冷血辺境伯は、身代わり花嫁の嘘を見抜いている
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あらすじ
異世界恋愛ショートドラマ - 冷血辺境伯は、身代わり花嫁の嘘を見抜いている
本文
第一章
熱い。喉が焼けるほどに。
「偽物だな」
花嫁の誓いを述べるはずだった祭壇の前で、エレノアはその一言を真正面から浴びた。
銀燭台の火が揺れる。ざわめきが遅れて広がる。聖堂の天井は高く、冬の曇天みたいに冷たい。なのに、頬だけがひどく熱い。
フォルディア伯爵家の次女エレノア、二十二歳。今夜だけは“セラフィナ様”として、辺境伯に嫁ぐはずだった女である。
――いや。嫁ぐはず、ではない。嫁がされるはず、だった。
けれど相手は、誤魔化されてくれなかった。
祭壇の下、黒衣の男がまっすぐこちらを見上げている。辺境伯レオンハルト・ヴァルツェン、二十七歳。王国北端を守る最強の武門貴族。戦場では冷酷、社交界では無愛想、婚姻話を何度も破談にした近寄りがたい美貌の男。
その男が、花嫁の手を取る代わりに、静かに言ったのだ。
「本物のセラフィナ嬢ではない。君は誰だ」
逃げたい。今すぐ床に溶けたい。だけどここで黙れば、フォルディア家は終わる。没落どころでは済まない。反逆の罪まで被せられるかもしれない。
エレノアはゆっくりとヴェールを上げた。
「……フォルディア伯爵家の次女、エレノアでございます」
「なぜ、君がここにいる」
「姉は逃げました」
「率直だな」
「取り繕っても、閣下のお目はごまかせないようですので」
喉が震えないように、腹に力を入れた。泣いてなるものか。震えてなるものか。みっともなくても、折れるのだけは違う。
聖堂の左右で親族たちの顔色が変わる。青ざめる父。失神しそうな母。口元を扇で隠す招待客たち。誰も彼も、辺境伯が怒り狂って婚礼そのものを潰すと信じている顔だ。
だが、レオンハルトは怒鳴らなかった。
ただ一段、祭壇へ近づく。長身。黒い軍装。肩にかかった銀狼の毛皮。雪夜のような灰青の瞳。
その足音だけで、空気がぴんと張った。
「君は姉の身代わりとして立っている」
「はい」
「事情を知って受けたのか」
「はい」
「脅された?」
「半分は」
「残りの半分は」
「家族を飢えさせたくなかっただけです」
そこで彼の瞳が、ほんの少しだけ動いた。
それだけ。たったそれだけなのに、胸の奥が変に鳴る。冷たい人だと思っていた。けれど今の視線は、刃ではなく秤だった。値踏みするのではなく、何かを量るみたいに。
「聖官」
「は、はいっ」
「式は中断だ。客は下げろ」
「しかし、閣下……!」
「聞こえなかったか」
低い声が落ちた瞬間、聖堂中の空気が凍った。誰も逆らえない声音だ。
けれど、エレノアのほうを見る目だけが、なぜか少し柔らかい。錯覚だろうか。いや、そんなはずはない。この人は今、欺かれた側だ。
客人たちが慌ただしく退出する。花びらの敷かれた床が、誰にも踏まれぬまま乱れていく。祝いの音楽は止まり、香油の匂いだけが妙に甘い。
聖堂に残されたのは、両家の親族と、聖官、そして二人だけになった。
「フォルディア伯」
辺境伯はエレノアから目を離さないまま、彼女の父を呼んだ。
「はい……っ」
「セラフィナ嬢の行き先は」
「わ、わかりません」
「では、あとで聞く。今は黙れ」
冷たい。ひやりとするほど。
けれど父が膝から崩れそうになったその瞬間、レオンハルトはさりげなく片手を上げ、衛兵に合図をした。支えろ、というだけの無言の命令。怒鳴りつけるつもりなら、あんな合図はいらない。
その建前と本音の差が、妙に胸に引っかかった。
「エレノア嬢」
「はい」
「こちらへ」
呼ばれて、祭壇の階を降りる。裾が長い。緊張で足がふらつく。転ぶ――と思った瞬間、黒い手袋が肘の下を支えた。
一瞬。ほんの一瞬だけ。
でも、その支え方が恐ろしく丁寧だった。掴まない。引き寄せない。触れすぎない。倒れないだけの、最小限の力。
近い。香りがした。冷えた革と、雪の夜の匂い。戦場帰りの男らしい鉄の気配が、ほんの少しだけ混じっている。
「歩けるか」
「……はい」
「なら、歩け」
優しくはない。けれど、突き放しきれない声。
彼に導かれ、聖堂の脇の控え室へ入る。扉が閉まった瞬間、外界のざわめきが遠のいた。静か。息が詰まるほど静かだ。
エレノアはその場で膝をつきかけた。謝罪のために。
だが、その前にレオンハルトの声が落ちた。
「座れ」
「え」
「立ったままだと倒れる」
控え室の長椅子を示される。戸惑いながら腰を下ろしたエレノアの前で、彼はしばらく黙っていた。責める言葉を探しているのか、それとも処分を決めているのか。わからない。
やがて彼は、長机の上の水差しから杯を満たし、無言で差し出した。
「飲め」
「……毒は入っていませんよね」
「入れる理由があるか」
「一応、偽物の花嫁ですので」
「毒より面倒だ」
思わず吹き出しかけて、ぎりぎりで堪えた。
こんな時に。こんな時なのに。少しだけ可笑しい。
杯を受け取ると、彼の指先がかすかに触れた。手袋越しですら、熱が残る気がする。変だ。緊張のせいだ。そうに違いない。
「セラフィナ様は、自分の恋人と逃げたのか」
「……はい」
「君は代わりに差し出された」
「差し出された、というより、自分で前に出ました」
「なぜ」
「父は領地経営に失敗し、母は病みがちです。姉が消えたと知れたら、婚姻不履行の違約で家が潰れます」
「だから君が」
「はい」
彼の瞳がまた細くなる。冷たいまま。けれどその冷たさが今は、責めるためのものではないとわかる。観察だ。選別だ。危険か否か、自分に害をなすか否か。そういう男だ。無駄に甘くない。
「君は、この婚姻がどういう意味を持つか理解しているな」
「辺境伯家と王都貴族の結びつきを強める政略です。姉の不在が公になれば、閣下も恥をかく」
「半分正解」
「残りの半分は?」
「私の花嫁は、王都で狙われる」
低い声だった。
エレノアは杯を持つ手を止めた。
「狙われる……?」
「この婚姻を嫌う勢力がいる。表向きは祝福しているが、内心では潰したい連中だ」
「では姉は」
「誰かに唆された可能性が高い」
空気がひやりと変わる。私的な婚礼の失敗ではない。もっと大きなものが絡んでいる。
「今さら君を家へ返しても、口封じに遭う」
淡々と告げられた現実は、ぞっとするほど重かった。
エレノアは唇を噛んだ。逃げ道がない。家に戻っても危険。ここにいても危険。けれど――。
「閣下は、私をどうなさるおつもりですか」
「三十日」
短く、彼は言った。
「三十日だけ、私の婚約者として振る舞え」
「……え?」
「本物の花嫁が行方不明のまま婚儀が潰れたと知れれば、相手は次の手を打つ。君を婚約者として表に立たせれば、あぶり出せる」
「囮、ですか」
「そうだ」
正直すぎる。
だけど次の瞬間、彼は少しだけ顔をしかめた。
「ただし」
「ただし?」
「君に傷をつける気はない。私の許可なく一人になるな」
「命令ですか」
「契約条件だ」
「……従わなければ?」
「縛ってでも守る」
びり、と胸のどこかが震えた。物騒なのに、なぜか変に甘い。
レオンハルトは机の上の羽ペンを手に取り、白紙の誓約書へさらさらと何かを書いた。流麗な筆致。軍人なのに字が綺麗だ。そんなことに見惚れてしまう自分が腹立たしい。
「内容を読め」
「はい」
そこには、三十日間の仮婚約、生活の保障、フォルディア家への違約金免除、母の治療費支援、そして――エレノア本人の意思でいつでも契約破棄できる条項まで並んでいた。
「……私に有利すぎません?」
「不満か」
「罠に見えます」
「罠だと思うなら結ぶな」
「でも」
「選べ」
そこで初めて、エレノアは気づいた。この人は、選ばせるのだ。立場では圧倒的に上なのに、最後の一歩だけはこちらに残してくる。ずるい。そんなふうにされたら、ただ怯えて従うだけの娘ではいられない。
エレノアは誓約書を見つめ、深く息を吸った。
「……結びます」
レオンハルトは何も言わなかった。ただ、自分の印章を押し、彼女にも差し出す。距離が近い。机を挟んでいるのに、目線の高さが同じになるだけで、妙に落ち着かない。
「本当にいいのか」
「閣下こそ」
「私は問題ない」
「偽物の花嫁を三十日も隣に置くんですよ」
「偽物かどうかは、今はどうでもいい」
心臓が跳ねた。
どうでもいい、なんて。そんな言い方はない。なのにその声は、乱暴というより切実に聞こえてしまうから困る。
印章を押そうとしたとき、手が震えた。
その震えを見たのか、彼の手がそっと重なる。手の甲に。わずかに。印をずらさないため、それだけの理由で。
「落ち着け」
「……誰のせいだと」
「私だな」
「自覚はあるんですね」
「ある」
こんな時に、少しだけ笑ってしまった。
誓約が結ばれる。乾ききらない朱の印が、妙に生々しかった。
その夜から、エレノアは辺境伯邸で“婚約者”として過ごすことになった。
馬車で屋敷へ向かう道中。雪が窓を叩く。車内には毛布と、黙り込んだ二人きりの空気。
しばらくして、揺れに耐えきれずエレノアの頭が窓枠へ寄りそうになった瞬間、すっと大きな手が差し込まれた。窓ではなく、その手のひらにこつりと額が当たる。
「……っ」
「硬いところにぶつけるよりましだ」
「閣下は、そういうことをさりげなくなさるのですね」
「嫌か」
「嫌ではありませんが、心臓に悪いです」
「慣れろ」
またそれだ。理不尽だ。
けれど、その手は額から離れたあとも、なぜかしばらく窓際に残っていた。まるで次に揺れたときも受け止める気でいるみたいに。
冷血辺境伯は、思っていたよりずっと厄介な男かもしれない。
次回予告めいた甘い一文を残すなら――嘘の婚約なのに、あの人の無言の庇い方だけが、少しずつ本物を侵食していく。
第二章
辺境伯邸は、冬の砦みたいな屋敷だった。
黒い石。高い廊下。磨かれた窓。花ではなく武具が飾られた広間。けれど不思議と荒々しさだけではなく、静かな温もりがある。使用人たちが怯えていないからだろうか。皆、主人を恐れてはいても、嫌ってはいない顔をしている。
「奥様候補のお部屋はこちらです」
案内をしてくれた老女中は、にこりともせずそう言った。だが、部屋に入った瞬間、エレノアは言葉を失う。
暖炉には火。窓辺には白い花。机には新しい便箋。ベッドはふかふか。しかも衣装棚には、彼女の寸法に合う冬服が何着も並んでいた。
「……早くない?」
「閣下のご指示です」
「私、今夜来ると決まったの、数時間前ですよね」
「閣下は決断がお早いので」
そういう問題だろうか。
ぼうっとしていると、女中は最後に小さな匙を差し出した。
「お茶に入れる薬草蜜です。眠れない夜に」
「ありがとうございます」
「お礼は閣下へ。昨夜のうちにご用意なさいましたので」
昨夜。
聖堂で身代わりだと見抜くより前から? まさか。いや、でも。婚礼用の花嫁のために準備したのだとしても、この匙の彫刻はエレノアの好きな野薔薇だ。偶然にしては出来すぎている。
考え始めると心がざわつくので、やめた。
翌朝、朝食の席でレオンハルトはいつも通り冷たい顔をしていた。長卓の向こう側、新聞を片手に、銀器みたいに整った横顔を晒している。恐ろしく絵になる。目の毒だ。
「眠れたか」
「少しは」
「少し?」
「慣れない屋敷ですので」
「では今夜は薬草酒を持たせる」
「お気遣いなく」
「命令ではない」
「でも断ると押し切るでしょう?」
「よくわかっているな」
はい、理解してきましたとも。
朝食は質素に見えて、ひどく美味しかった。焼き立てのパン。薄く切った鹿肉の燻製。白いスープ。甘く煮た林檎。そして、彼の前だけにないものが一つ。
「閣下はジャムを召し上がらないんですか」
「甘いものは得意ではない」
「では、この林檎煮も」
「君の分だ」
さらりと返されて、エレノアは匙を落としかけた。
自分の皿の林檎煮は、最初から少し多かった。気づかなかった。いや、気づいていたけれど、そういうものかと流していた。
「……なぜ私が好きだと」
「婚礼前の調査書類に書いてあった」
「そんなところまで」
「読む」
「まじめですね」
「当然だ」
当然、で済ませるあたりがこの人らしい。なのに、調査書類の好物欄まで読んでいる辺境伯って何なのだろう。怖い。ちょっと怖い。でも嬉しい。くやしい。
その日の午後、仮婚約者としての初仕事が待っていた。辺境伯領の冬至祭に、二人そろって顔を出すのである。狙っている敵に“婚姻は成立した”と見せるためだ。
「笑え」
馬車を降りる前、レオンハルトが言った。
「無茶を仰る」
「口元だけでいい」
「閣下は?」
「私は普段通りで問題ない」
「つまり私だけ頑張れと」
「そうだ」
腹が立つ。腹が立つのに、その言い方が少し面白くて困る。
祭りの広場は、雪灯籠と焚火で賑わっていた。子どもたちの歓声。焼き菓子の香り。羊毛の服。白い息。エレノアが辺境の民に軽く会釈すると、皆ほっとしたような顔で道を開ける。冷たい領主の隣に立つ女を、品定めしているのだ。
緊張で肩が強ばった、その時。
黒い手袋が、そっとエレノアの背を押した。押すというより、そこにいると教えるように。たった一瞬。
「俯くな」
「……はい」
「私の婚約者に見えなくなる」
「嘘の婚約者でしょう」
「今は本物に見せる必要がある」
耳元で低く言われて、心臓がどくんと鳴った。人前なのに。周囲には聞こえない声量で。あくまで建前だけを口にしているのに、熱だけが妙に近い。
祭りの途中、領民の子どもが転んで泣き出した。エレノアは思わずしゃがんで裾を汚し、膝をすりむいたその子の手当てを始める。ハンカチを裂き、手際よく包帯代わりにする。母が病弱で、家のことを何でも覚えた癖が出た。
「お姉ちゃん、へーき?」
「大丈夫よ。少ししみるけど、すぐ終わるから」
泣いていた子が、やがて笑う。その頭を撫でて立ち上がると、目の前に大きな影が落ちていた。レオンハルトだ。
「裾が汚れた」
「子ども優先です」
「そうか」
彼は否定しなかった。ただ、自分の外套を外し、エレノアの肩にかける。人前だ。どよ、と周囲が息をのむ気配がした。冷血辺境伯がそんなことをするなんて、誰も思っていないのだろう。
「閣下、皆さんが見ています」
「だからだ」
「……建前ですか」
「もちろん」
絶対に嘘だ、と思った。
でも、それ以上は言えない。外套の重みと体温で、肩口がじんわりあたたかい。彼の匂いに包まれているみたいで、落ち着かないのに妙に安心する。
夜、屋敷へ戻ったあと。狙い通り、敵が動いた。
エレノアの寝室の窓から、細工された毒針が打ち込まれたのだ。深夜、かすかな風切り音に気づいたのは偶然ではない。彼女は昔から気配に敏かった。とっさに身を伏せた矢先、扉が蹴り開けられる。
「伏せろ!」
レオンハルトだった。
夜着の上に外套だけを引っかけた姿。髪も少し乱れている。完璧な辺境伯の姿ではない。それでも剣だけは握られていて、彼はエレノアを抱きかかえるように床へ押し倒した。
近い。近すぎる。胸が当たる。腕の中に閉じ込められる。守るためだとわかっていても、息が乱れる。
「けがは」
「ありません」
「本当か」
「……はい」
「どこか刺さっていないな」
「ありません、たぶん」
言い終える前に、彼の手がエレノアの腕、肩、首筋へと素早く触れていく。確認のためだ。わかっている。わかっているけれど、素手だ。夜のせいか手袋をしていない。熱が直に伝わる。だめだ、変な声が出そう。
「閣下、近い、です」
「確認中だ」
「心臓に悪い……!」
「それはこちらの台詞だ」
低く返ったその声が、普段よりわずかに荒い。怒っているのか。焦っていたのか。そう思った瞬間、胸のどこかがやわらかく痛んだ。
窓際には毒針。床には割れた花瓶。衛兵たちの足音が廊下を駆ける。
襲撃者は逃げた。けれど部屋はもう安全ではない。そう判断したのか、レオンハルトはエレノアを見下ろしたまま言った。
「今夜は部屋を移す」
「どこへ」
「私の私室の隣」
「隣!?」
「文句があるか」
「あります、非常に」
「却下だ」
なんて横暴。
けれど結局、その夜エレノアは辺境伯の私室の隣で休むことになった。扉一枚向こうに本人がいると思うだけで、眠れるわけがない。
眠れず、薬草蜜をお茶に垂らしていると、軽いノックがした。
「起きているな」
「……どうしてわかったんですか」
「灯りが漏れている」
扉越しの声。低い。静か。近い。
開けると、彼が湯気の立つ小鍋を持って立っていた。夜半に、だ。
「何ですか、それ」
「温めた牛乳」
「辺境伯閣下が?」
「料理人を起こすほどではない」
「でもご自身で?」
「……悪いか」
「いえ、意外すぎて」
レオンハルトは無言で鍋を差し出した。受け取ると、指先がふれあう。今度は意識して離されなかった。ほんの少しだけ。そこに留まる熱。
「眠れないなら飲め」
「閣下こそ、お休みになっては」
「君が寝るまでは」
さらりと言われて、息が止まる。
「それは監視ですか」
「護衛だ」
「ずいぶん甘い護衛ですね」
「そう聞こえるなら、君の耳が悪い」
ひどい。ひどいのに、頬が熱い。
その夜、エレノアは扉一枚隔てた向こうに彼がいることを知りながら、ようやく少しだけ眠れた。
そして翌朝、王都から使者が来る。
本物のセラフィナが見つかったという報せとともに。
次回予告めいた甘い一文を残すなら――扉一枚ぶんの距離しかない夜ほど、触れられないことがいちばん熱い。
第三章
見つかった姉は、泣いていた。
王都から護送されてきたセラフィナは、旅塵にまみれ、豪奢なドレスではなく粗末な外套に包まれていた。逃げた先で恋人に裏切られ、金も身分証も奪われたらしい。
応接間に座らされた姉は、エレノアを見るなり崩れた。
「ごめんなさい……っ、ごめんなさい、エレノア……!」
細い肩が震える。もともと姉は強い人ではなかった。美しく、注目されることに慣れ、守られることにも慣れていた。だから誰かの甘言に乗せられたのだろう。責めるべきだ。怒るべきだ。頭ではそう思うのに、実際にぼろぼろの姉を前にすると、できなかった。
家族なのだ。情けなくても。愚かでも。
「……無事でよかったわ、お姉様」
そう言った途端、姉はわっと泣き崩れた。
けれどその後ろで、レオンハルトの横顔は一切動かなかった。窓辺に立つ彼は、雪を背にしてひどく静かだ。怒っているようにも、無関心にも見える。わからない。彼はこういう時、何も見せない。
「事情聴取は以上だ」
淡々と彼は言った。
「セラフィナ嬢は王都へ戻す」
「え……っ」
エレノアが顔を上げる。姉も息をのむ。
「閣下、それでは」
「この件は終わりだ」
終わり。その言葉はあまりに冷たくて、足元から熱が抜けた。
終わり。つまり、仮婚約も、ここで過ごした日々も。
そうだ。もともと期限付きだった。三十日どころか、姉が見つかれば終了する契約。わかっていたはずなのに。なのに、胸がきしむ。
「では私は」
「今日中に王都へ戻れ」
「……はい」
短い返事しかできなかった。
姉が見つかった以上、自分はただの代役だ。彼が隣に置いていたのは、あくまで“必要だから”。ここで縋れば惨めだ。条件を出すと言ったのは自分なのに、今さら泣きつくなんてできない。
その夜、エレノアは荷造りをした。女中たちは皆、気まずそうに黙っている。誰も何も言わない。あまりに優しい沈黙で、かえってつらい。
窓の外には雪。静かな夜。ここへ来てから何度見たかわからない景色が、今夜だけやけに遠い。
机の引き出しには、辺境伯が最初に渡した誓約書の控えが入っていた。いつでも破棄できる、その一文。結局、破棄を選ぶのは彼のほうだったのだと、今さら思い知る。
こつ、と軽いノック。
この時間に来る人など一人しかいない。胸が勝手に跳ねたのが腹立たしい。
「どうぞ」
開いた扉の向こうに立っていたのは、やはりレオンハルトだった。いつもの軍装ではない。濃紺の室内着。少しだけ力の抜けた姿。なのに雰囲気の鋭さは消えない。
「まだ起きていたか」
「明日、出立ですので」
「そうか」
会話が乾いている。いつもよりずっと。
レオンハルトは部屋に入らず、扉のところで止まった。その距離が、逆に残酷だ。近すぎず、遠すぎず。触れられない位置。
「母君の治療費は手配してある」
「ありがとうございます」
「フォルディア家の債務も整理させる」
「そこまでしていただかなくても」
「契約の範囲だ」
契約。
その言葉に、胸のどこかが静かに切れた。
「……閣下は本当に誠実ですね」
「皮肉か」
「少しだけ」
「そうか」
沈黙。火のはぜる音だけが響く。
彼が何か言いかけて、やめる。珍しい。あの人が、言葉を迷うなんて。
でももう遅い。たぶん。きっと。
「おやすみなさいませ、閣下」
先にそう言ったのは、自分を守るためだ。これ以上ここに立たれたら、みっともない顔をしてしまう。
レオンハルトはしばらく動かなかった。やがて、低く一言だけ落とす。
「……ああ」
それだけで扉は閉まった。
きれいな終わり方だ。惨めにならないための。
なのに、扉の向こうへ去っていく足音を聞いた瞬間、涙が落ちた。ぽたり。ぽたり。遅い。遅すぎる。
翌朝。
エレノアは屋敷を出た。辺境伯の見送りはなかった。執務があるのだろう。そういう人だ。甘い顔をするのは二人きりの時だけで、人前では何も見せない。最初からずっと。
馬車が雪道を進む。屋敷が遠ざかる。白い世界に黒い塔が沈んでいく。
その時だった。
「止めて!」
街道の真ん中に、黒い騎馬の影が現れた。馬車が急停止し、車体が大きく揺れる。外で御者が悲鳴を上げる。
エレノアは窓を開け、息をのんだ。
雪の中、レオンハルトがいる。外套も羽織らず、黒馬を飛ばしてきたのだろう。肩に雪を積もらせたまま、ひどく険しい顔をしている。
「閣下……?」
「降りろ」
命令形。息が白い。珍しく声が荒い。
「なぜ」
「いいから降りろ」
「嫌です」
「……っ」
そこで初めて、彼ははっきりと顔を歪めた。冷酷な辺境伯の仮面が、ばきりと音を立てて割れるみたいに。
「それを今やるのか」
「閣下こそ、今さら何なんです」
「今さらで悪い」
「悪いですよ! 契約は終わりだとおっしゃったのは、閣下でしょう!」
雪の街道で、喉が痛むほど叫んでしまった。淑女らしくない。わかっている。けれどもう無理だった。
レオンハルトは馬から降りる。雪を踏みしめ、一歩ずつ近づく。そのたび、こちらが逃げ場を失っていく。
「セラフィナが戻った時点で、私は君を手放さなければならなかった」
「なぜですか」
「婚約の名目が消える」
「それだけ?」
「……違う」
「では」
彼は馬車の扉に手をかけた。すぐそこ。近い。息が混ざる。雪の冷たさの中で、彼の吐息だけが妙に熱い。
「君が残れば、私は建前で守れなくなる」
「……」
「そうなる前に返すべきだと思った」
低い。けれど震えている。初めてだ。この人の声がこんなふうに揺れるのは。
「君を隣に置く理由が“契約”ではなくなる」
「それの、何が困るんですか」
「困る」
即答だった。
「私は君に甘くなる」
びくり、と心臓が跳ねた。
「もうなっているでしょう」
「足りない」
「……」
「君が泣けば抱き寄せたい。危ない目に遭えば誰にも見せたくない。眠れない夜は扉の前ではなく隣にいたい。そういうことだ」
雪の音がした。しん、と。世界が白く息を止める。
レオンハルトはずっと、本心を建前で包んできた。護衛。契約。囮。婚約者の演技。全部そうだ。けれど今、それがもう剥がれている。
「だが、そんな言葉で縛るつもりはない」
彼の手が、馬車の扉を握る。白い指。冷えているのに、そこだけ熱がある気がする。
「君は私の庇護がなくても立てる女だ」
「……はい」
「だから選べ、エレノア」
まただ。この人はまた、最後の一歩をこちらへ渡す。
ずるい。ずるいのに、そのずるさに救われる。
「条件があります」
「聞こう」
「今度は扉の前じゃなくて、ちゃんと隣にいてください」
「……ああ」
「あと、何でも契約や護衛のせいにするの、少しやめてください」
「努力する」
「善処では困ります」
「なら、約束する」
そこでようやく、エレノアは馬車を降りた。雪に足を取られそうになった瞬間、彼の腕が腰を抱く。強い。今まででいちばん迷いのない抱き寄せ方。けれど乱暴ではない。壊れものみたいに、でも絶対に離さない。
「閣下」
「レオンでいい」
「まだ早いです」
「では、レオンハルトで」
「長いですね」
「君が呼ぶなら何でもいい」
珍しく、彼がそんなことを言う。余裕がないのだろう。耳の先が少しだけ赤い。辺境伯閣下が。雪のせいだけではないはずだ。
エレノアは思わず笑ってしまった。涙のあとで笑うなんて、ひどい顔だろうに。彼はそれを見て、やっと少しだけ肩の力を抜く。
「帰るぞ」
「どちらへ?」
「私の屋敷へ」
「また契約ですか」
「違う」
「では?」
「迎えに来た」
短い。けれど十分だった。
そのあと彼は、人目もある街道の真ん中で、しかし誰にも見えにくい角度にエレノアを隠すように立ち、額へ口づけた。唇ではない。まだそこは急がない。焦らすように。大切にしまい込むみたいに。
その距離が、たまらなく甘い。
後日、セラフィナは王都で別の縁談へ預けられ、フォルディア家も立て直された。エレノアはすぐに辺境伯夫人にはならなかった。形だけ整えるのではなく、彼の領地で学び、自分の足で隣に立てるようになるためだ。
けれど辺境伯邸では、すでに誰もが知っていた。
朝食の林檎煮が彼女の皿にだけ多いことも、冬の外套が必ず彼女の肩に先にかかることも、会議の帰りに彼女が眠そうならさりげなく薬草茶が届くことも。
本人たちは何も言わない。殊にレオンハルトは、外では相変わらず冷たい顔をしている。
それでも、廊下ですれ違うときだけ、誰にも見えない角度で指先が袖口を整える。書類を渡すふりで手が触れ、離れる寸前だけ少し惜しむ。夜更けには、今度こそ扉の前ではなく、同じ部屋の暖炉のそばで二人きりになる。
そうして少しずつ、本当の距離が育っていく。
嘘の花嫁から始まった恋は、誓いの文句より先に、守り方で真実になった。
雪の季節が終わるころ、エレノアはようやく彼の名を静かに呼べるようになる。
するとレオンハルトは、あの冷たい顔のまま一拍遅れて目を細め、手袋越しではない指で彼女の頬をなぞるのだ。まるでそれが、誰にも見せない祝福であるみたいに。
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