第2章 不審者情報
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あらすじ
翌朝、保育園の門の脇に新しい紙が貼られていた。白いコピー用紙に太い字で、不審者情報とある。送りの時間で、門の前には親子が何組もいた。いつもより声が多い。皆、普段と同じ調子で話しているつもりなのに、空気だけが少しざわついていた。恒一は陽向の手を引いたまま、その紙を読んだ。
本文
翌朝、保育園の門の脇に新しい紙が貼られていた。
白いコピー用紙に太い字で、不審者情報とある。送りの時間で、門の前には親子が何組もいた。いつもより声が多い。皆、普段と同じ調子で話しているつもりなのに、空気だけが少しざわついていた。
恒一は陽向の手を引いたまま、その紙を読んだ。
昨日午後四時ごろ、保育園から徒歩十分ほどの場所で、女児が男性から声をかけられた。年齢四十代くらい。黒い帽子。濃色の上着。声かけの内容は「お母さんどこ?」。被害はなし。付近を通る際は注意してください。
短い文面だった。短いぶん、読む側が勝手に余白を埋める。
「やだ、こわいですねえ」
門の近くで誰かが言った。
「最近多いですよね、こういうの」
「でも声かけだけでしょ?」
「今はそれでも共有しとかないと」
どれももっともらしい。もっともらしいが、恒一には輪郭が甘く聞こえた。怖い、でも、何がどう怖いのかは曖昧なまま。共有しないよりはいい。だが共有された途端に、情報は少し雑になる。
四十代くらい。黒い帽子。濃い色の上着。
そんなものはいくらでもいる。
陽向が恒一の指を引いた。
「パパ、せんせいにシールみせる」
「そうだな」
昨日、出席カードに貼ってもらった星形のシールを見せたくてたまらないらしい。恒一は門の中へ入る前に、もう一度紙へ目をやった。被害はなし。警察へ連絡済み。見慣れた言い回しだった。見慣れた、という感覚そのものに、自分で少し嫌な気持ちになる。
井上先生が陽向を迎えた。
「おはようございます、陽向ちゃん」
「おはようございます。これ、ほし」
「ほんとだ。きらきらだねえ」
陽向はすぐに笑って、恒一の手を離した。園の中へ入っていく背中を見届けてから、恒一は門の脇へ戻る。まだ二、三人の保護者が貼り紙を見ていた。
三浦の姿もそこにあった。
「宮下さんも見ました?」
「見ました」
「嫌ですよねえ。昨日、公園のほうにもいたらしいですよ」
恒一はそちらを見た。
「公園?」
「ほら、南に抜けるほうの。うちの子のクラスのお母さんが、黒い帽子の人を見たって」
昨日の男の姿が一瞬頭に浮かぶ。だが、すぐに押し戻した。似た格好の人間はいくらでもいる。最初に見つけた違和感を、すぐ一つの話にまとめるのはよくない。
「誰が見たんですか?」
三浦は少し目を瞬かせた。
「え?」
「何時ごろ、どこで見たのか分かりますか」
「そこまでは……聞いてないです」
「そうですか」
三浦は気まずそうに笑った。
「宮下さんって、そういうとこ細かいですよね」
悪気のない言い方だった。細かい。神経質。考えすぎ。そういう言葉を乗せれば、違和感は人の性格の問題になる。世界がまた扱いやすくなる。
恒一は軽く会釈して、その場を離れた。
保育園から家へ戻る道すがら、頭の中で文面を組み直す。
昨日、午後四時ごろ。女児に声かけ。四十代くらい。黒い帽子。濃い色の上着。被害なし。
それだけなら、本当にそれだけのことかもしれない。子どもの様子がおかしくて気にかけた通行人という可能性だってある。今の時代、その善意がそのまま不審者情報になることも珍しくない。
だが、昨日公園の南側入口に立っていた男の姿と、貼り紙の文面がきれいに重なりすぎていた。
重なりすぎるときは、逆に危ない。
人は、一度つながると思ったものを、簡単に一本にしてしまう。自分も、たぶんそうだ。
信号待ちのあいだ、恒一はポケットからスマートフォンを取り出した。保育園からの連絡アプリに、不審者情報の通知が来ている。文面は貼り紙と同じだった。写真も、追加情報もない。
画面を閉じかけて、また開く。通知一覧の一つ上に、奈緒から短いメッセージがある。
牛乳切れてたら買っておいてください
それを見て、恒一は少しだけ肩の力が抜けた。牛乳。昼。夕飯。洗濯。今日の仕事はそっちだ。頭では分かっている。
家に戻ると、洗濯機を回し、昨夜の食器を片づけた。玉ねぎが一つ傷みかけている。先に使うべきだなと思う。味噌汁の具は何にするか、夕飯は鶏肉を焼くか煮るか、陽向がどれくらい食べるか。そういうことを考えながら手は動く。
手は動くが、意識は貼り紙の文面へ戻っていく。
十時すぎ、恒一は買い物に出た。スーパーへ向かう道を少し変え、公園の南側の遊歩道を通る。昨日、男が立っていた掲示板の前を通りすがりに見る。特に何もない。貼り紙も落書きも増えていない。ガラスには午前の光が鈍く映っていた。
公園には親子が二組いた。砂場に一組、ベンチの近くに一組。昨日とは違う顔ぶれだ。恒一は立ち止まらず、そのまま歩いた。
スーパーでは、牛乳、豆腐、鶏もも肉、にんじん、ヨーグルトをかごに入れる。出入口、鏡、棚の陰、立ち止まっている男、視線。刑事を辞めて何年たっても、体からは抜けない。
レジに並んでいると、背後で話し声がした。
「このへんも最近こわいよねえ」
「さっき保育園にも貼ってあった。不審者の」
「黒い帽子の人だって」
「黒い帽子なんていっぱいいるじゃんね」
二人とも笑っていた。笑っているが、笑いきれていない。雑な恐怖は、雑なまま広がる。そして広がるほど、像はぼやける。
家に戻ると、奈緒からまたメッセージが来ていた。
今日、帰り少しだけ遅くなるかも。会議延びそう
恒一は、了解とだけ返した。書いて消した文が二つある。
不審者情報出てたから気をつけて。
駅から歩くなら連絡して。
どちらも送らなかった。送らなかったところで不安が消えるわけでもないが、送ればそれが別の形で増える気もした。
昼前、鍋に湯を張って玉ねぎを刻んでいると、インターホンが鳴った。
一回。少し間を置いて、もう一回。
宅配の時間ではない。営業ならもっと遠慮がない。恒一は包丁を置き、手を拭いた。足音を立てずに玄関へ寄る。ドアスコープを覗く前に、まず呼吸を止める。向こうの気配を拾うための癖だった。
外にいたのは、同じ階の老婦人だった。自治会の回覧板を持っている。恒一は小さく息を吐き、ドアを開けた。
「あら、ごめんなさいね。お料理中だった?」
「いえ、大丈夫です」
「最近、保育園のあたり、変な人が出るんですってねえ」
受け取った回覧板の一枚目にも、町内会の注意喚起が挟まっていた。保育園の貼り紙とほぼ同じ内容だが、こちらのほうがさらに雑だった。
不審な男性の目撃情報あり。お子様の見守り強化をお願いします。
老婦人は声を潜めた。
「ほんと、物騒でいやねえ。昔はこんなんじゃなかったのに」
「そうですね」
「宮下さん、でも頼もしいわよねえ。おうちにいてくれるお父さんがいると」
恒一は曖昧に笑った。
それはたぶん好意だった。だが、胸の中に妙な棘が残る。家にいる。見ていられる。確かにそうだ。だが、そのことと、何かから守れることは同じではない。
老婦人が去ったあと、恒一は回覧板をテーブルに置いた。自治会のお知らせ、清掃当番、春祭りの手伝い募集。その下に不審者情報。生活の紙束の中に、恐怖だけが薄く挟まっている。
玉ねぎは少し乾き始めていた。
包丁を取り直しながら、恒一は考える。もし本当に昨日の男があれだとして、何が言える。帽子と服装が似ていた。立ち方が少し目に残った。公園の中を見ていたようにも見えた。そんなもの、証拠にも何にもならない。
それでも、何でもないうちに気になったことが、あとで最初の兆候だったと分かることはある。
そのことを知っている人間は、少し生きづらい。
昼過ぎ、陽向を迎えに行く時間になった。玄関の鍵を閉める。一度引いて、もう一度確かめる。閉まっているのに、確かめる。最近増えた癖だった。
保育園へ向かう道は、朝より明るい。子どもを乗せた自転車、買い物袋を提げた人、配送のトラック。日常の密度が増している。
門のところで待っていると、井上先生が笑顔で陽向を連れてきた。
「今日はね、おえかきでおうち描いたんですよ」
「ひなた、おうち、ぴんくにした」
「うちはピンクじゃないだろ」
「でも、かわいいほうがいいの」
陽向は靴を履きながら、ふと門の外を見た。
「パパ」
「ん?」
「あれ、あしたもある?」
「あれって何だ」
「こわいのかいてるやつ」
貼り紙のことだった。
恒一は少し考えてから答えた。
「明日にはないかもしれないし、あるかもしれない」
「なんで?」
「みんなに気をつけてねって言うためだよ」
「ひなた、きおつける」
その「きおつける」が、まだ意味の半分も分かっていない声だと分かるからこそ、胸の奥が少し重くなる。
「パパと手、離すな」
「わかった」
「勝手に行くな」
「わかった」
「知らない人に――」
言いかけて、恒一はやめた。陽向はもう、園庭の上を飛んでいく飛行機に気を取られていた。
「ひこうき」
「ああ」
「みえた?」
「見えた」
「ちゃんと?」
「ちゃんと見えた」
陽向はそれで満足したようだった。
帰り道、公園の前まで来ると、陽向は当然のように言った。
「すべりだい」
「今日はやめとく」
「なんで?」
「……人が多いから」
実際には多くなかった。ただ、昨日と同じ場所に立つ気になれなかっただけだ。陽向は不服そうに口を尖らせた。
「じゅっぷんだけ」
「今日はなし」
「やだ」
足を止める。こういうとき、力で引っ張れば余計こじれると分かっている。恒一はしゃがんで、陽向と目の高さを合わせた。
「今日はスーパーでプリン買ってある」
「ほんと?」
「ほんと」
「いちごの?」
「普通の」
「じゃあ、ちょっとだけやだ」
「ちょっとだけか」
陽向はまだ納得していない顔で、それでも手は離さずに歩いた。
公園の南側入口が見えたとき、恒一は思わずそちらを見た。掲示板の前には誰もいない。ベンチには若い母親が一人。砂場に兄弟らしい子どもが二人。すべり台の裏に小学生くらいの男の子がしゃがんでいる。
それだけだ。何もない。
何もないのに、恒一の視線は、その奥の遊歩道に立つ人物へ吸い寄せられた。
黒いキャップ。濃い色の上着。
距離がある。顔はよく見えない。男は公園の中ではなく、外側の柵沿いに立っていた。こちらを見ているようにも、公園全体を見ているようにも見える。ほんの二秒か三秒だった。
恒一が立ち止まると、男は歩き出した。
南へ抜ける。昨日と同じ方向だった。
「パパ?」
陽向の声で、恒一は我に返った。
「……行くぞ」
歩きながら、振り返りたい衝動を抑える。ここで陽向を連れて追うのは論外だ。追ったところで、今の自分に何ができる。声をかけるのか。捕まえるのか。通報するのか。どれも違う。
家までの道が、少しだけ長く感じた。
玄関を開け、中に入る。鍵を閉める。チェーンもかける。その一つ一つが、今日は妙に大きな動作に思えた。
「パパ、プリン」
「手を洗ってから」
「えー」
「先に」
陽向が洗面所へ走っていく。その背中を見届けながら、恒一は玄関のドアにもう一度目をやった。外は静かだ。物音もしない。人の気配もない。
それでも、何かが生活の表面をなぞっていった感じが消えない。
夕方、奈緒が帰宅すると、恒一は靴音だけで少し緊張した自分に気づいた。ドアが開いて、見慣れた顔が現れる。その当たり前に、いちいち安堵している自分がいる。
「ただいま。」
「おかえり」
奈緒は靴を脱ぎながら、恒一の顔を見た。
「何かあった?」
「……保育園の不審者情報、見たか」
「アプリで来てた。見たよ」
「たぶん、昨日公園にいた男と似てる」
奈緒はすぐに返さず、上着をハンガーにかけた。
「“似てる”って、どのくらい」
「帽子と服装が近い。立ち方も少し妙だった。今日もいた」
「今日も」
「ああ」
「陽向と一緒のときに?」
「帰り道で見た」
奈緒は少しだけ息を吐いた。
「それ、先に言って」
「今言ってる」
「順番が違う」
静かな声だった。だが、言葉ははっきりしている。
「“たぶん同じ”より先に、“今日も見た”“陽向と一緒だった”を言って」
恒一は口を閉じた。確かにそうだ。自分は先に結論を言う。そして、その結論に至る途中を省く。
奈緒は続けた。
「警察には?」
「まだ」
「保育園には?」
「まだ」
「どうして」
「この段階で言っても、帽子と服が似てるだけだ」
「でも、気になってる」
「気になってる」
「じゃあ、共有はしたほうがいい」
奈緒はそこで言葉を切り、台所のほうを見た。
「それと、今日の味噌汁、昨日よりちゃんと味ある?」
あまりにも普通の言い方だったので、恒一は一瞬、返事に詰まった。
「……ある」
「なら先にご飯にしましょう。陽向、おなかすいてる?」
リビングでは、陽向がスプーンを持ったままプリンのふたと格闘していた。
「ママ、あかない」
「それ、まだ食後」
「えー」
「まずは晩御飯にしましょう」
奈緒のその一言で、部屋の空気が少しだけ元に戻る。
だが、戻りきらないものは残る。
食卓についても、恒一の意識の一部はまだ公園の南側入口に立っていた。黒い帽子。濃い上着。遊歩道のほうへ去る背中。偶然かもしれない。気にしすぎかもしれない。
それでも、何でもないと切って捨てるには、少しだけ目に残りすぎていた。