その花嫁札は、氷の宰相が破り捨てた
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あらすじ
異世界恋愛ショートドラマ - その花嫁札は、氷の宰相が破り捨てた
本文
第一章
熱い。指先だけが、いやに。
王城の大広間で、わたし――リディア・ベルナールは、燃えかけた婚姻札を素手でつかんでいた。灰がぱらりと落ち、ざわめきが波のように広がる。貴族たちの視線は冷たいのに、ただひとり、玉座の脇に立つ男の眼差しだけが、氷みたいに静かだった。
「偽造です」
息を切らしながら言うと、婚約破棄を言い渡した伯爵家の嫡男が鼻で笑った。
「平民上がりの計算係が、今さら何を――」
「偽造です。紙ではなく、糊が。北工房製の星樹脂でしょう。婚姻庁の正式印なら、熱でこういう匂いにはなりません」
焦げた甘い匂い。蜂蜜に似て、少しだけ鉄っぽい。王都の正式書類には使われない接着剤だ。わたしは父の工房で、紙と薬液の匂いに育った。
ざわ、と空気が変わる。
そのときだった。玉座脇の男――王国宰相レオンハルト・ヴァレシュが、一歩だけ前に出た。黒い礼装の裾が、音もなく床をなでる。冷酷無比。王の犬。氷の宰相。そう呼ばれる人。
彼はわたしの手から婚姻札を取った。触れる寸前で、ほんのわずかに指先がかすめる。たったそれだけで、焼けた皮膚より胸の奥がひりついた。
「確かに偽造だ」
低い声。場が凍る。
伯爵家の嫡男が顔色を変えた。「で、ですが、その娘は先日、禁書庫にも近づいて――」
「近づかせたのは私だ」
短い言葉。断頭台みたいな静けさが落ちる。
え。と、声にならない息が漏れた。わたしは彼を見上げる。見返したその眼は冷たいのに、なぜか、わたしの火傷した指先ばかり見ていた。
「証人として保護する。連れて行け」
保護。都合のいい拘束だ、とすぐにわかった。けれど、衛兵がわたしの腕に触れる前に、レオンハルト様が自分の手袋を外して差し出した。
「巻け」
「……わたしに、ですか」
「ほかに誰がいる」
冷淡。なのに、その革手袋の内側には、うっすら体温が残っていた。じわり。じわり。心まで移るみたいに。
そのまま、わたしは宰相府へ連れて行かれた。
王城の北塔。風が強く、窓硝子の向こうで夕暮れの雲が千切れていく。簡素な執務室の長机に、レオンハルト様は偽造札を置いた。
「君は伯爵家の不正を知っている」
「知ってしまった、が正しいです」
「訂正の仕方が好きだな」
好きだな、なんて。甘くもない言葉なのに、耳の奥で妙に残る。
彼はわたしに椅子を勧め、自分は向かいに立ったまま書類をめくる。近い。近いのに遠い。手を伸ばせば袖に触れられるのに、あまりに整った距離で、それができない。
「なぜ助けたんですか」
「助けていない。使えるから手元に置く」
さらり。けれど机の下で、わたしの火傷した指に塗り薬の小瓶が押しやられてきた。視線は書類のまま。建前ばかり綺麗で、やることは優しい。ずるい。
「私に恩を感じなくていい」
「感じません」
「それは嘘だ」
「……少しだけです」
そう言うと、彼の口元がほんの少し、ほんの少しだけやわらいだ。気のせいかと思うほどに。
その夜、宰相府の客間へ案内される途中、廊下の角で何者かに襲われた。黒衣の刺客。喉元に光る短刃。
息が詰まる。けれど次の瞬間、わたしの肩がぐいと引かれ、背中が硬い胸にぶつかった。鼻先をかすめて刃が空を切る。レオンハルト様の片腕がわたしを包み、もう片方の手が刺客の手首を折った。乾いた音。一瞬。
「……っ」
「黙って」
耳元。低い囁き。震えたのは恐怖のせいだけじゃなかった。彼の息が耳殻をかすめて、体温が背中いっぱいに伝わって、逃げ場がなくなる。
刺客が倒れ、静寂が戻る。それでも彼はすぐには腕を解かなかった。わたしの鼓動が落ち着くまで、たぶん、待っていた。
「狙いは札だけではないようだ」
「わたしの口を塞ぎたいんですね」
「だろうな」
ようやく離れた手が、今度はわたしの頬に触れかけて、触れずに止まる。
「……泣くな」
「泣いてません」
「ならいい」
言いながら、彼は自分のハンカチをわたしの手に押しつけた。角に銀糸で刺繍されたヴァレシュ家の紋章が、月光の下で冷たく光る。
その冷たさが、どうしようもなく、やさしかった。
わたしはこのときまだ知らなかった。この人が守っているのは証人だけではなく、もっと厄介で、もっと個人的で、もっと引き返せない何かだということを。
次の夜、彼の沈黙はもう少しだけ近くなる。
第二章
宰相府で暮らす三日目、わたしはようやく真実の端を掴んだ。
偽造された婚姻札は一枚ではなかった。王都で密かに、娘たちの婚姻と相続をすり替える大規模な不正が進んでいたのだ。署名、印章、血統証明。女の人生を、紙切れ一枚で奪う仕組み。吐き気がした。
「怒っているな」
書庫で帳簿をめくっていたわたしに、レオンハルト様が言った。夜更けの書庫はランプの匂いがする。油と紙と、少しの眠気。彼は棚にもたれて腕を組み、まるで他人事みたいな顔をしている。
「当然です。女が泣いても、家が儲かればいいと思ってる連中なんて」
「そうだな」
短く相槌を打ってから、彼はわたしの手元の数字に視線を落とした。
「その計算式、違う」
「違いません」
「そこ、端数処理が甘い」
「……本当だ」
むっとして睨むと、彼は小さく息をこぼした。笑った、のだと思う。
彼がわたしの横に立つ。紙の上に長い指が伸び、数字を追う。肩が触れそうで触れない。髪が揺れるたび、彼の纏う冷たい香の気配がかすかに混じる。雪の夜みたいな、清潔で、ひどく落ち着かない匂い。
「君は優秀だ」
「急に褒めるのは反則です」
「急でもない。ずっとそう思っていた」
さらりと落ちた言葉に、喉が詰まる。ずっと。いつから。どこで。問い返す勇気は出なかった。代わりに、帳簿の数字がひどく霞んだ。
その晩、食事が運ばれてきた。宰相府の食卓は意外なくらい質素で、温かな鳥の煮込みと黒パン、薬草茶だけ。それでも、わたしの席には別皿で薄く蜜をかけた林檎の焼き菓子が置かれていた。
「誰の趣味です?」
「厨房だ」
「宰相府の厨房、わたしの好みを知ってるんですか」
「……さあな」
彼は無表情のままスープを飲んだが、耳だけがわずかに赤かった。そんなこと、気づくなと言わんばかりに。
かわいい、なんて思ってしまって、慌てて視線を落とす。冷酷な宰相に向ける感想ではない。ない、はずなのに。
けれど甘い時間は長く続かなかった。
不正の首謀者として浮かび上がったのは、わたしを追い落とした伯爵家だけではなく、王妃派の大貴族たちだった。宰相であるレオンハルト様は、表向きはその派閥と均衡を取っている。わたしを守れば、彼自身の立場が危うくなる。
「明日、私は王妃宮へ行く」
執務室でそう告げられたとき、胸が妙に冷えた。
「ひとりで?」
「君はここに残れ」
「囮にされるのではなく?」
「私が、君を?」
静かな声だった。なのに、それだけで空気がぴんと張る。
彼は机越しにこちらを見た。怒っているわけではない。ただ、傷ついた顔をする余裕すらないほど、抑え込んでいる目だった。
「君を危険の中心に置くくらいなら、全部捨てる」
その言葉の重さに、息が止まる。
でも次の瞬間、彼はいつもの冷たい顔に戻った。
「……失言だ。忘れろ」
「忘れません」
「困る」
「わたしも困ってます」
沈黙。ふたりぶんの呼吸だけが、やけに近くて遠い。
やがて彼は席を立ち、わたしの前まで来る。そして、触れる寸前で止めていた癖のある手が、今度はそっと、わたしの髪をひと房だけすくった。する、と指の間を滑る。触れ方があまりに丁寧で、胸の奥が甘く痛んだ。
「明日までだ」
「何がですか」
「私の自制が」
熱が、音もなく爆ぜた。
けれど翌朝、王城から届いた知らせは最悪だった。レオンハルト様が王妃派と手を結び、証拠を差し出す代わりに新たな縁談を受け入れた――そういう噂が、王都じゅうに広がったのだ。
客間の窓から見えたのは、王城へ向かう黒い馬車。彼が乗っている。隣には、公爵令嬢の影。
喉がからからに乾いた。
建前。立場。制約。わかっていたはずなのに。わかっていたのに、心だけがあまりに愚かで、勝手に期待して、勝手に傷ついていく。
夕方、わたしは宰相府を抜け出した。
これ以上、守られるだけの証人ではいられない。わたしにしか暴けない帳簿の暗号がある。父の工房で覚えた薬液反応で、偽造印は炙り出せる。だったら、自分の足で終わらせるしかない。
ただひとつだけ苦しかったのは、別れの言葉ひとつ残せなかったこと。
窓辺に置かれたままの、銀糸のハンカチ。そこに残る冷たい香りが、未練みたいに胸を刺した。
次にその手が触れるとき、たぶん、もう引き返せない。
第三章
雨。細く、冷たい。
わたしは旧婚姻庁の地下文書庫へ忍び込み、隠された原本箱を見つけた。薬液を垂らすと、印章の下にもうひとつの名が浮かび上がる。王妃の実弟。やはり黒幕は、あの一派だ。
「見つけたか」
背後から声がして、全身が強ばる。
振り返ると、黒い外套を濡らしたレオンハルト様が立っていた。怒っている。たぶん、とても。けれどそれ以上に、安堵している顔だった。見たことがないほど露骨に。
「どうして……」
「どうしても何も、君が消えた」
いつも整った声音が、少し荒れていた。
「噂は、わざと流したんですか」
「そうだ」
「わたしを遠ざけるために」
「違う。敵を動かすためだ」
彼は近づいてくる。雨の匂い、革の匂い、焦れた熱。距離が縮むたびに、逃げたいのに逃げたくない気持ちで、足が床に縫いつけられていく。
「公爵令嬢との縁談も?」
「断った」
「でも馬車に」
「わざと見せた」
そこでようやく、誤認の幕がひっくり返る。胸の奥で固まっていた絶望が、音を立てて崩れた。崩れたぶんだけ、涙が遅れて押し寄せる。
「ひどい……」
「ああ」
「最低です」
「そうだな」
否定しないまま、彼はわたしの頬に触れた。今度は止まらない。親指が涙をぬぐう。温かい。こんなに冷たい人の指が、どうしてこんなにやさしいのだろう。
「だが、もう二度と君を置いていかない」
その瞬間、地下の扉が蹴破られた。王妃の実弟と私兵たち。刃が抜かれ、文書庫の空気が一変する。
「証拠も娘も、ここで消せ」
怒号。駆ける足音。
わたしは咄嗟に薬液瓶を床へ投げた。白い煙がぶわっと広がり、兵たちの視界を奪う。父の工房仕込みの即席煙幕。レオンハルト様がわたしを背に庇い、片手で剣を抜いた。狭い地下で銀が閃く。速い。静か。容赦がない。
それでも敵は多い。わたしは原本箱を抱えたまま、床に散った油灯を蹴り、煙に紛れて裏口の閂を落とした。逃がさない。終わらせる。
「リディア、下がれ!」
「嫌です!」
叫んだ瞬間、飛んできた短剣が彼の腕をかすめた。赤が散る。頭が真っ白になる。
次の瞬間には、わたしは彼の前に立っていた。抱えていた原本箱を盾にして、二本目の刃を受ける。箱が割れ、書類が舞い上がる。白い紙吹雪。ひどく綺麗で、ひどく最悪。
「君は……!」
「守られてばかりは性に合いません」
震える声で笑ってみせると、彼の顔が崩れた。ついに。氷が割れるみたいに。
それからは早かった。駆けつけた近衛が私兵を拘束し、黒幕は原本とともに押さえられた。事件は終わる。女たちから奪われた婚姻と相続も、取り戻される。
なのに、わたしの胸だけは終わらなかった。
地下文書庫の片隅。騒ぎのあとの静寂の中で、レオンハルト様はわたしの手首を取った。強くではない。逃がさない程度に、確かに。
「君には礼をしなければならない」
「ハンカチで済ませる気ですか」
「それでは足りない」
低い声が、近い。雨に濡れた睫毛の先まで見える距離。呼吸が混ざる。指先が震える。
「私はずっと、君を遠ざける理屈ばかり探していた」
彼は苦く息を吐く。
「身分。政敵。年齢差。立場。全部、本当だ。だが本当であることを、言い訳にもしていた」
そして、わたしの額に、自分の額をそっと触れさせた。こつん。子どもみたいな、でもあまりに親密な距離。
「君が傷つくくらいなら、権力も名誉も要らない。君が他の男の名で呼ばれるくらいなら、この国の均衡すらどうでもよくなる。――困ったことに」
最後の一言だけ、少し自嘲めいていて、なのにどうしようもなく甘い。
わたしは泣きそうに笑った。
「宰相様、それは告白です」
「違う」
「え」
「宣言だ」
言うなり、彼はわたしの手の甲に口づけた。触れるだけ。なのに熱い。あまりに丁寧で、あまりに執着の匂いがして、膝が抜けそうになる。
「今すぐ婚約はしない」
「……はい」
「君の仕事も、名も、選ぶ権利も奪わない」
「はい」
「その上で、私を選ぶまで口説く」
心臓が、うるさい。うるさい、うるさい。
わたしは彼の外套の端をつかんだ。自分から。少しだけ、でも確かに。
「では、条件があります」
「言え」
「二度と、わざと誤解させないでください」
彼は目を細め、わたしの指に自分の手を重ねた。包まれる。ぴたりと。やっと。
「努力する」
「絶対じゃないんですか」
「君の前では、ときどき理性が役に立たない」
そんなことを、あの氷の宰相が真顔で言う。ずるい。ほんとうに。
雨はもう止んでいた。地下の小窓から差す朝の光が、散らばった書類の白をやわらかく照らす。失われるはずだった名が、人生が、未来が、ひとつずつ戻ってくる色だった。
その中で、彼は誰にも見せない手つきで、わたしの火傷の痕を親指でなぞる。最初の日に守られた場所。ずっと覚えていたみたいに。
言葉は少ない。けれどもう、充分だった。
わたしはきっと、この人に何度でも選び直される。
そしてたぶん、わたしのほうも。何度でも。
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