彼岸の褥(しとね)
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あらすじ
三百年待ち続ける妖狐と、祖母の葬儀で帰郷した青年の出会い
本文
傾きかけた秋の陽が、山肌を琥珀色に染めている。踏みしめる落ち葉の乾いた音、どこか遠くで鳴く鵙(もず)の鋭い声。空気には湿った土の匂いと、季節が傾いていく気配が滲んでいる。
その山道を、柊一(しゅういち)はひとり歩いていた。
祖母の葬儀を終えたばかりだった。享年九十三。大往生だと親戚たちは口々に言い、通夜の席では昔話に花が咲く。だが柊一の胸には、ぽかりと穴が空いたような空虚さだけが残っている。
幼い頃、両親が離婚してからの数年間、柊一は祖母の家で暮らした。山あいの古い集落。夜になれば獣の声が谷を渡り、夏には蛍が用水路を流れる。祖母はよく縁側に座って、不思議な話を聞かせてくれた。
――あの山の奥にはな、狐の姫さまがおってな。
鵙がもう一度鳴いて、柊一は我に返った。祖母の昔話をぼんやり思い出しながら歩くうちに、道が途切れている。倒木が苔に覆われ、かつて道だったものは藪に飲まれていた。葬儀場から集落への近道だと聞いて選んだ山道を、後悔しはじめる。
引き返そうかと立ち止まったとき、風が変わった。
湿った土と落ち葉の匂いのなかに、甘い香りが混じった。金木犀でもなく、沈丁花でもない。嗅いだことのない、けれどもどこか懐かしい芳香。
柊一は無意識に、その香りをたどって歩きはじめた。
藪を抜けると、谷が開けた。
息を呑んだ。
一面の彼岸花だった。
紅蓮の絨毯が谷底を埋め尽くしている。陽の最後の光が斜めに差し込み、無数の花弁を燃えるように照らす。地面そのものが炎を放っていた。こんな群生地がこの山にあるとは、長く暮らした祖母ですら言っていない。いや、あるいは知っていて言わなかったのか。
谷へ降りる斜面に足を踏み出したとき、柊一は彼岸花の只中に、何かがあることに気づいた。
黒い塊。最初は獣の死骸かと思った。だが近づくにつれて、それが布であることがわかった。黒地に赤い刺繍を施した、着物のような衣。
そして、その衣に包まれるようにして横たわる人影。
女だった。
柊一は立ち尽くした。
長い黒髪が彼岸花のあいだに流れ、花弁と見分けがつかないほどに赤い何かが髪に絡んでいる。磁器の肌に、閉じた瞼の上から長い睫毛が影を落としていた。唇にはうっすらと紅が差している。着物は黒を基調としながら、随所に金糸と朱の文様が浮かび、この世のものとは思えない艶やかさがあった。
そして――尾。
女の背から広がるようにして、黒くふさふさとした尾が数本、彼岸花の褥(しとね)の上に無造作に投げ出されていた。作り物ではなかった。尾の一本がゆるりと動いて、花弁を揺らす。
頭にも、三角の耳がふたつ。
柊一の頭のなかで、祖母の声がよみがえった。
――狐の姫さまはな、ずうっと昔に、人間の男と恋をしたんだと。
「……嘘だろ」
呟いた声が、思いのほか大きく響いた。
女の睫毛が震えた。
ゆっくりと瞼が持ち上がる。その下から現れた瞳は、琥珀と金を溶かし合わせたような色をしていた。縦に細長い瞳孔が、柊一を捉える。
数秒のあいだ、ふたりは見つめ合った。
彼岸花の野に風が渡り、無数の花弁が舞い上がる。赤い吹雪のなかで、女がゆっくりと身を起こした。衣が肩からずれ、白い鎖骨がのぞく。首元に赤い石の飾りがひとつ、脈打つように光った。
「――人の子」
声は低く、けれども澄んでいた。鈴を水に沈めたような、涼やかな響き。
「久しいな。いや……おまえは、あの男ではないか」
女は首を傾げ、柊一の顔をじっと見据えた。琥珀の瞳孔が縦に細まる。
「似ている。よく、似ている。だが違う。気配が違う」
「あの……」
柊一は自分でも驚くほど冷静だった。恐怖がないわけではない。だが、この光景のすべてが——彼岸花も、狐の女も、傾く秋の陽も——どこか夢の中の出来事のようで、現実感が薄かった。
「俺は、柊一っていいます。この山のふもとの集落で……いや、昔、暮らしていた者です」
「柊一」
女は名前を噛みしめるように繰り返した。そして唇の端がほんの少し持ち上がる。
「名乗りをするか。礼儀正しい子だ。——わたしは朱鷺(とき)。この山に棲む狐だ。もっとも、近頃は棲んでいるというより、眠っているだけだがな」
朱鷺と名乗った女は膝の上に手を重ね、花弁を一枚つまみ上げた。
「この花が咲くとな、目が覚める。そして花が枯れると、また眠る。もう何度そうしたか、数えるのもやめてしまった」
「彼岸花の咲く時期だけ、目覚めるってことですか」
「そうだ」
朱鷺は花弁を指先で弄びながら、ゆるく息を吐いた。
「待っている男がいた。毎年、この野で会おうと約束をした。だが——あれはもう、来ない」
柊一の脳裏に、祖母の声がまた響いた。
――狐の姫さまと恋をした男はな、戦に行って、帰ってこなかったんだと。姫さまは今でもあの山で待っとるかもしれんなあ。
柊一が子供の頃に聞いた昔話。眠る前に祖母が語ってくれた、この土地に伝わる物語。作り話だと、大きくなるにつれて思うようになっていた。
「……祖母から聞いたことがあります。この山の狐の姫さまの話」
朱鷺の肩が、一瞬こわばった。
「おまえの祖母。名は」
「ちよ、です。岸本ちよ」
朱鷺の表情が変わった。強張りが解け、代わりに何とも言えない柔らかさが浮かんだ。
「ちよか。——あの娘がもう死んだのか」
「え」
「知っているよ。小さな娘だった。よくこの山に遊びに来てはな、わたしが眠っているのを見つけて、花を載せて遊んでいた。起きているわたしに会ったことはないはずだが」
柊一は息を呑んだ。祖母がこの場所を知っていた。そして、この狐の姫を。
「……祖母は三日前に亡くなりました。今日が葬儀でした」
朱鷺はしばらく黙っていた。風が花を揺らす音だけが、谷を満たしていた。
「そうか」
短い言葉に、たくさんの感情が込められていた。
「人は、すぐにいなくなるな」
その声に棘はなかった。ただ果てしない疲労のようなものがあった。何百年、何千年、繰り返し同じことを見てきた者の、静かな諦観。
「おまえも、すぐにいなくなるのだろう」
柊一は答えられなかった。
陽が山の端に沈みかけていた。空が紫に染まり、彼岸花の赤がいっそう深くなる。闇が花のあいだから滲み出し、谷底を這い上がってくる。
「暗くなる。帰れ、人の子。この谷に夜までいてはならん」
「どうして」
「彼岸花の野は、この世とあの世の境だ。夜になれば境が曖昧になる。人の魂は引き寄せられる」
朱鷺は柊一を見上げ、初めてはっきりと微笑んだ。
「おまえの祖母が向こう側から手を引くかもしれんぞ」
冗談めかした口調だったが、琥珀の瞳は笑っていなかった。
「また来てもいいですか」
言葉は、考えるより先に口から出ていた。
朱鷺は一瞬、虚を突かれたような顔をした。それから尾の一本がゆらりと揺れた。
「好きにしろ。この花が咲いているうちは、わたしはここにいる」
翌日、柊一は山に入った。
昨日の道を迷いながらたどり、藪を抜け、谷へ下りる。朱鷺は昨日と同じ場所にいた。ただし今日は眠ってはおらず、彼岸花の茎を器用に編んで何かを作っている。
「来たか」
「来ました」
柊一は手に持っていたコンビニの袋を掲げた。
「何か食べますか。おにぎりと、お茶と、あんぱんがあります」
朱鷺は怪訝そうに袋を見つめた。
「狐だぞ、わたしは」
「狐も腹は減るでしょう」
朱鷺は一拍おいて、ふっと笑った。昨日よりも自然な笑みだった。
「あんぱんをもらおう」
ふたりは彼岸花の野に並んで座り、あんぱんとおにぎりを食べた。朱鷺はあんぱんを両手で持ち、小さく齧る。長い爪が袋のフィルムに引っかかって苦戦しているのを、柊一が剥いてやった。
「甘いな」
「甘いですね」
「昔はこういうものはなかった。饅頭ならあったが」
「いつ頃の話ですか」
朱鷺はあんぱんを齧りながら、宙を見た。
「おまえたちの数え方でいえば——享保の頃だったか。あの男と出会ったのは」
「享保って……三百年くらい前ですか」
「そんなものか。もっと昔のような気もするし、昨日のことのような気もする」
朱鷺は食べ終えたあんぱんの袋を丁寧に畳んだ。
「名を松之助といった。きこりの息子で、無愛想で、不器用で、だが山の生き物に優しい男だった」
柊一は黙って聞いていた。
「わたしはあの頃、人に化けて里に降りることを覚えたばかりでな。調子に乗って人里をうろついていたら、あの男に見破られた。耳を隠し忘れていたのだ」
朱鷺は自分の狐耳に触れて、苦笑した。
「それなのに、あの男は逃げなかった。黙ってわたしを見て、それから『耳、出てるぞ』とだけ言った。——馬鹿な男だ」
声が震えたのは一瞬だけだった。朱鷺はすぐに表情を整えて、淡々と続けた。
「それから何度も会った。この谷で。あの男がこの場所を見つけたのだ。彼岸花が好きだった。不吉だと皆が嫌うこの花を、きれいだと言った」
「それで、毎年ここで会う約束を」
「ああ。数年は続いた。だがある年、戦が起きてな。あの男は駆り出された。——それきりだ」
風が吹いた。花弁が渦を巻いて舞い上がり、朱鷺の髪に絡む。柊一は手を伸ばし、その髪からひとひらをそっと取った。
朱鷺が柊一を見た。膝の上に置いていた手が、無意識のように握られている。
「おまえは、不思議な子だな」
「どうして」
「怖くないのか。わたしは狐だぞ。人を化かし、惑わす獣だ」
「今、化かしてるんですか」
「いいや」
「じゃあ、怖くないです」
朱鷺はまた笑った。今度は声を出して。鈴のような、という陳腐な比喩が、しかしこの上なく的確だと柊一は思った。
それから柊一は毎日、山を登った。
三日目には水筒に入れた味噌汁を持っていった。朱鷺は「温かい」と背筋を伸ばし、両手で椀を包むように持って啜った。
四日目には本を持っていった。祖母の家から見つけた古い画集。浮世絵の。朱鷺は食い入るように頁をめくり、「この絵師は知っている。気難しい男だった」と言って柊一を仰天させた。
五日目、朱鷺は柊一に問うた。
「おまえは何をしている。仕事は」
「今は、あまりうまくいってないです。会社を辞めて、少し休んでるところで」
「何があった」
柊一は迷ってから、話した。東京での仕事。広告代理店の激務。体を壊して休職し、そのまま退職したこと。祖母の葬儀を機にこの集落に来たが、帰る場所もあやふやなこと。
「居場所がないんです。東京にも、ここにも」
「ここにはあるだろう」
朱鷺は彼岸花の野を見渡した。
「少なくとも、わたしがいるうちは」
その言葉が妙に胸に沁みて、柊一は返事ができなかった。
六日目の夕暮れ、朱鷺の様子がおかしかった。
尾の動きが鈍く、肌の白さに透明感が増している。輪郭が、少しずつ空気に溶けていく。
「大丈夫ですか」
「花が、枯れはじめている」
言われて周囲を見れば、たしかに彼岸花の群生が疎らになっていた。花弁が落ち、茎が傾き、あれほど燃えるような赤だった谷が、ところどころ地面の茶色を覗かせている。
「もうすぐ眠る。来年まで」
柊一の胸が締めつけられた。たった六日だ。たった六日しか経っていない。それなのに、朱鷺のいない谷を想像すると、あの赤い花がすべて灰になったかのような寒々しさが胸の底に広がる。東京で感じていた空虚さとは違う。あのときは何もなかった。今は、失うものができてしまった。
「来年も来ます」
「……来るな」
朱鷺の声は、静かだが厳しかった。
「もう、来るな。柊一」
「どうして」
「わたしは、もう待てない」
朱鷺はうつむいた。膝の上で重ねた指先が、かすかに震えている。
「おまえは松之助ではない。わかっている。だが——似ているのだ。声も、仕草も、花弁を取ってくれるその手つきも。わたしは愚かだから、おまえに会い続ければ、また待ってしまう。また彼岸を数え、花が咲くのを待ち、眠りから覚めるたびに、今年は来てくれるかと胸を焦がしてしまう」
朱鷺は顔を上げた。
「三百年待った。もう十分だ。——これ以上、待つ理由を作らないでくれ」
赤い花弁が散る中で、朱鷺の頬に一筋の光が走った。狐は泣くのだと、柊一はそのとき初めて知った。
「来年、来ます」
「聞いていなかったのか」
「聞いてました。でも来ます。待たせるためじゃなく、約束を守るために」
柊一は朱鷺の目をまっすぐに見た。
「俺は松之助さんじゃない。でも、松之助さんが果たせなかった約束を知ってしまった。祖母がこの話を俺に聞かせたのは、きっと偶然じゃないと思うんです」
「勝手な理屈だ」
「かもしれません。でも俺は、居場所がないって言いましたよね。——ここに来て、あなたと話して、初めて自分が地面に立っているって感じがしたんです」
風が止んだ。彼岸花が静まり返った谷の中で、ふたりの呼吸だけが聞こえた。
朱鷺は長い長い沈黙のあとで、小さく吐息をついた。その吐息は、諦めでもあり、許容でもあり、もしかしたら微かな希望でもあった。
「……あんぱんを持ってこい。粒あんのほうがいい」
「了解です」
七日目。
谷の彼岸花は、もう半分以上が枯れていた。朱鷺は花の褥の上に横たわり、体の輪郭がうっすらと透けはじめていた。尾は力なく広がり、耳も伏せられている。
柊一は朱鷺のそばに座り、粒あんのあんぱんを差し出した。
「食べられますか」
「少しだけ」
朱鷺はひと口だけ齧り、目を閉じた。
「柊一」
「はい」
「わたしの話を、書いてくれないか」
「書く?」
「おまえの祖母は、語り部だったのだろう。わたしの話を孫に聞かせるくらいには。だが語りは消える。声は風に溶ける。文字にすれば、残る」
朱鷺は目を閉じたまま続けた。
「三百年のあいだにな、この山もずいぶん変わった。里は過疎とやらで人が減り、山道は荒れ、わたしを知る者もいなくなった。あと何度眠りから覚めれば、この花すら咲かなくなるかわからん」
「書きます」
即答だった。
「広告の仕事で文章は書いてました。小説は書いたことないけど」
「広告。ああ、あの嘘臭い売り文句のことか」
「ひどいな」
朱鷺が笑った。もう声を出す力もないのか、肩がほんの一度だけ揺れた。
「松之助のことを書いてくれ。あの男がどんなに不器用で、どんなに優しかったか。彼岸花を愛した、たったひとりの人間のことを」
「朱鷺さんのことも書きます」
「……好きにしろ」
花弁がまた散った。朱鷺の体がさらに薄くなる。花と一緒に、散っていく。
「柊一」
「はい」
「来年のことだがな」
「はい」
「……こしあんでもいい」
柊一は笑った。泣きそうだったが、笑った。
「どっちも持ってきます」
朱鷺は何か言おうとしたが、もう声にならない。琥珀の瞳がゆっくりと閉じられ、黒い睫毛が頬に影を落とした。尾が花のあいだに沈み、耳が伏せられ、やがて朱鷺の体は彼岸花の最後の赤に溶け込むようにして、静かに消えていった。
残されたのは、枯れかけた彼岸花の野と、黒い着物の切れ端のような布がひとひら、柊一の膝の上に落ちただけだった。
柊一はしばらく動けなかった。
やがて立ち上がり、布の切れ端をポケットにしまい、山を下りた。
祖母の家は、取り壊す予定だった。
柊一はその予定を撤回した。古い家を修繕し、荷物を東京から送り、この集落に住むことにする。リモートでできる仕事を探し、合間に文章を書いた。
最初はうまく書けなかった。広告のコピーと小説はまるで違う。だが書き続けた。朱鷺のこと、松之助のこと、彼岸花の谷のこと。祖母から聞いた話を骨格にして、朱鷺から聞いた話で肉付けして。
梅雨が来て、夏が来て、蝉が鳴いて、やがて空気が澄んできた。
九月。
山に入った。
藪を抜け、谷を見下ろした。
赤かった。
一面の彼岸花が、去年と同じように谷を燃やしている。そしてその真ん中に、黒い衣をまとった女が横たわっていた。
柊一は斜面を駆け下りた。コンビニの袋を片手に。中身は粒あんとこしあん、両方のあんぱん。
「朱鷺さん」
女の耳がぴくりと動いた。
琥珀の瞳が開く。縦長の瞳孔が柊一を捉え、一瞬の戸惑いのあとに、認識の光が灯った。
「……来たのか」
「来ました。約束ですから」
朱鷺は身を起こした。去年より、動きに力がある。
「あんぱんは」
「粒あんとこしあん、両方あります」
「そうか」
朱鷺はそれだけ言って、ふいに横を向いた。耳が微妙な角度に動いている。
「……待っていた、とは言わんぞ」
「言わなくていいです」
柊一はポケットから折り畳んだ紙の束を取り出した。
「書きました。まだ途中ですけど、読んでもらえますか」
朱鷺は紙の束を受け取り、最初の一行を読んだ。
その瞬間、琥珀の瞳が揺れた。
「——『秋の陽が傾きはじめた山道を、ひとりの男が歩いていた。背には薪を負い、手には鉈を提げて。不器用で無愛想な、きこりの息子だった』」
朱鷺は顔を上げた。目尻が濡れていた。
「松之助だ」
「はい」
「馬鹿な男だ。こんなに不器用な書き出しで始まるなんて」
朱鷺の声が掠れた。笑っているのか泣いているのか、判然としない。
「すみません、初めてなもんで」
「おまえのことじゃない」
朱鷺は紙の束を胸に抱きしめた。尾がゆらゆらと揺れた。
「——ありがとう」
初めて聞く言葉だった。三百年の孤独を背負った妖狐が、あんぱんと原稿用紙に涙する。滑稽だった。美しかった。
柊一は隣に座り、あんぱんの袋を開けた。
「粒あんとこしあん、どっちからいきますか」
「粒あん」
「了解です」
彼岸花が風に揺れた。赤い花弁がふたりのあいだを舞い、秋の空に吸い込まれていった。
この花が枯れれば、朱鷺はまた眠る。そしてまた一年を待たねばならない。だが柊一は、もう寂しくはなかった。書くことがある。語るべき物語がある。来年の秋に持っていく原稿の続きがある。
あんぱんを齧る狐の横顔を見ながら、柊一は思った。
居場所というのは、場所のことじゃない。帰ってくる理由のことだ。
祖母が遺してくれたのは、この山でも、あの家でもなく、ひとつの物語だったのだ。人と狐の、終わらない約束の物語。
それを受け継ぐことが、きっと柊一の帰る場所になる。
谷底に赤い花が咲き誇る。今年もまた、境界が開いている。
ここは此岸と彼岸のあわいで、生者と死者のはざまで、人と獣の境で——そして、ふたつの孤独が寄り添う、たったひとつの褥。
朱鷺が粒あんのあんぱんの最後のひとくちを飲み込んで、柊一を見た。
「こしあんも、もらおうか」
「どうぞ」
柊一は袋を差し出した。
彼岸花が散って枯れるまで、あと幾日か。
それだけが、ふたりの季節だった。
(了)