夜明け前の密約は、冷酷騎士様の腕の中で
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あらすじ
異世界恋愛ショートドラマ - 夜明け前の密約は、冷酷騎士様の腕の中で
本文
第一章
雪。白。吐く息が、まだ夜のものみたいに青い。
辺境要塞アルディアの朝は早い。鐘が鳴る前から兵が走り、馬がいななき、厨房からは焼きたての黒パンの匂いが流れてくる。私はその匂いに少しだけ救われながら、薬草籠を抱えて石段を下りた。リシェル、十九歳。要塞付きの薬師見習い。平民育ち。体力だけはある。あと、痛みに強い。これはあまり自慢にならない。
そして今、私の首筋には剣の切っ先がぴたりと触れていた。
「動くな」
低い。冷たい。眠気なんて一瞬で吹き飛ぶ声だ。
「……団長さま、朝の挨拶がずいぶん鋭利ですね」
「誰と会うつもりだ」
見上げれば、銀灰の瞳。冬の空みたいな色。端整すぎて腹立たしい顔。黒い軍服をきっちり着込んだ第七騎士団長シオン・ヴァルツ、二十四歳。王国最年少で要塞防衛の総指揮を任された、氷の騎士。怖い。近寄り難い。容赦がない。部下が三歩離れて敬礼し、貴族令嬢が五歩離れて恋をする男。
……なのに私には朝一番で剣を突きつけてくる。どういうこと。
「厨房です。傷病兵用の粥に入れる薬草を」
「嘘をつくな。外門の番が、おまえが夜明け前から三日続けて北壁へ行っていると言った」
「……耳が早いですね」
「俺の要塞だ」
びり、と空気が鳴る。怒っている。しかもかなり。
私は少し迷って、籠の底を見せた。薬草の下に、小さな白い獣が丸まっている。子狼。いや、狼に似た魔獣の幼体だ。昨夜、北壁の崩れた見張り台の下で見つけた。傷だらけで、片耳が冷たくて、震えていた。
シオン様の眉がぴくりと動く。
「……それを拾ったのか」
「捨てておけませんでした」
「魔獣だぞ」
「知ってます。でも、まだ噛む元気もないです」
子狼が、きゅう、と情けない声を出した。可愛い。ものすごく可愛い。終わった。私はもうだめだ。助けるしかない。
沈黙。長い。寒い。怖い。
「リシェル」
「はい」
「おまえは甘い」
「ええ、よく言われます」
「だが、そういうところが」
そこで彼は言葉を切った。切って、深く息を吐いた。
「……厄介だ」
剣が下がる。代わりに大きな手が伸びてきて、私の頬についた雪を親指で拭った。ひやり、とした空気の中で、その指だけがやけに熱い。触れたのは一瞬なのに、そこだけ脈が速くなる。いや、待って。今のは何。
「団長さま」
「誰にも見せるな」
彼は私の籠を奪うように持ち上げ、子狼を覗き込んだ。
「温室の奥を使え。毛布と乳粥は俺が手配する」
「え」
「ただし、世話は俺の許可した時間だけだ」
「……団長さま、それ、だいぶ協力的では?」
「口答えする元気があるなら走れ。あと十分で朝点呼だ」
そう言って背を向けたくせに、歩き出した私の肩へ自分の外套を投げてよこす。重い。温かい。彼の匂いがする。革と雪と、少しだけ鉄。
ひどい。ずるい。こういうことを平気でやる。
その日の昼、負傷兵の処置を終えて温室に向かうと、子狼の寝床は見違えていた。上等な毛布。浅い木箱。小さな湯たんぽ。しかも乳粥には、私がいつも高くて手を出せない蜂蜜まで落としてある。
「……過保護すぎません?」
「何か言ったか」
背後から声。振り向く前に、後ろから腕が伸びてきて、私の手元の薬壺を支えた。高い棚に置こうとして背伸びしたところだったのだ。つまり今、私は完全に、彼の胸と腕の檻の中。
「し、シオン様」
「それでは落とす」
「落としません」
「落としかけていた」
「う」
耳元で囁かれると、言葉が短くなる。ずるい。低い声が近すぎる。振り向いたら頬が触れそうな距離で、でも触れない。そのわずかな空白がいちばん危ない。
彼は壺を棚へ置き、代わりに私の髪を指に絡めた。薬草の葉が一枚引っかかっていたらしい。する、と取られる。その動きがやたら丁寧で、心臓に悪い。
「おまえは周囲への警戒が甘い」
「団長さまが近すぎるからです」
「近づけるなと言った覚えはない」
「……そういう言い方、反則です」
彼がほんの少しだけ目を細める。笑ったのかもしれない。でも、他の人間の前では絶対に見せない顔だった。
その夜、北壁で火の手が上がった。隣国の偵察隊が雪嵐に紛れて侵入したのだ。
要塞中に警鐘。怒号。駆ける足音。私も治療班として呼び出される。けれど階段を下りきる前に、黒い影が目の前へ降ってきた。
「下がれ!」
シオン様だ。剣を抜いたまま、私を背に隠すように立つ。敵の矢が石壁に突き刺さった。一本。二本。三本。
「治療班へ行きます!」
「今はだめだ」
「でも――」
「命令だ、リシェル!」
びり、と胸が震える。怒鳴られたからじゃない。彼の声が、明らかに怯えていたからだ。私が傷つく可能性に。
次の瞬間、爆ぜた火花が通路へ飛び、私は反射で身をすくめた。ぎゅ、と強い腕が腰を抱く。引かれる。回る。背中が壁に当たる寸前、彼の手のひらが後頭部を庇った。
近い。近すぎる。戦場の匂いの中で、彼の呼吸だけが熱い。
「……怪我は」
「ない、です」
「本当に?」
「はい」
それでも彼は離れない。額が触れそうな距離で、私の瞳を確かめるように見つめる。剣を握る指は血に濡れているのに、その手で私には触れない。服の端すら乱さない。ただ、壊れものみたいに囲っている。
やがて彼は短く息を吐いた。
「温室へ戻れ」
「でも」
「頼む」
初めてだった。命令じゃなく、頼むと聞いたのは。
私は頷くしかなかった。
次回予告。
冷たい剣先より、あの人が私だけに見せた熱の方が、ずっと危ない。
第二章
火は消えた。侵入者は退けた。だが、要塞は静かにざわついていた。
北壁の見張り台が壊されたのは偶然ではない。誰かが内側から手引きした。そういう話が、雪解け水みたいに広がっていく。ひそひそ。じわじわ。嫌な広がり方だ。
私は温室で子狼に薬を飲ませていた。片耳の傷は塞がりつつある。元気も出てきた。今は私の袖を甘噛みしながら、湯たんぽに腹を乗せている。可愛い。天使。いや魔獣だけど。
「おまえは緊張感がないな」
「この子のことですか、私のことですか」
「両方だ」
シオン様が入ってくる。今日は左肩に包帯。無事じゃなかったくせに、それを隠して朝から軍議に出ていたらしい。信じられない。信じたくない。
「見せてください」
「不要だ」
「見せてください」
「命令しているのか」
「お願いしてます」
「……その方が厄介だな」
結局、彼は折れた。温室の長椅子に腰を下ろし、黙って軍服の留め具を外す。硬い指。綺麗な手。見てはいけない気がするのに、見てしまう。包帯の下の傷は想像より深く、私は息を呑んだ。
「誰がこれを」
「かすり傷だ」
「嘘です。縫ってるじゃないですか」
「見ればわかることを言うな」
平然としているのが腹立たしい。私は新しい薬布を広げ、彼の肩へそっと触れた。熱い。男の人の体温って、どうしてこんなに強いんだろう。指先からこちらの呼吸まで持っていかれる。
処置のあいだ、彼は一言も喋らなかった。私の手元をじっと見ているだけ。その視線の重さが、薬を塗るたび、包帯を回すたび、肌の下まで染みてくる。
「痛みますか」
「今さら聞くのか」
「今、痛そうな顔をしたので」
「おまえの顔を見ていた」
手が止まる。
「……それ、答えになってません」
「十分だろう」
ずるい。本当にずるい。
包帯を結び終えると、彼は不意に私の手首を取った。強くはない。逃がさないだけ。
「昨夜、なぜ北壁へ来た」
「治療班として」
「違う」
「違いません」
「おまえは爆ぜる前に通路の角を見ていた。誰かを探していた顔だ」
心臓が跳ねた。見られていた。
私は黙る。すると彼は少しだけ顔を近づける。息が触れそうで触れない距離。温室のガラス越しの光が、彼の睫毛の影を落とす。きれいすぎて、目を逸らしたいのに逸らせない。
「言え、リシェル」
「……団長さまを」
「何だ」
「探してました」
沈黙。世界が止まる。
子狼が、空気を読まずにくあ、と欠伸した。
「だって、いつも無茶ばかりするから……!」
熱くなった頬を隠すように俯く。耳まで赤い自覚がある。最悪。轟沈。完全敗北。
そのとき。こつん、と額に何か柔らかいものが触れた。彼の額だ。
「シオン様……?」
「静かにしろ」
言われた声の方が、静かじゃなかった。掠れている。押し殺した熱が滲んでいる。
「それ以上、今ここで言わせるな」
意味なんて聞かなくてもわかってしまう。だから余計に苦しい。
午後、王都から使者が来た。王命。シオン様は三日後、停戦交渉のため隣国へ向かうという。しかも単独に近い少人数で。危険すぎる。罠の匂いしかしない。
要塞の食堂でその話を聞いた私は、手にしていた木匙を噛みそうになった。行くなと言える立場じゃない。止められる相手でもない。わかっている。わかっているのに。
「顔色が悪い」
夜。温室。子狼を抱いた私の隣へ、シオン様が座った。近い。長椅子が狭い。肩が触れそうで触れない。なのに彼の外套の裾だけが私の膝に乗っている。わざとか。わざとですね。
「交渉、危ないですよね」
「危なくない交渉などない」
「それ、何の慰めにもなってません」
「慰めるつもりはない」
そう言ったくせに、彼は私の編みかけの毛糸手袋を指でつまんだ。私がこっそり作っていたものだ。彼の手は大きいから、何度もほどいてやり直している。
「下手だな」
「……返してください」
「だが、俺のために作っている」
ぎくり。何で知ってるんですか。
「サイズでわかる」
「もう嫌です」
「逃げるな」
毛糸ごと手を引かれ、私はよろめいて彼の肩へぶつかった。硬い。熱い。包帯の匂いと薬草の匂いが混ざる。逃げようとしたら腰を支えられた。もうだめだ。何もかも距離が近い。
「一つだけ約束しろ」
「……何を」
「俺が戻るまで、北壁へひとりで行くな」
「また子ども扱いを」
「約束しろ」
その声が低く沈む。命令より重い。私は頷くしかない。
すると彼は、私の髪を耳にかけた。そのまま指先が耳朶をかすめる。ぞく、と甘い電気が走った。思わず肩が跳ねる。彼は気づいたくせに何も言わない。ただ、喉の奥で小さく息を飲んだだけ。
「……ずるい」
「何がだ」
「シオン様ばかり平気そうです」
「平気に見えるなら、見誤っている」
その言葉の意味を確かめる前に、彼は立ち上がってしまった。
翌朝、私は約束を破った。
北壁の崩れた見張り台の下に、敵国の紋章入りの銀針が落ちていたからだ。昨夜から気になっていた。内通者の手掛かりになる。行くしかないと思った。思ってしまった。
そして、そこにいた。内通者が。
要塞副官エルマー。穏やかで人当たりのいい男。誰も疑っていなかった人だ。彼は銀針の箱を手に、私を見るなり笑った。
「見つけてしまったのか」
まずい。逃げなきゃ。そう思った瞬間、足首に冷たいものが絡んだ。魔術の縄だ。転ぶ。雪。痛み。息が詰まる。
「君は勘が良すぎた」
副官が近づく。手には短剣。終わった、と本気で思った。
その瞬間、雪を裂く音。
黒い影が副官を蹴り飛ばした。
次回予告。
引き裂かれる前に抱きしめられるのは、救いか、それとも罰か。
第三章
雪煙。怒号。鉄の匂い。
副官エルマーは石壁へ叩きつけられ、そのまま剣を喉元に突きつけられた。シオン様だ。怖い。見たことのない顔をしていた。冷たいなんてものじゃない。怒りが静かすぎて、逆に震える。
「俺の命令を破ったな、リシェル」
「……はい」
「言い訳は」
「後でたくさんします」
「そうしろ」
言い終える前に抱き上げられた。横抱き。待ってください。待って。心の準備が。ない。
「し、シオン様!」
「黙っていろ」
「でも」
「今、叱ると泣きそうになる。俺が」
息が止まる。
彼はそのまま私を抱いたまま歩き出した。要塞の兵たちが道を開ける。誰も何も言わない。言えない。でも見ている。見られてる。なのに彼は下ろさない。いつもなら他人の視線なんて完璧に切り捨てる人が、今日は一歩も譲らない。
治療室に着くなり、やっと下ろされた。と思ったら次の瞬間には壁際へ追い詰められていた。腕一本分の囲い。逃げ道なし。距離ゼロの手前。
「説明しろ」
「副官が怪しいと思って」
「だからひとりで行った」
「……はい」
「約束を破った」
「はい」
怒られる。叱られる。そう思っていたのに。
彼は目を閉じ、私の肩口へ額を押しつけた。重い息が落ちる。震えている。ほんの少しだけ。嘘みたいに、彼が。
「生きていてよかった」
たったそれだけで、胸の奥がぐちゃぐちゃになる。
私はそっと彼の軍服を掴んだ。ぎゅ、と。返事の代わりに。すると彼の腕が背中へ回る。強い。苦しくないぎりぎりで、でも確かに逃がさない抱き方。
「リシェル」
「はい」
「もう二度と、あんな顔をさせるな」
「……シオン様も、もう二度と私にあんな頼み方しないでください」
「どんなだ」
「戻るまで待て、みたいな」
「なぜ」
「待ってる方が、ずっと怖いからです」
沈黙。短い。けれど重い。
それから彼は私の頬を両手で包んだ。親指が涙の跡を拭う。いつ泣いたんだろう。自分でも気づかなかった。
「では、一緒に来るか」
「……はい?」
「停戦交渉だ。薬師が一人必要だ。表向きはそれで十分だろう」
どくん、と胸が跳ねる。けれど、すぐに首を振った。
「だめです。私は平民だし、交渉の場に立てるような」
「立たせない」
「え」
「表では近づけない。離れた場所に置く。護衛もつける。危険があれば真っ先に逃がす」
冷静な口調なのに、最後だけ少し速くなる。焦っているみたいに。珍しい。いや、ほとんど奇跡だ。
「それじゃ、私はただ守られるだけです」
「そうだ」
「ずるいです」
「知っている」
彼は少しだけ笑って、でも次の瞬間には真顔に戻った。
「だが、それでも離したくない」
空気が止まった。
これが、最後のどんでん返しだった。
私はずっと、彼が冷酷で、平気で、何でも切り捨てられる人だと思っていた。私にだけ少し甘いのも、たぶん気まぐれだと。庇ってくれるのも、部下として、要塞の一員としてだと。
違った。
北壁の子狼の毛布。蜂蜜入りの乳粥。温室の長椅子。私が作る下手な手袋のサイズ。夜ごとの見回りの時間。全部。全部、最初から。
「……いつから」
「雪が降る前」
早い。そんな前から。
「初めておまえを見たとき、薬草庫の棚から落ちそうになっていた」
「助けてくれませんでしたよね」
「見ていた」
「最悪です」
「だが、その後で脚立を全部新しくした」
「……あれ、シオン様だったんですか?」
彼は答えない。代わりに、額を私の額へこつんと合わせた。近い。あまりにも近い。唇まで、ほんの少し。触れそうで、でも触れない。その一息の距離で、彼は囁く。
「おまえに嫌われたくなかった」
ひどい。そんなことをこの顔で言うなんて反則だ。
私は笑ってしまった。泣きながら。変な顔だったと思う。でも彼は見逃してくれなかった。じっと見て、見て、そしてようやく耐えきれなくなったみたいに、私を抱き寄せる。
「リシェル」
「はい」
「好きだ」
「そんなに真面目に言われると困ります」
「困れ」
「ひどい」
「知っている」
そのあと、彼はようやく唇を寄せてきた。けれど本当に触れたのは額だけだ。そこに落ちた熱が、むしろ胸の奥まで燃やしていく。健全なくせに、ずるい。甘すぎる。心臓がもたない。
数日後。内通者は拘束され、停戦交渉は予定通り行われることになった。私は正式に随行薬師として名前を連ねた。表向きは、だ。
出立の朝、城門前でシオン様はいつも通り冷たい顔をしていた。部下には短く指示を飛ばし、私には一度も視線を向けない。完璧だ。氷の騎士そのもの。
なのに馬車へ乗り込む寸前、誰にも見えない角度で私の手首を引く。ぐい、と。影の中へ半歩だけ。
「手を」
「え?」
「寒いだろう」
差し出されたのは、例の毛糸手袋だった。私が編んだ、不格好なやつ。いつのまにか片方には小さな銀糸が縫い込まれている。彼の家紋。気づいた瞬間、胸が跳ねた。
「これ、いつ」
「昨夜」
「寝てくださいよ」
「眠れなかった」
しれっと言うな。しれっと。
彼は私の指へ手袋を履かせる。一本ずつ。丁寧に。愛おしいものに触る手つきで。でも周りから見れば、ただの出立前の確認にしか見えない。そういうところまでずるい。
「戻ったら」
「はい」
「今度は隠さない」
息が止まる。問い返す前に彼は離れ、いつもの冷たい顔で馬上へ戻ってしまった。
置いていかれた私は、真っ赤な顔で手袋を握りしめるしかない。
雪の要塞は今日も冷たい。風は強い。戦も、まだ終わってはいない。
でも、あの人の指の熱だけは、手袋の奥でずっと消えなかった。
次回予告。
みんなの前では氷の騎士、二人きりなら――たぶん、もう逃がしてくれない。
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