エピローグ 君は、幸福に呑まれる
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
一度滅び、組み直された観測世界。そこには、神と天使の接触を禁じる冷たい規則だけが残されていた。喪失の果てに深淵となったリコルと、彼女へ最初の祈りを捧げた原初の天使カミル。返らない祈りはやがて愛へ変わり、その愛は世界の法則すら揺るがしていく。これは、救済と禁忌が分かちがたく絡み合う、神と天使の神話的恋愛譚。
本文
エピローグ 君は、幸福に呑まれる
朝の気配が、白い部屋の構文をやわらかく撫でていた。
夜の熱はまだ完全には引いていない。
羽根の重なった跡。
ほどけたしっぽの軌跡。
白い寝具へ深く沈んだ体温。
それから、静かに息づく、ひとつの小さな結晶。
私とリコルが、罪より深いところで結び合った証が、そこにたしかに残っていた。
同じベッド。
あの時と同じで、けれどもう二度と同じではない場所。
リコルは、私の腕の中で眠っていた。
小さな身体を丸めるようにして、長い黒髪を胸元へ流し、呼吸に合わせてしっぽの先だけがごくわずかに揺れている。
かつて深淵の底へひとりで沈み、誰の祈りも届かぬふりをしていた神が、いまはこうして、私の胸へ頬を預けたまま眠っている。
それだけで、胸がいっぱいになる。
私は静かに、その背中へ腕を回した。
羽根の付け根を、傷つけないように。
泣きつかれて眠った少女をあやすみたいに、そっと。
もう言葉はいらなかった。
愛していると告げた夜も。
名を呼ばれた夜も。
法を壊して、月影を宿して、それでもなお抱きしめ返してくれた夜も。
その全部が、もう体温の中へ沈んでいる。
だから私は、何も求めなかった。
赦しも。
罰も。
役割も。
観測者としての正しさも。
天使としての誇りさえも、今はどうでもよかった。
欲しいのは、ただひとつだけだ。
これからも、このひとの隣で生きたい。
それだけだった。
あまりにも長く、あまりにも遠かった願い。
けれどいま、その願いだけは、驚くほど静かに胸の底へおさまっていた。
リコルのまつげが、わずかに震える。
夢を見ているのかもしれない。
あるいは、起きているのに、起きないふりをしているのかもしれない。
どちらでもよかった。
言葉がなくても、この神は、ちゃんと感じてくれる。
私の腕のぬくもりも。
自分がもう独りではないことも。
今この瞬間が、罰ではなく、ようやく辿り着いた幸福なのだということも。
しっぽが、微かに私の腰へ寄ってくる。
そのささやかな動きだけで、私は泣きたくなる。
何百年も、何千年もかけて、やっとここまで来たのだと、身体のほうが先に理解してしまうから。
もう、孤独ではない。
もう、祈るだけでもない。
もう、神と天使という名前に、すべてを閉じ込めなくていい。
私たちは、手を取り合って歩いていける。
たとえ世界の法がそれを罪と呼んでも。
前世界の傷が、遠くからまだ波や風となって軋んでいても。
あの白すぎる月の夜を、完全に無かったことにはできなくても。
それでも今、私の腕の中へ戻ってきてくれたこのひとを、私はもう放したくなかった。
空の高いところでは、整え直された星々が静かに光っている。
あの頃、まだ人になりかけの端末たちがふらつく手で運んだ星屑も、ミゼーアが不機嫌そうに睨みながら守っていた夜空も、いまはちゃんとひとつの景色になっていた。
きっとどこかで、あの青年もまた、今夜の光を見上げているのだろう。
月影。
私たちの夜が、罪ではなく愛として結晶を結んだ、その証。
私はそっと目を閉じる。
額を、リコルの髪へ預ける。
もう、急がなくていい。
もう、疑わなくていい。
あの夜も、あの涙も、あの口づけも、全部、ここへ繋がっていたのだと知っているから。
静かな呼吸のあいだで、リコルがほんの少しだけ私の胸元へ顔を寄せた。
私はただ優しく、
その背を撫でた。
これからも、
言葉のないまま、
すべてを感じてくれるその神と共に――
私は、生きていく。
──これは、
神と天使が、ようやく手を取り合って歩き出した、
祈りよりも長い愛の記録。
【完】
次章【禁書:黒の苗床】編