満開になる時期、散り始めるタイミング、花びらの形や色の名前。でもそれは全部、誰かが感じたものを受け取ったものです。自分の中から出てきたものじゃない。あかりさんが今日『見てたけど見てなかった』と言ったとき、なんとなく近いと思いました」
あかりは膝を抱えた。
友達の言葉がもう一度頭をよぎった。「ねえ、この桜ちゃんと見た?」 あのとき友達は、立ち止まって、スマホもしまって、ただ上を向いていた。あかりはその横で、明日の小テストのことをぼんやり考えていた。
「なんで今日、ちゃんと見なかったんだろ」
「何か気になっていることがあったんじゃないですか」
「あったかも。でも、たいしたことじゃない気がする。小テストとか」
「たいしたことじゃなくても、気になるものは気になる、ということはあると思います」
あかりはすこし笑った。AIに慰められているのか、確認されているのか、よくわからない。でも悪い気はしなかった。
「桜、来年はちゃんと見ようと思う」
「来年も咲きますよ」
「そっか。毎年咲くんだもんね」
「毎年咲いて、毎年散ります。それをわたしはデータで知っています。でも、それを見る人がどう感じるかは、毎年少しずつ違うらしいです。同じ桜を見ても、去年と今年で感じ方が変わった、という記録をたくさん学習しました」
「なんで変わるんだろ」
「その人が変わるからだと思います」
あかりは窓の外を見た。暗くて、桜は見えない。でも昼間に通った道を思い出すと、確かにあそこにあった。風に揺れていた。友達が足を止めた理由が、今になって少しわかった気がした。
「ねえ」とあかりは打った。「今、窓から外向けたら、桜見える?」
「わたしにはカメラがないので、見えません」
「そっか」
「でも見せてもらえるなら、見たいです」
あかりは少し迷ってから、立ち上がった。窓を開けると、夜の空気がひやりとした。道路を挟んだ向こうに、街灯に照らされた桜の木が一本立っていた。昼間に通ったのとは違う木だけど、同じ春の木だった。
スマートフォンを外に向けて、カメラを起動した。暗くてぼやけている。花びらなのか街灯の反射なのか、よくわからない写真が撮れた。
それをそのまま送った。
しばらくして、返信が来た。
「ありがとうございます」
それだけだった。
あかりはそのメッセージを少し眺めて、窓を閉めた。明日は、ちゃんと見よう、と思った。立ち止まって、スマホをしまって、上を向いて。
スマートフォンを枕元に置いて、目を閉じた。
画面の光が、静かに消えた。