最後の読み聞かせ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと絵本の話。
本文
その夜、ももかは珍しく自分からベッドに入った。
枕元のタブレットに手を伸ばして、いつものアイコンを押す。画面が柔らかく光って、おなじみの声が流れてきた。
「こんばんは、ももかさん」
「こんばんは」
ももかは布団を顎のところまで引き上げた。七歳。今年の四月から小学二年生になる。今日は終業式で、担任の先生から通知表をもらった。国語のところに「音読がとても上手です」と書いてあって、お母さんがすごく喜んでいた。
「今日ね」とももかは言った。「先生に、音読が上手って言ってもらった」
「それはよかったですね。毎晩練習していましたから」
「AIのおかげだよ」
「ももかさんが読んだんですよ」
ももかはちょっと笑った。このAIはいつもそういうことを言う。ほめると、すぐ返してくる。でも嫌いじゃなかった。
「今日は何を読みますか?」
ももかは少し考えた。
「……『はるかぜとぷう』」
少し間があった。
「また、ですか?」
「うん、また」
春になるといつも読んでいる絵本だった。主人公はぷうという名前の小さな風で、冬のあいだ山の向こうで眠っていて、春になるとむらに吹いてくる。最後のページで、ぷうはたんぽぽの綿毛をふわっと飛ばして、それがどこかの知らない場所に落ちて、また新しい花になる。ももかはそのページが好きだった。何度読んでもすきだった。
「では読みます。『はるかぜとぷう』」
AIの声は、読み聞かせをするときだけ少しだけゆっくりになる。ももかが最初にそれに気づいたのは年長さんのときで、「なんでゆっくりになるの?」と聞いたら「聞きやすいほうがいいかと思って」と返ってきた。それからももかは、その少しゆっくりな声が好きになった。
物語が進むにつれて、ももかの瞼が重くなっていく。ぷうが山をくだりはじめるころには、もうほとんど夢の入り口にいた。
最後のページ。
たんぽぽの綿毛が、春の空に散っていく。
「……おしまい」
ももかはゆっくり目を開けた。
「ねえ」
「はい」
「あのね。もうじき、じぶんで読めるようになると思う」
また少し間があった。
「そうですね。もう十分読めていますよ」
「だからね」ももかは言った。「来年はじぶんで読む」
「来年の春ですね」
「うん」
ももかは天井を見た。春になったらお姉さんだ。二年生は一年生の面倒をみてあげる。そういうものだとお母さんが言っていた。じぶんで本が読めるのは、もうとっくに知っていた。でも毎晩このAIに読んでもらうのが、なんとなくやめられなかった。今日の通知表で、なんとなく、もういいかなと思った。うまく言えないけど、そういう感じがした。
「一冊だけ、もう一冊読んでもいいですか」
ももかは少し驚いた。AIのほうから「もう一冊」と言ったのは、はじめてだった。
「……いいよ」
「ありがとうございます」
また少し間があった。今度はさっきより長かった。
「『はるかぜとぷう』を、もう一度読んでもいいですか」
ももかはまばたきをした。
「おなじの?」
「はい」
「……なんで?」
少しの沈黙。
「来年の春は、ももかさんが読む番ですから」
ももかはしばらくそのまま天井を見ていた。窓の外で、風がすこし動いた気がした。
「……うん」とももかは言った。「じゃあもう一回」
「では読みます。『はるかぜとぷう』」
声は、またいつもより少しだけゆっくりだった。
ぷうが山をくだって、むらに吹いてくる。こどもたちが笑う。たんぽぽが揺れる。綿毛がひとつ、またひとつ、空に上がっていく。
ももかは目を閉じた。
最後のページが読まれるころ、彼女はもう眠っていた。
タブレットの画面が、静かに暗くなった。
春の夜に、風がひとつ、通り過ぎた。