白薔薇は、冷血公爵の指先でほどける
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あらすじ
異世界恋愛ショートドラマ - 白薔薇は、冷血公爵の指先でほどける
本文
第一章
落ちる。白薔薇の刺繍が施された外套の裾が、夜気を吸ってふわりとひるがえった、その瞬間に。
「逃がすな」
低い声。冷たい。よく通る。舞踏会のざわめきを、刃みたいに一刀で裂く声だった。
セシリア・アルフェンは三階の回廊の手すりを越えたまま、足を止めた。止めたくなかった。けれど、あの声だけは、どうしても無視できない。
真下は月光の庭園。噴水。冬薔薇。石畳。高い。かなり高い。でも、今さら戻れば終わる。
背中で扉が開いた。
「令嬢がする逃げ方ではないな」
振り返らずともわかる。ヴァレント侯爵家の夜会で、最も近寄りがたい男。王弟付き筆頭騎士にして、黒曜公爵の異名を持つリュシアン・ヴェルグレイその人。
人の心がないと噂される、美貌の公爵。
そして、今夜の告発劇で、セシリアをたった一言もかばわなかった男。
「でしたら、公爵閣下は見なかったことになさって」
「見ている」
「見ないふりも、高位貴族のたしなみでは?」
「君に死なれるほうが面倒だ」
面倒。まあ、そうだろう。
婚約者に横領の濡れ衣を着せられ、王城会計帳簿の改ざん犯として社交界の真ん中で指をさされた女など、綺麗に消えてくれたほうが都合はいい。けれど、公爵にとっては、逃亡者が夜会の会場で墜落死でもしたら後味が悪い。その程度の意味だ。
わかっている。わかっているのに。
その声音が、思ったより近かった。
背後に、気配。熱。夜風の冷たさを押しのけるような、静かな体温。
「降りろ」
「断ります」
「君は毎回、交渉の初手を間違える」
毎回。
その言葉に、セシリアはふと喉をつまらせた。まるで、以前から彼女を見てきたような口ぶりだ。実際には、王城で帳簿の受け渡しをしたことが二、三度あるだけなのに。
次の瞬間、背中に腕が回った。
「……っ」
「暴れるな。落ちる」
「さっきまで落ちればいいみたいな顔をなさっていたくせに」
「していない」
嘘つき。絶対にしていた。
けれど、抱き上げる手つきは驚くほど慎重だった。乱暴さの欠片もない。手袋越しの指が、腰骨にかかる寸前でぴたりと止まり、礼儀のぎりぎりを守るみたいに位置をずらす。その遠慮が、かえって心臓に悪い。
とん、と石床に戻された。
足が震える。怖かったのか、悔しいのか、自分でもわからない。
「閣下は、私を捕らえにいらしたのでは」
「違う」
「では、嘲笑いに?」
「違う」
短い。切るように。なのに、そのあとだけ、ほんの少し間があった。
夜会の光が回廊まで届いて、彼の横顔を薄く照らす。整いすぎた輪郭。冷たい銀灰の目。人を寄せつけない美しさ。そのくせ、今だけは視線が妙に低い。責めるようで、責めていない。観察するようで、壊れものを見るみたいでもある。
「君は帳簿を改ざんしていない」
「……それを、なぜ」
「字が違う」
セシリアは目を見開いた。
誰も見ていないと思っていた。会計補佐官の娘として、数字と筆跡だけを武器に働いてきた。目立たない位置。飾りにもならない職。婚約者だったロベルト伯子息にとっても、都合のいい女でしかなかったはずだ。
なのに。
「閣下は、私の字をご存じなのですか」
「知っている」
淡々とした返答。なんでもないことのように。
どくん、と胸が鳴った。痛いくらいに。
「では、なぜ……あの場で」
「君をかばえば、証拠を隠される」
「……」
「今夜、真犯人を釣る。泣くのはそのあとにしろ」
泣いていない。そう言い返そうとして、言葉が詰まった。目尻が熱かったからだ。
くしゃり。
不意に、彼の手袋の背が、セシリアの頬に触れた。涙を拭うでもなく、零れそうな場所で止まる。触れたのは一瞬。なのに長い。長すぎる。
「閣下」
「静かに」
囁き。耳のすぐそば。だめだ、近い。息がかかる。わずかに、革と雪の匂いがした。冬の夜と、彼自身の匂い。
次いで彼は、外套の留め具を外した。黒い厚手の外套が、ふわりとセシリアの肩に落ちる。
「目立つ」
「私は罪人扱いですが」
「だから隠す」
体温が残っている。内側だけ、異様にあたたかい。包まれた瞬間、張りつめていた何かが、じわりとほどけそうになる。
そんなの、ずるい。
「今夜だけ、私の命令に従え」
公爵はそう言って、セシリアの手首を取った。手首だけ。指先だけ。所有するような強さはない。ただ逃がさない、という意志だけがある。
そのまま回廊の陰へ連れ込まれる。磨かれた柱の裏。人目の死角。近い。壁と彼の間に閉じ込められたみたいで、呼吸が浅くなる。
「これから、君の元婚約者がここへ来る。縋りつけ」
「……は?」
「できるだけ可愛く」
「閣下、今なんと?」
「聞こえただろう」
ありえない。冷血公爵の口から“可愛く”などという単語が出るなんて、世界のほうが間違っている。
けれど、リュシアンの目は真剣だった。ひどく真剣で、ほんのわずかに険しい。まるで、セシリアが他の男に縋ることを本気で嫌がっている顔にも見えてしまって、胸が変に騒ぐ。
「できないなら、別の方法を取る」
「……やります」
「そうか」
「ですが、後で事情を説明してください」
「あとで、な」
低く落ちた最後の一音が、妙に甘く聞こえた。
やがて足音が近づく。ロベルトのものだ。聞き慣れた、軽くて自信たっぷりの歩き方。反射的に肩が強張る。
すると、公爵の親指がそっとセシリアの手首の内側をなぞった。
一度だけ。慰めるように。
それだけで、息が止まるほど落ち着いてしまった自分が、悔しい。
柱の陰から出たセシリアは、震えるふりをしてロベルトに近づいた。実際には少しだけ本当に震えていたけれど。
「ロベルト様……私、怖くて」
「セシリア? よかった、君を助けようと――」
白々しい。
次の瞬間、暗がりからリュシアンが姿を現した。黒衣のまま。無表情のまま。だが、その視線はロベルトの腰の書類筒に真っすぐ落ちていた。
「伯子息。会計印の偽造品を持ち歩くとは、ずいぶん不用心だ」
空気が凍る。
ロベルトの顔色が変わった。言い逃れを探す目。逃げ道を測る足。セシリアはようやく理解した。公爵は最初から、彼女を囮にしたのだ。
怒るべきだ。悔しがるべきだ。なのに。
囮にするなら守ると、そういう手つきで先に触れてきたことが、どうしようもなく胸に残る。
結局その夜、ロベルトは証拠とともに拘束された。だがセシリアの疑いがすぐ晴れたわけではない。共犯の可能性ありとして、彼女もまた王城預かりとなる。
夜明け前、馬車に乗せられる寸前。
「寒いだろう」
リュシアンが、まだ返していなかった外套の襟を直した。長い指が喉元すれすれをかすめる。触れそうで、触れない。熱だけ落としていく。
「返します」
「いい」
「ですが」
「君に持たせておく」
まるで印だ。そんなふうに思ってしまう。
「なぜ、私に」
「証明が済むまで、君を誰にも渡さないためだ」
淡々とした声だった。命令みたいに。
なのに、その一言だけで、世界が少し明るく見えてしまうから困る。
馬車の扉が閉まる直前、彼はわずかに身をかがめた。
「泣くなら、次は私の見えない場所で泣け」
「……命令ですか」
「忠告だ」
「優しくないですね」
「君にだけは甘いと、周囲に気づかれる」
さらりと言って、彼は目を伏せた。
冗談だと思うには、声が低すぎた。
次回予告めいた甘い一文を残すなら――牢の鍵より先に、彼の視線が私を閉じ込めた。
第二章
冷たい。石壁も、寝台も、朝の水差しも。
だが王城の客室牢は、罪人を閉じ込めるには妙に整いすぎていた。窓には鉄格子がなく、花瓶に白い小花まで生けてある。誰の趣味だろう。いや、考えるまでもない。
「……あの人、こういうところだけ妙に丁寧なのよね」
呟いた途端、自分で赤くなる。まるで親しい人を評するみたいで。
セシリアの疑いを晴らすための再調査が始まって三日。彼女は王城から出られないまま、会計局や貴族院の尋問を受け続けていた。けれど、不思議とひどくは扱われない。食事もまともだし、筆記具まで貸される。しかも毎晩、暖炉がきちんと焚かれている。
誰の指示か、考えなくてもわかった。
そして、その本人は昼間になると、何食わぬ顔で現れる。
「体調は」
「最初の挨拶がそれですか」
「不満か」
「少しだけ」
公爵リュシアンは今日も完璧に冷たい顔だった。氷の彫像みたいな無表情で、扉の前に立っている。そのくせ、背後の侍女に目配せして、温かい紅茶を追加させる程度には細かい。
そういうところだ。そういうところが困る。
「尋問官が三人代わる」
「知っています」
「面倒な老人が一人混じる」
「知りたくありませんでした」
「泣きそうになったら机の下で左手を握れ」
「……」
「私は気づく」
さらりと言うな。どうしてそんなことを、当然みたいに告げられるのか。
セシリアは思わず視線を落とした。彼の手は今日も手袋に包まれている。黒革。隙がない。だけど一度だけ、その手に頬の熱を止められたことを、身体が覚えてしまっている。
「閣下」
「何だ」
「それは慰めですか、命令ですか」
「どちらでもいい」
ひどい返答。なのに、耳が熱い。
尋問は実際、厄介だった。共犯を疑う声。女ひとりで帳簿管理を担えるはずがないという偏見。元婚約者の甘言に乗ったのではという侮り。言葉の端に滲む軽視に、セシリアの喉は何度も詰まりそうになった。
だが、そのたびに机の下で左手を握る。
そうすると、扉のそばに控えているリュシアンが、ほんのわずかに視線を寄越すのだ。たったそれだけ。けれど、その視線は不思議なほど強かった。大丈夫だと声にしない代わりに、絶対に折らせないという圧だけを渡してくる。
尋問が終わるころには、指先が白くなるほど自分の手を握りしめていた。
「よく耐えた」
廊下に出た瞬間、彼が言った。
誉めるでもない。慰めるでもない。ただ事実みたいに告げるだけ。
それでも、その一言が染みてしまう。
「閣下に褒められる日が来るなんて」
「褒めていない」
「では?」
「評価した」
似たようなものだ。そう言い返す前に、ふいに彼の指がセシリアのこめかみへ伸びた。
ぴたり。
乱れた髪を、耳の後ろにかける。ただ、それだけ。ただそれだけなのに、息が喉に引っかかる。近い。指先が耳朶のきわをかすめて、熱がそこだけ残る。
「っ……」
「赤い」
「誰のせいですか」
「疲労だろう」
「白々しい!」
思わず声が上ずると、彼はほんの少しだけ口元を緩めた。笑った、と言うにはあまりに控えめな変化。けれど、それが自分の前だけのものかもしれないと考えたら、胸が騒ぎすぎて困る。
その夜、セシリアは王城の裏庭へ呼び出された。
白薔薇の温室。月の雫みたいな灯り。硝子越しに、冬の花が静かに咲いている。
「ここ、立ち入り禁止では」
「今日は私が許す」
「権力が横暴です」
「知っている」
リュシアンは温室の扉を押さえ、セシリアを中へ入れた。甘い香り。湿った土。夜の温度。閉ざされた空間に二人きりというだけで、心臓が忙しい。
「証拠が出た」
その一言で、ふわついていた意識が戻る。
「本当ですか」
「ああ。君の父が残した予備帳簿が見つかった」
「父の……」
セシリアの父は二年前に亡くなっている。真面目な会計官だった。遺したものは少なかったけれど、数字だけはいつも正しかった。
「明日の朝には、君の潔白は公にされる」
「……そう、ですか」
安堵のはずなのに、なぜか胸がきゅっと痛んだ。
潔白が証明されれば、もうここに留まる理由はない。公爵に守られる名目もなくなる。彼はまた、遠い高位貴族に戻る。手の届かない人。見上げるだけの人。
沈黙を察したのか、彼が一歩近づいた。
「何を考えている」
「……考えていません」
「嘘だな」
「閣下に見抜かれるの、少し腹が立ちます」
「慣れろ」
「無茶を仰いますね」
笑うしかなくて、少しだけ唇を緩めた、その時だった。
温室の外で、女たちのさざめきがした。王女付きの令嬢たちだ。リュシアンを慕う者は多い。彼がここにいると知れば、すぐ集まってくる。
セシリアは反射的に身を引いた。けれど、背後は薔薇棚。逃げ場がない。
すると彼が、何でもない顔でセシリアの肩に手を置いた。軽く。けれど確実に、自分の背後へ隠す位置で。
「閣下? こんなところに」
「ああ」
令嬢の声が甘く響く。媚びるような、懇願するような。
「明日の狩猟祭で、ぜひ私を――」
「無理だ」
即答だった。冷酷なくらいに。
「ですが」
「先約がある」
セシリアは息を呑んだ。肩に置かれた手が、少しだけ強くなる。見るな、と言われた気がして、俯く。
先約。誰と。聞くまでもない。今、彼の背中に隠されているのは自分だ。
令嬢たちが去るまでのわずかな時間が、ひどく長かった。肩越しに感じる体温。硝子越しの月。息をひそめる自分。彼の外套の裾が膝に触れるたび、胸の奥で、かさりと何かが鳴る。
やがて人の気配が消える。
「もう大丈夫だ」
「……先約って」
「咄嗟だ」
「そうですか」
胸が、ひどく浅ましい。少しだけ期待した自分が情けない。
するとリュシアンは沈黙し、代わりにセシリアの髪から小さな薔薇の棘を摘み取った。
「痛くなかったか」
「え?」
「さっき薔薇棚に触れただろう」
そんなところまで見ているのか。問いただしたいのに、声が出ない。彼の指先が髪をすくい、耳のうしろをかすめて離れる。やさしすぎる。ずるいくらいに。
そのあと、彼は低く言った。
「明日、君を王都から出す」
「……は?」
「潔白が証明されても終わらない。真犯人は一人ではない」
「でも、私は」
「君の父の遺した帳簿は、王弟派の横領経路に繋がる」
息が止まった。
「狙われる」
「だから匿う、と?」
「違う」
「違うんですか」
「護衛する」
匿うではなく。護衛。
その線引きが、妙に彼らしい。
けれど次の言葉は、もっと彼らしくなかった。
「私の領地へ来い、セシリア」
名前。初めて、名前で呼ばれた。
白薔薇の香りが濃くなる。世界が少し遠のく。
「……命令ですか」
「半分は」
「残りの半分は」
「頼んでいる」
あの冷血公爵が。誰にも頭を下げない男が。こんなふうに。
セシリアは喉の奥が熱くなった。泣くまいと顎を上げたのに、彼はそれを見て、ゆっくり手袋を外した。初めて見る素手の指。白く長く、剣だこがうっすら残る手。
その手が、頬に触れる。今度は手袋越しではない。体温がじかに伝わる。ひどく静かなのに、触れられた場所だけ燃えるみたいだ。
「泣くな」
「命令口調ばかり」
「そうしないと、私が触れている理由を誤魔化せない」
視線が合った。
近い。近すぎる。唇ではなく、額に落ちるかどうかの距離。息が混じる。呼吸のたび、彼の本音がこぼれそうで、でもまだ落ちてこない。
その寸前で、彼は離れた。
狡い人だ。最後まではくれないくせに、戻れなくなるところまで熱を置いていく。
次回予告めいた甘い一文を残すなら――逃がすための護衛だと言うくせに、あの人の指だけが、少しも私を自由にしてくれない。
第三章
雪。灰色の空。王都を離れる馬車の窓に、細かな白が叩きつけられていた。
黒曜公爵領へ向かう道中は静かだった。護衛騎士は最小限。御者も無口。向かいに座るリュシアンは書類を読んでいて、必要以上に話しかけてこない。
なのに、膝掛けがいつの間にかもう一枚増えていたり、揺れでセシリアの肩が窓にぶつかりそうになるたび手のひらが添えられたりする。そういう無言の世話だけ、やたら細かい。
しん、とした時間。
ふいに馬車が大きく揺れた。セシリアの身体が前に投げ出される。次の瞬間、硬い腕が抱き留めた。
「危ない」
「……はい」
胸板。外套。体温。近い。ありえないほど近い。鼻先に彼の匂いが満ちて、思考が飛ぶ。
だがすぐに、彼は手を離した。早すぎるくらいに。
「失礼」
「いえ……」
離れたあとに残る熱のほうが、よほど厄介だった。
昼過ぎ、公爵領との境にある礼拝堂で休息を取ることになった。雪を避けるためだ。古い礼拝堂は人気がなく、静謐で、石造りの冷気が肺に染みる。
セシリアが火の入っていない礼拝堂の奥で指をこすっていると、黙って手が差し出された。
「貸せ」
「何を」
「手」
命令形。
けれど従ってしまう。差し出した指先を、彼の両手が包んだ。大きい。熱い。ゆっくりと擦られる。手袋をしたままではなく、素手で。冷えた指の一本一本を、確かめるように。
だめだ。こんなの、心臓がもたない。
「閣下」
「今はリュシアンでいい」
「……急に反則です」
「二人きりだ」
「それがいちばん危ないんです」
思わずこぼすと、彼は目を細めた。満足そうに見えたのは気のせいではないだろう。
「なら、もっと警戒しろ」
「閣下がそうさせないんでしょう」
「知っている」
その返しはずるい。知っていてやっているのか。この人は。
そこで扉が蹴破られた。
乾いた音。怒号。抜剣。
刺客だった。
ロベルトの後ろにいた黒幕――王弟派の会計監察官が、口封じに人を差し向けてきたのだ。礼拝堂の静けさは一瞬で砕けた。剣戟。石床を滑る靴音。雪風が吹き込む。
「下がれ!」
リュシアンがセシリアを背後に庇う。その一歩の速さ。迷いのなさ。広げた腕の角度。見慣れぬはずなのに、胸が締めつけられるほどしっくりくる。
刺客の一人が脇から回り込んだ。セシリアはとっさに祭壇脇の燭台を蹴り倒す。炎はない。だが金属音と障害物で足が止まる。
「右!」
叫ぶ。リュシアンの剣が閃く。鮮やかに払う。
「下がっていろと言った」
「守られているだけは性に合いません!」
叫び返した途端、彼の口元がきつく歪んだ。怒ったのではない。むしろ――笑いを堪えるみたいに。
だが戦闘は長引かなかった。最後の刺客を壁際へ追い詰めた時、男が吐き捨てた。
「公爵閣下も哀れだ。どうせその女は、殿下の命でお前に近づけられた駒だろう!」
空気が止まった。
セシリアの血の気が引く。
え。
何を言っているの。
だが男はなおも喚いた。
「会計官の娘など、最初から囮に決まっている! 公爵を王都から引きはがす餌だ!」
その瞬間、リュシアンの剣先がぴたりと止まった。
沈黙。いやな沈黙だ。
セシリアは、凍えたみたいに動けなくなった。まさか。そんな。彼が自分を助けたのは、本当に利用価値があったからだけだったのか。温室も、外套も、頬への指も、全部、計算で。
胸の奥で何かが崩れる。いや、崩れたと思った。
次の瞬間、リュシアンが刺客を殴り倒した。剣ではなく、拳で。鈍い音が礼拝堂に響く。
「その口を閉じろ」
低い。怒りで、声が震えていた。
彼が、感情を露わにするなんて。
刺客は縛り上げられ、残党は逃げた。護衛が追う。礼拝堂に残されたのは、セシリアとリュシアンだけ。
雪が吹き込む。寒い。なのに指先が痺れるほど熱い。
「……本当ですか」
やっと出た声は、ひどくかすれていた。
「私が、閣下を王都から引き離すための駒だったというのは」
彼はすぐには答えなかった。その沈黙が、刃になる。
「答えてください」
「半分だけ、本当だ」
心臓が止まるかと思った。
「王弟派が君を利用したのは事実だ」
「では」
「だが、私が君を選んだ理由はそれじゃない」
選んだ。
その言葉に、泣きそうになるのが悔しい。
「帳簿の字を見た時から、気づいていた。君は正しい」
「……」
「その正しさが危ういことも、知っていた」
「それだけですか」
「それだけで、十分だったはずだ」
はず。過去形。崩れる声。
リュシアンは手を握りしめた。素手のまま。白い指が強張っている。
「だが違った」
一歩。彼が近づく。
「君が泣くのを見たくなかった」
「……」
「他の男に縋る真似をさせた時、腹が立った」
「……」
「温室で背中に隠した時、あのまま誰にも見せたくないと思った」
淡々と言っているのに、言葉の端が熱い。抑え込んでいたものが、綻びから溢れている。
セシリアは呆然と見上げた。冷酷で、優雅で、崩れないと思っていた男が、初めて少しだけ苦しそうに見える。
「君を利用したつもりはない」
「でも、最初にかばわなかった」
「証拠を守るためだ」
「私より?」
「君を守るために、だ」
息が止まった。
リュシアンは目を伏せ、それからゆっくり、セシリアの頬に触れた。何度目だろう。この人はいつも、いちばん言葉にしたくないところで触れてくる。
「君が傷つけば、私が困る」
「ずいぶん自分本位ですね」
「ああ」
「最低です」
「知っている」
なのに、そこで少し笑うなんて。ずるい人だ。ずるくて、ひどくて、でも優しい。
「……それで、閣下は」
「リュシアンだ」
「……リュシアン様は、今後も護衛の名目で私を囲うおつもりですか」
精一杯の皮肉だった。だが彼は否定しない。
「囲いたい」
「正直すぎます」
「もう隠す意味が薄い」
「十分遅いです」
涙が出そうで、セシリアは鼻先を押さえた。みっともない。こんな顔を見せたくない。だが彼は逃がさない。顎に指を添えて、視線を上げさせる。
触れそうで触れない。唇ではなく、呼吸だけが近い距離。
「君が嫌なら、手を引く」
「……ずるい言い方」
「君に選ばせる」
「今さら?」
「最後だけは」
そこまで言われたら、もう無理だ。
セシリアは震える指で、彼の外套の前をつまんだ。わずかに。けれど自分から。
「条件があります」
「聞こう」
「今後、何かを隠す時は、せめて半分は教えてください」
「善処する」
「満点ではありません」
「努力する」
「あと」
「まだあるのか」
「あります。二人きりの時だけ、そんなふうに優しくするのは卑怯です」
「嫌か」
「……嫌では、ありません」
言ってしまった。顔が熱い。逃げたい。でも逃げたくない。最悪だ。
すると彼は、初めてはっきりと笑った。ほんの少しだけなのに、礼拝堂の冷気が溶けるみたいな笑みだった。
「では、直さない」
「リュシアン様!」
「君だけにする」
言い切られてしまった。
次の瞬間、額に口づけが落ちた。軽い。だが、誓約みたいに深い。
唇ではない。まだ、そこまでは奪わない。彼の自制がそこにあって、それが逆にどうしようもなく甘い。
「……これで終わりではない」
「はい」
「王都へ戻れば、面倒な手続きも、敵も、噂もある」
「はい」
「それでも、君を私の隣に置きたい」
今度は、まっすぐだった。建前も誤魔化しもない。ようやく零れた本心。
セシリアは目を閉じ、彼の胸にそっと額を預けた。抱きしめるのは彼からではなかった。自分から寄りかかる。選び返すために。
「では、私も条件を増やします」
「何だ」
「最後まで、ちゃんと大事にしてください」
「……命令か」
「お願いです」
「それがいちばん難しい」
低く笑ってから、彼はようやく、両腕で包み込んだ。今度は迷いなく。けれど壊れものにするみたいに丁寧に。
雪の礼拝堂で、世界はまだ少し冷たいままだった。敵もいる。噂も消えない。公爵と会計官の娘の距離は、きっと簡単には祝福されない。
それでも。
誰も見ていない場所でだけ落ちる熱は、嘘ではない。
王都へ戻ったあと、セシリアの潔白は正式に認められ、王弟派の横領も暴かれた。彼女は功績者として会計局へ復帰し、黒曜公爵はあくまで無表情のまま、必要な手続きを一つずつ片づけた。
そして人前では冷たいままなのに、廊下ですれ違う時だけ指先で袖口を整え、会議の後だけ誰にも見えない角度で腰を支え、夜の書庫では耳元に低く「帰るぞ」と囁く。
そうして少しずつ、少しずつ。
最後に婚約が公表された日、社交界は驚きに沸いた。冷血公爵が誰を選んだのかと。
セシリアはその隣で、涼しい顔をしていた。けれど手袋の下では、彼の指が一度だけ、手のひらをくすぐるように撫でたのを知っている。
あんなふうに不器用で、静かで、執着の深い男に選ばれるのは、きっと甘いだけではない。泣く日も、喧嘩する日もあるだろう。
それでもいいと思えた。
白薔薇は棘を持つ。だからこそ、そうっと触れられるたびに、恋はこんなにも熱い。
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